第九話 気づいたら、体が動いていた。
「――夢丘、あなたも来るわよ」
朝一番、執務室に呼び出された私は、その一言に固まった。
「え、私がですか? 迷宮に?」
「そう」
ビレイ様は、地図を片手にそう言い切った。有無を言わせない口調だった。
「あの、私、戦えませんし、迷宮のこととか、何も分からなくて……」
「戦力として連れていくわけじゃないわ。適性を見たいだけ」
適性。何の適性なのか、聞いても教えてもらえる気がしなかった。
(――こういう時、大抵ろくなことにならない)
乙女ゲームの知識が、頭の中で警鐘を鳴らす。ヒロインが唐突にダンジョンへ連れていかれる展開は、大抵、何かの試練か、あるいは陥れられるための布石だ。
でも、ビレイ様の顔を見る限り、そういう底意地の悪さは感じられなかった。
ただ、いつもより真剣な顔をしていた。それだけが、少し怖かった。
✶
迷宮の入り口は、屋敷から馬車で半日ほどの場所にあった。
石造りの巨大な穴が、大地にぽっかりと口を開けている。冷たい風が、奥から絶えず吹き上げてきていた。
護衛の人たちに囲まれながら、私たちは第一層、第二層と、順調に足を進めた。
これまで解体してきた場所だから、道もある程度整備されている。壁には淡く光る苔のようなものが生えていて、幻想的というより、少し不気味だった。
問題は、その先だった。
「――ここから先が、未調査区画です」
護衛の一人が、緊張した声で言った。
道らしい道はなくなり、剥き出しの岩肌が続いている。空気が、明らかに変わった気がした。
(怖い)
単純に、怖かった。
でも同時に、こんな場所に足を踏み入れているという事実に、少しだけ胸が高鳴っている自分もいた。
(――やっぱり、こういうのって、ワクワクもしちゃうんだ)
怖いのとワクワクするのが同時に来る感覚は、初めてじゃなかった。この世界に来てからずっと、そうだった。
✶
しばらく進んだところで、ビレイ様が足を止めた。
「――ここね」
壁の一部が、他と違う色をしていた。灰色の岩肌の中に、うっすらと青みがかった鉱脈が走っている。
「魔素の反応が、他の層とは比較にならないほど強いわ」
護衛の人たちが、慎重に周囲を調べ始めた。
私は、少し離れた場所で、ただその様子を見ていることしかできなかった。
役に立てない自分が、少しもどかしかった。
「あ――」
岩肌の隙間に、何かが埋まっているのが見えた。
金属とも、鉱石とも違う、見たことのない質感の欠片だった。表面に、規則的な模様のようなものが刻まれている。
「ビレイ様、あそこに、何か」
私が指差すと、ビレイ様がすぐにそちらへ視線を向けた。
「――これは」
護衛の一人が慎重に取り出したそれを、ビレイ様は手のひらに乗せてじっと見つめた。
「見たことのない素材ね。でも、どこか……」
言葉を濁したビレイ様の目が、一瞬だけ、私が今も肌身離さず持っているスマホの方を見た気がした。
(――もしかして、私のスマホと関係あるものだったり?)
まだ確証はない。でも、そう思わせるだけの何かが、その欠片にはあった。
✶
異変が起きたのは、その直後だった。
突然、足元の地面が、低い唸り声のような音を立てた。
「――退避!」
護衛の誰かが叫んだ。
次の瞬間、天井の岩が、ビレイ様の頭上めがけて崩れ落ちてくるのが見えた。
ビレイ様は、欠片に気を取られていて、反応が一瞬遅れた。
(――駄目、これ、絶対、フラグ!)
考えるより先に、体が動いていた。
私は、無我夢中でビレイ様の腕を掴み、力任せに引いた。
二人分の体重が、もつれるように地面へ倒れ込む。
直後、さっきまでビレイ様が立っていた場所に、大きな岩の塊が轟音を立てて落ちてきた。
「――っ」
埃と衝撃で、しばらく何も考えられなかった。
「大丈夫ですか! ビレイ様、怪我は」
我に返って、私は真っ先にそう聞いていた。
ビレイ様は、少しの間、呆然とした顔で私を見ていた。
「……大丈夫よ」
その声は、いつもより少しだけ、頼りなかった。
✶
落ち着いた後、護衛の人たちが崩落箇所の安全確認を進める中、私はへたり込んだまま、自分の手を見つめていた。
まだ震えていた。
あの一瞬、自分がどうやってビレイ様を引っ張ったのか、正直よく覚えていない。
乙女ゲームのヒロインなら、こういう時、自然に体が動くものだと相場が決まっている。でも私は、乙女ゲームのヒロインじゃない。ただの、力もない、平凡な女子高生のはずだった。
(――なのに、なんで、あんなに簡単に動けたんだろう)
うまく説明できない違和感が、胸の中に残っていた。
「――あなた」
ビレイ様が、私の前にしゃがみ込んだ。
「今のは」
「え、あ、その、気づいたら、体が勝手に……すみません、勝手に触れてしまって」
しどろもどろに謝る私を、ビレイ様はしばらく無言で見つめていた。
「謝る必要はないわ。助けられたのは私の方よ」
その言葉は、いつもの淡々とした調子とは、少し違って聞こえた。
「あの、ビレイ様、怖くなかったですか」
「怖い、というより」
ビレイ様は、崩れ落ちた岩を一瞥した。
「――損失を、正確に見誤っていたわ。危険度の見積もりが甘かった。反省するべき点ね」
いつもの言葉に戻っていた。でも、その口調には、微かな照れくささのようなものが滲んでいる気がした。
「あの、私、役に立ちましたか?」
思わず聞いてしまう。
「ええ」
短い答えだった。でも、それだけで、なぜか十分だった。
✶
その日の調査は、崩落箇所の安全が確保できないという判断で、一旦切り上げることになった。
屋敷への帰り道、馬車に揺られながら、私はさっきの一瞬を何度も思い返していた。
考えるより先に体が動いた、あの感覚。
偶然だと片付けるには、あまりにも都合が良すぎる気がした。
まるで、誰かを守ろうとする気持ちが、そのまま力に変わったみたいに――
(――さすがに、都合が良すぎる考えかな)
自分でその考えを笑い飛ばそうとしたけれど、完全には笑い飛ばせなかった。
向かいの席で、ビレイ様は例の欠片を、大切そうに布に包んで懐にしまっていた。
「あの欠片、何か分かりそうですか?」
「まだ分からないわ。でも――」
ビレイ様は、窓の外を見ながら続けた。
「無駄にはしない。必ず、使い道を見つけるわ」
その横顔は、いつもの「経営者」の顔とは、少しだけ違って見えた。
揺れる馬車の中、私はもう一度、自分の手のひらを見つめた。
怖かった。今も、まだ少し震えている。
でも、それと同じくらい、どこか誇らしいような気持ちも、確かにあった。
この世界には、まだ私の知らないことが、たくさんある。
それが、怖い。
でも――ほんの少しだけ、楽しみでもあった。
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