第八話 生命線、四割の代償。
馬車の音が完全に消えてから、私は執務室に戻った。
扉を閉めた瞬間、肩から力が抜けそうになる。それを、意志の力だけで押しとどめた。
「――お疲れ様でした」
控えていたヴァンスが、静かに言った。
「疲れてなんかいないわ」
「そうですか」
ヴァンスは、それ以上追及しなかった。ただ、いつもより丁寧な手つきで紅茶を淹れ直している。
私は椅子に腰を下ろし、書類の束を引き寄せた。
「――第三層以降の採掘権、あの女、本気で寄越せと言っているの」
「リディア様は、以前から繰り返しお伝えになっている要求です。今回が初めてではありません」
「知っているわ」
分かっている。分かっているから、腹立たしい。
書類をめくる手が、いつもより少し乱暴になった。
✶
「――解体ラインの、今期の収支を」
「はい」
ヴァンスが、別の書類を差し出す。
数字を追う。何度も見た数字のはずなのに、今日はやけに重く見えた。
迷宮の第三層以降。あそこの魔素含有率だけが、他の解体ラインより頭一つ抜けている。それを他家の技術で処理し、精製した魔素結晶を売却する。それがうちの主収益だ。
装飾も格式も削って、実利だけを積み上げてきた。
その実利の柱が、あの一つの採掘権に集中している。
「もし、あそこを譲渡すれば」
「来期の収益は、およそ四割減の見込みです」
四割。
その数字を聞いても、表情には出さなかった。出すわけにはいかない。
ただ、机の上で組んでいた指先に、無意識に力がこもった。爪の先が、手の甲に浅く食い込む。
「先代の借入金の返済期限は」
「三ヶ月後です」
書類の隅の数字を、指先でなぞる。
父が遺したものは、爵位と、屋敷と、それから返しきれていない借金だった。
合理主義。実利優先。そう名乗ってはいるけれど、その実態は、崖の縁で綱渡りを続けているだけとも言える。
(――資産価値、リスク管理、損益分岐)
いつも通りの言葉で片付けようとした。でも、今日はその言葉たちが、いつもより空々しく響いた。
「――お嬢様」
ヴァンスが、珍しく間を置いてから続けた。
「リディア様が、お父上のことに触れられていましたが」
「聞いていたのね」
「控えの間からは、多少」
私は、書類から目を上げずに答えた。
「先代は、商才で成り上がった人よ。ポテンティオール家のような、血で継いだ爵位じゃない。それが、向こうにとっては気に入らないの」
「格式のない成り上がり、と」
「そう。あの家にとって、うちみたいな家門がのさばっていること自体が、許せないんでしょうね」
言いながら、自分の声が、いつもより固いことに気づいた。
「リディア様ご自身は、そのことをどうお考えなのでしょうか」
「知らないわ、そんなの」
書類を一枚、乱暴に机へ置いた。
「血統への誇りを本気で信じているだけの、頭の固い令嬢よ。私とは、話す言語が違う」
そう言い切った瞬間、なぜか自分の言葉に、小さな違和感を覚えた。
本当に、それだけだろうか。
(――あの人も、何かに追い詰められているような)
採掘権を、あそこまで執拗に要求する理由。それは単なる意地悪ではなく、もっと切実な事情がある気がした。
でも、今の私には、そこまで踏み込んで考える余裕がない。
「その考えは、今は保留にするわ」
「かしこまりました」
✶
「――ヴァンス。第三層より下の未調査区画について、報告書は」
「先月提出されたものが最新です。第五層以降は、危険度の指標が急上昇しており、通常の調査班では手が出せない状態と」
私は椅子の背もたれに体を預けた。
既存の採掘権だけを守っていても、いずれ先細る。リディアがそれを狙ってくる限り、なおさらだ。
なら、答えは一つしかない。
「新しい資源を見つけるしかないわね」
「未調査区画への、正式な調査隊派遣ということでしょうか」
「そう。危険度が高いなら、それだけ手つかずの価値が眠っている可能性も高い」
ヴァンスが、少し表情を曇らせた。
「危険を伴います。それに、人員も予算も、決して余裕があるわけでは」
「分かっているわ。だからこそ、今動かないと手遅れになる」
私は、机の引き出しから古い地図を取り出した。
迷宮の断面図。第三層までは、これまでの解体作業で何度も踏破している。その下は、ほとんど白紙のままだった。
「調査隊の編成を進めて。護衛には、屋敷の者の中から適任を」
「承知しました」
ヴァンスが一礼して、その場を離れかけた。
「――それと」
「はい」
「夢丘も、同行させるわ」
ヴァンスが、一瞬だけ動きを止めた。
「保護対象を、危険区域へ、ですか」
「あの子は、この世界の常識に染まりきっていない。何を見て、何に気づくか、予測がつかない」
それは半分本当で、半分は――違う理由だった。
言葉にすると、また分からなくなりそうな理由。
「屋敷に置いていく方が、安全ではないでしょうか」
「安全に置いておくことと、有用に活用することは、別の判断基準よ」
いつもの調子で言い切ったつもりだった。
でも、口にした「有用に活用」という言葉が、自分の耳にすら、ひどく取り繕った響きに聞こえた。
ヴァンスは、何も言わなかった。ただ、私を一瞥してから、静かに一礼した。
「――かしこまりました」
その一言だけを残して、部屋を出ていった。
✶
一人になった執務室で、私は再び地図を広げた。
迷宮の未踏区画。危険度不明。価値は未知数。
まるで、あの日引き取った少女と同じだ。
資産価値、リスク評価。そう説明すれば、確かにそれで筋は通る。
でも――
(――ただの資産に、なんで、これほど気にかけているの)
自分の中から出てきた問いに、自分で答えられなかった。
窓の外を見る。もう日が傾き始めていた。
リディアの敵意も、崩れかけた生命線も、今日一日で片付くような問題じゃない。
でも、なぜか、それらすべてよりも先に、一つの光景が頭に浮かんでいた。
紅茶を注ぐ手が震えていたあの子の姿と、庇うつもりなどなかったはずの、自分自身の口から出た言葉。
それが何を意味するのか、答えを出すのは、まだ先でいいと思った。
今は、生き延びることが先だ。
――生命線を守るのは、資産のためのはずだった。
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