第七話 本物の悪役令嬢、参上。
「本日、ポテンティオール公爵家の方々がいらっしゃいます」
朝食の後片付けをしていた私に、ヴァンスさんがそう告げた。
「あ、リディア様でしたっけ。ビレイ様と、その」
「ええ。夢丘様には、当日の給仕をお願いしたく」
「わ、私がですか?」
声が裏返った。慌てて言い直す。
「わ、私がですか……?」
「新人には荷が重いかもしれませんが、他の者は別の準備で手が回りません。作法については、これから簡単にご説明します」
ヴァンスさんの口調は、いつも通り淡々としていた。でも、心なしか、いつもより少しだけ早口な気がした。
(この人でも緊張することあるんだ)
その事実だけで、今日という日の重さが少し伝わってきた。
✶
午後、正面玄関に馬車が着いた音がした。
私は所定の位置――大広間の壁際で、粗相のないよう息を潜めていた。
扉が開く。
最初に入ってきたのは、護衛らしき屈強な男が二人。次に、豪奢なドレスに身を包んだ女性が、まるで舞台の主役のように優雅な足取りで現れた。
銀に近い金髪。氷のように整った顔立ち。値踏みするような視線が、部屋全体を一周する。
(――来た)
私は息を呑んだ。
(これ、絶対そうだ。乙女ゲームに出てくる、本物の悪役令嬢の登場シーンだ)
これまでのビレイ様は、何をどう見ても型に当てはまらなかった。経営指導だったり、経営用語で本音が漏れたり、技術班に振り回されたり。
でも、目の前のこの人は違う。歩き方から、視線の配り方から、すべてが「型」そのものだった。
「――お久しぶりね、ビレイ」
リディア様がそう言って、口元にだけ笑みを浮かべた。目は少しも笑っていなかった。
「ご丁寧に、リディア様」
迎えたビレイ様の声は、いつも通り平坦だった。
「相変わらず、随分と地味な屋敷ね。エルトラル家ほどの名門なら、もう少し格式を保つ努力をなさったらどう?」
「格式より、実利を優先しているだけよ。無駄な装飾に予算を割く余裕はないの」
「あら、余裕がない、とご自分でおっしゃるのね」
リディア様の声に、はっきりとした嘲りが混じった。
(きた……! これぞ、正統派の煽り!)
私は壁際で、思わず拳を握りしめていた。
乙女ゲームなら、ここで主人公が言い返せずに俯くシーンだ。でも、ビレイ様は表情ひとつ変えなかった。
「言葉の綾よ。予算配分の話をしているの」
「相変わらず、数字の話ばかり。血の話をしましょうよ、ビレイ。あなたのお父上が、どういう経緯で爵位を得たか――覚えていて?」
空気が、少しだけ張り詰めた。
「昔話は結構よ。今日は、迷宮利権の調整についての話だったはずだけれど」
ビレイ様が、話題を強引に引き戻す。
「せっかちね。まあいいわ、本題に入りましょうか」
リディア様は優雅に椅子へ腰掛け、扇を軽く開いた。
「エルトラル領の東側、迷宮の第三層以降の採掘権。あれ、うちに譲っていただきたいの」
「お断りするわ」
即答だった。
「あら、理由も聞かずに?」
「理由を聞く価値がないもの。あそこは、うちの解体ラインの生命線よ」
二人のやり取りは、私にはよく分からない専門用語も混じっていたけれど、雰囲気だけは痛いほど伝わってきた。
殺し合いこそしていないけれど、これは間違いなく戦いだった。
(本物の悪役令嬢が、本物の敵意で、本物のビレイ様を潰しにきてる)
給仕のタイミングを見計らいながら、私は内心で震えていた。
紅茶を注ぐ手が、少しだけ震えた。
「――あら」
リディア様の視線が、不意に私に向いた。
「新しい侍女ね。見ない顔だわ」
「え、あ、その……」
急に話を振られて、頭が真っ白になる。
「夢丘陽花里と申します。新人ですので、至らぬ点はご容赦を」
助け船を出すように、ヴァンスさんが横から言い添えてくれた。
「ふぅん」
リディア様は、私を上から下まで一瞥した。
値踏みするような視線。でも、ビレイ様が確保された時にした視線とは、何かが違う気がした。
ビレイ様のあれは――今にして思えば、心配していたのを、無理やり別の言葉に変換していたような。
でも、この人のこれは、ただの興味本位だ。ものを見るような目。
「あなた、ビレイの躾はちゃんと受けているの? 主人がこうも粗野だと、下の者まで型が崩れるのではなくて」
「粗野で結構よ。躾のなっていない人材が、無駄な礼儀作法に時間を割かれるより、よほど生産性が高いわ」
ビレイ様が、私の代わりにそう答えた。
驚いて顔を上げる。
「へえ」
リディア様が、興味なさそうに視線を戻した。
「相変わらず、変な理屈をこねる子」
「理屈じゃなくて、事実よ」
その短いやり取りの間、私は何も言えないまま、ただ紅茶のポットを抱えていた。
庇われた、というほど大げさなものじゃない。たぶん、ビレイ様にとってはただの効率の話だ。
それでも、なぜか胸の奥が、少しだけあたたかくなった。
✶
交渉は、結局その場では決着がつかなかった。
「今日のところは、これで。またお伺いするわ」
リディア様はそう言って席を立った。去り際、もう一度だけ私を見た。
「――せいぜい、長く仕えられるといいわね。あの人の下で」
含みのある言い方だった。
「意味が分からないんだけれど」
「さあ? ただの世間話よ」
優雅に一礼して、リディア様は屈強な護衛たちと共に去っていった。
馬車の音が遠ざかるまで、部屋の空気は張り詰めたままだった。
「――ふう」
馬車が完全に見えなくなったところで、ビレイ様が小さく息を吐いた。
その一瞬だけ、いつもの平坦な表情に、微かな疲労がにじんだ気がした。
「あの、ビレイ様、大丈夫ですか?」
思わず声をかけていた。
「何が」
「その、リディア様の言い方、結構その、きつかったので……」
ビレイ様は、一瞬だけ私を見た。
「慣れているわ。昔からのことだもの」
そう言う声は、いつもと変わらず平坦だった。
でも――採掘権の話をしていた時の、あの即答の速さ。あれは、本当に「余裕があるから」だったんだろうか。
(迷宮の採掘権が、生命線……)
その言葉が、なぜか耳に残っていた。
譲れない、生命線。それはつまり、譲らなければ立ち行かない、ということでもある。
(――エルトラル家って、思ってたより、危ないところに立ってるんじゃ)
乙女ゲームの知識で身構えていた「悪役令嬢の敵意」は、今日、確かに本物だった。
でも、それだけじゃない気がした。
リディア様の敵意の裏側に、何かもっと切実な、お金や数字の話では片付かない何かがある気がして――でも、それが何なのか、私にはまだ分からなかった。
「――夢丘様」
ヴァンスさんが、静かに声をかけてきた。
「はい」
「今日は、よく務めてくださいました」
「あ、いえ、私、何もできてなくて……途中、固まっちゃいましたし」
「いいえ」
ヴァンスさんは、珍しくはっきりと首を横に振った。
「あなたがいたことは、無駄ではなかったと思います」
その言い方の意味を、私はまだ、うまく飲み込めていなかった。
ただ、遠ざかっていく馬車の轍を見つめながら、これまでの「型が外れ続ける日常」とは違う、何か重たいものが、この屋敷の奥にまだ隠れている気がしてならなかった。
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