第十話 本当に、ただの交渉?
迷宮での一件から、ちょうど一週間が過ぎた頃だった。
「――お嬢様」
執務室に入ってきたヴァンスの顔色が、いつもと違った。
「ポテンティオール家より、正式な使者が参りました」
「また採掘権の話? 先に断ったはずよ」
「いいえ。今回は、交渉ではありません」
ヴァンスが差し出した書状に、私は目を通した。
格式張った文面の中に、たった一つ、これまでとは違う単語が混じっている。
――最後通牒。
「……本気なの、あの家は」
自分の声が、思ったより低く響いた。
「表向きの理由は、迷宮利権を巡る長年の不当な独占とのことです。ですが」
「本当の理由は違う、と言いたいのね」
「はい。おそらく、我が家の返済期限が近いことを、向こうも掴んでいます」
崖の縁に立っているのを、向こうも知っている。だから今、押せば折れると踏んだ。
合理的な判断だ。忌々しいけれど、あの家にも、それくらいの計算はできるらしい。
「――迷宮の一件も、無関係じゃないでしょうね」
未調査区画で見つけたあの欠片。噂だけでも、あちらの耳に入っていておかしくない。
新しい資源を見つけられる前に、叩き潰す。それも、狙いの一つのはずだった。
「リディア様が、あの日、あなたに何かおっしゃっていたわね」
ヴァンスが、静かに頷いた。
「『せいぜい、長く仕えられるといいわね』、とのことでした」
あれは、ただの嫌味じゃなかったのかもしれない。
もっと具体的な、時間の期限についての皮肉だった可能性がある。
「――笑えないわね」
私は書状を机に置いた。
✶
「夢丘様を、お呼びしましょうか」
「いいえ。まだ呼ばなくていいわ」
言いかけて、少し考え直す。
「――いえ、呼んで」
しばらくして、陽花里が執務室に現れた。何かを察しているのか、表情が硬い。
「あの、ヴァンスさんに呼ばれて……何かあったんですか?」
「ポテンティオール家が、正式に戦争を仕掛けてきたわ」
できるだけ、いつも通りの声で言った。動揺を見せる必要はない。
「せ……戦争……?」
陽花里の顔から、みるみる血の気が引いていくのが分かった。
「詳しい経緯は今は必要ないわ。あなたには、今夜のうちに避難してもらう」
「避難って、その、私だけ?」
「非戦闘員は全員よ。屋敷の地下に、防護用の避難区画がある。しばらくはそこで待機してもらうことになるわ」
「あの、私、何かお手伝いできることは」
「ないわ」
即答した。
陽花里が、傷ついたような顔をした。
「あなたに求めているのは、生きて、そこにいてくれることだけよ」
それ以上の説明をするつもりはなかった。
でも、自分の口から出た言葉が、思っていたよりも柔らかい響きを持っていたことに、少し戸惑った。
「……分かりました」
陽花里は、それだけ言って、深く頭を下げた。
「でも、心配は、させてください。それくらいは、させてもらえますか」
その一言に、何と答えればいいのか分からなかった。
「――好きにすればいいわ」
素っ気なく返すのが、精一杯だった。
✶
陽花里が地下へ向かうのを見送った後、私は執務室の窓から、遠く霞む平野を見た。
まだ何も見えない。でも、明日にはあの地平線の向こうから、軍勢が姿を現す。
「――ヴァンス」
「はい」
「防衛計画を最終確認するわ。それと」
私は、机の引き出しから一冊の資料を取り出した。表紙には、走り書きでこう記されている。
――プロジェクト:不純物処理の工程表。
迷宮利権を巡る紛争が長引いた場合に備えて、以前から密かに練っていた防衛戦略の名だった。まさか、こんなに早く使うことになるとは思っていなかった。
「これで進めるわ。感傷に浸っている暇はない」
「かしこまりました」
ヴァンスが一礼して、部屋を出ていく。
一人になった執務室で、私はもう一度、地平線に目をやった。
資産価値、リスク管理、投資判断――そういう言葉で、この状況を片付けられたら、どれほど楽だっただろう。
でも今は、その言葉の中に、片付けきれない何かが確かに混ざっていた。
地下で震えているだろう陽花里の顔を思い浮かべながら、私は静かに拳を握った。
――これは、いつも通りの交渉のはずだった。
そのはずが、いつの間にか、守るべきものが増えている。
それに気づいた自分に、私はまだ、うまく説明をつけられずにいた。
私は戦域マップを広げ、冷ややかな目でそれを見下ろした。
次に届く報告が、この戦いの本当の始まりになる。
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