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第四話 名前は、もう覚えていた。

「――というわけで、正式にお引き受けいただけますでしょうか、エルトラル様」


バベル社の渉外担当、アーウィンと名乗った男は、書類の束を私の机に滑らせながら、そう言った。


人当たりのいい笑みを浮かべているが、目の奥は笑っていない。この手の人間の扱い方は、慣れている。


「保護対象一名。身元、能力、いずれも未確定。表向きは新人メイドとして、当家で預かる。それが貴社の要望ね」


「はい。目立たず、かつ確実に管理できる場所となると、エルトラル様のお屋敷以上の適任はございません」


持ち上げる言葉には、いちいち反応しない。


問題は、この話が私にとって「利益」になるかどうかだけだ。


「貸しを一つ、という理解でいいかしら」


「もちろんです。バベル社としても、今回の一件は正式な記録に残したくない事情がございます。エルトラル様に頭を下げる形になることは、望むところではございませんが……」


「率直で助かるわ」


私は書類の一枚を手に取る。


保護対象の詳細――と呼ぶには、あまりに情報が少ない資料だった。年齢、推定される出身、そして所持していたという「未知の通信端末」の簡単な図解。


「この端末について。技術班による分析は?」


「まだです。素材からして未知数が多く、我々の技術班でも手を焼いています。もし御社の技術班に、この分析を含めてお願いできるようであれば――」


「見返りは?」


アーウィンは、少し困ったように笑った。


「バベル社の迷宮攻略データベースへの、優先アクセス権を」


悪くない取引だった。


うちの解体ラインが喉から手が出るほど欲しがっている情報だ。人材の管理を一つ引き受けるだけで、それが手に入るなら安いものだった。


それに――もし今ここで断れば、バベル社は自前の設備で、あの端末を徹底的に分解するはずだった。異界の技術は、一度向こうの研究棟へ運び込まれれば、まず持ち主の手には戻らない。似たような話は、これまでにも何度か耳にしている。


うちで預かる形にしておけば、少なくとも、返すか返さないかを決める権利だけは、こちら側に残る。


そこまで考えて、私は自分の思考に小さく引っかかった。


(――別に、あの子のために、というわけじゃないわ)


単なるリスク管理。情報の独占。それだけの理由のはずだった。


「分かったわ。引き受けましょう」


「ご英断、感謝いたします」


「感謝は結構よ。契約書を」


私は手早くサインを済ませ、書類を突き返した。


アーウィンは満足げに一礼して、部屋を出ていった。


✶


扉が閉まった後、私はしばらくその場で、資料の一枚――保護対象の顔写真らしき、粗い線描を見つめていた。


目を丸くして、状況が分からないまま立ち尽くしている少女。両手で、何か板のようなものを胸元に抱え込んでいる。おそらく、あの端末だろう。逃げることも、隠すこともできないまま、それだけはしっかりと握りしめていたらしい。


資産価値としては未知数。リスクとしては、正体不明という一点だけで警戒に値する。


教科書通りに評価すれば、それだけの案件だった。


「――お嬢様」


控えていたヴァンスの声で、我に返る。


「なに」


「保護対象の受け入れについて、詳細をどこまでお伝えいたしましょうか」


「表向きの説明で構わないわ。新人メイドとして採用する、それ以上でも以下でもない」


「かしこまりました」


ヴァンスは一礼したが、その場を動かなかった。


「他に何か?」


「……いえ。ただ」


珍しく、言葉を選ぶような間があった。


「先ほどの資料、随分と長くご覧になっていらしたので」


「棚卸しには相応の時間がかかるものよ。当然でしょう」


そう言い返しながら、自分の声が、いつもより少しだけ早口だったことに、私自身は気づいていなかった。


「――保護対象は、確保された時、随分と怯えていたと聞きました。それでも、初めて会う人間に自分の名前をきちんと名乗ったと」


ヴァンスが、静かにそう付け加えた。


「それが?」


「いえ。優秀な人材の兆候かと思いまして」


その言い方は、報告というより、独り言に近かった。


私は資料を机の引き出しへしまいながら、素っ気なく答える。


「そうね。使える人材なら、それに越したことはないわ」


使える人材。


その言葉を口にした瞬間、なぜか胸の奥で、何かが小さく引っかかった。


資産価値。リスク評価。投資判断。


いつもならそれで説明がつく感情のはずなのに、今日はその言葉の輪郭が、少しだけぼやけて見えた。


(――別に、それだけの理由じゃ、ないのかもしれない)


その考えを、私はすぐに頭の隅へ追いやった。今はまだ、認める理由がない。


「下がっていいわ、ヴァンス」


「かしこまりました」


一礼して部屋を出ていく背中を見送りながら、私はもう一度、引き出しの中の資料に目をやった。


保護対象、夢丘陽花里。


名前を思い出すのに、資料を見返す必要は、もうなかった。


――――――――

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