第三話 本音は、経理から漏れるらしい。
扉を開けた先に、執務机があった。
窓から差し込む光の中、書類の山に半分埋もれるようにして、ビレイ様が顔を上げる。さっきの商談を思うと、正直まだ心臓が落ち着いていない。
「――夢丘陽花里、で合っている?」
最初の一言が、それだった。歓迎の言葉でも、値踏みするような視線でもない。まるで在庫の品番でも確認するみたいな声だった。
「は、はいっ、夢丘陽花里です! 本日よりお世話になります、精一杯務めさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします!」
自分でも分かるくらい、声が上ずっていた。
保護された時にも一度、名前だけは名乗った気がする。でも、あの時はお互い数語しか交わさなかったし、向こうもろくにこちらを見ていなかった。
ちゃんと顔を合わせて話すのは、たぶんこれが初めてだ。
さっきの光景がまだ頭にこびりついている。あれが「叱責」ではなく「経営指導」だったとして、じゃあ本物の「叱責」はどれくらいの威力なんだろう、という恐怖が拭えない。
ビレイ様は、そんな私を一瞬だけ見て、それからまた手元の書類に視線を戻した。
「そんなに硬くならなくていいわ。今のところ、あなたに求めているのは基本的な業務の遂行だけ」
「は、はい……」
「メイド業務の詳細はヴァンスから聞いて。分からないことがあれば、彼を通して私に聞いて構わない」
淡々とした説明だった。感情の起伏がまるでない。怖いというより、機械の応答を聞いているみたいだ。
でも、それだけに、次の質問にどう答えればいいのか分からなくなる。
「あの……」
「何?」
「その、こんな急に採用していただいて……ちゃんと務まるか、少し緊張していて」
半分は本当の気持ちで、半分は、この人がどういう反応をするのか知りたくて言った台詞だった。
乙女ゲームなら、ここで意地悪な返しが来る。「務まらなければ、それなりの処分があるだけよ」みたいな。
ビレイ様は、ペンを一度机に置いた。
「初期稼働時の緊張は、リスクとして許容範囲よ」
「……え?」
「新しい環境に配属された人材が、最初から百パーセントの稼働率を出せるとは思っていない。むしろ、そこで無理に取り繕われる方が、後々の損失リスクが高い」
淡々と、まるで会議資料を読み上げるような口調だった。
でも、言っている内容は――
「あなたには、できれば長期的な稼働を期待しているの。だから今は、慣れることに時間を投資して」
一瞬、部屋の空気が止まった気がした。
(今の、なんて言った……?)
「長期的な、稼働……」
思わず繰り返してしまう。
ビレイ様は、自分の発言のどこにも引っかかっていない様子で、また書類へ視線を戻した。
「そう。短期で辞められる方が、こちらとしても再募集のコストがかかる。じっくり育てた方が、結果的に効率がいいわ」
効率。コスト。稼働率。
言葉だけ拾えば、私は完全に「資産」の一種として扱われている。
なのに――なぜだろう。
うまく説明できない違和感だけが、じわじわと胸に残った。突き放されているはずなのに、突き放された気がしない。
むしろ、遠回しに「長くいてほしい」と言われた気がして、私は自分の勘違いを疑った。
部屋の隅に控えていたヴァンスさんを、思わずちらりと見る。
彼は完璧な無表情のまま、窓の外を眺めていた。聞こえていないふりが、あまりにも堂に入っていた。
(あ、この人、絶対聞いてる)
「何か質問は?」
ビレイ様の声で我に返る。
「い、いえ! 大丈夫です! 精一杯、長期稼働……じゃなくて、精一杯頑張ります!」
言い間違えた。
ビレイ様は、特に反応を示さなかった。それが逆に、今の言い間違いに気づかれたのか気づかれなかったのか分からなくて、私は内心で悶えた。
「そうそう」
ビレイ様が、思い出したように書類の一枚を引き抜いた。
「あなたが持っていた端末――技術班が興味を示しているの。数日中に、一度預けてもらうことになると思う。手荒には扱わせないから、心配しないで」
スマホのことだ。
あの日から充電が切れるまで、肌身離さず持っていたものを、また誰かに預けろと言われている。
(技術班。数日中。……これ、絶対何か企んでる顔だ)
ビレイ様の表情は変わらない。変わらないのに、なぜかそう感じてしまう自分がいた。
「では、下がっていいわ。ヴァンス、あとを頼める?」
「かしこまりました、お嬢様」
ヴァンスさんが、静かに一礼して部屋の扉を開ける。
私はビレイ様に一礼し、逃げるように部屋を出た。
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廊下を歩きながら、私は隣のヴァンスさんに小声で聞いた。
「あの、さっきの……『長期的な稼働に投資して』って」
「はい」
「あれ、普通の言い方、ですか……?」
ヴァンスさんは、少しだけ間を置いてから答えた。
「お嬢様は昔から、そういう言い回しをなさいます」
「昔から」
「ご本人は、特別な意味を込めているつもりはないと思います」
その答え方は、質問に答えているようで、一番大事なところをするりと避けている気がした。
「思う、ということは……ヴァンスさんは、何か知ってるんですか?」
「さあ、どうでしょう」
完璧な微笑みだった。この人には勝てない、と直感的に悟る。
私は、心の中でノートを一つ増やした。
(ビレイ様、本音を経営用語に変換して喋る癖がある。たぶん無自覚。ヴァンスさんは知ってて黙ってる)
悪役令嬢の型には、まったく当てはまらない。
でも、ただの「冷徹な経営者」という型にも、なぜか収まりきらない気がした。
この人は、いったい何なんだろう。
廊下の窓から差し込む光を浴びながら、私はそんなことを考えていた。
これから始まる仕事のことよりも、今聞いた一言のことばかりが、頭の中をぐるぐる回っていた。
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