第二話 確保された日のこと。
気がついたら、森の中にいた。
制服のまま。鞄も、上履き入れも、さっきまで握っていたはずのシャーペンもない。あるのは、右手に握りしめたままのスマートフォンだけ。
電源を入れる。画面は点く。でも、電波は一本も立たない。
「……え」
声に出してみても、何も変わらない。
木々は高く、下草は湿っていて、鳥の声が遠くでしている。日本の裏山とは、緑の匂いの濃さが違う気がした。気がするだけで、確信は持てない。
しばらく、その場に座り込んでいた。
スマホの充電は残り六十二パーセント。この数字が、今の私の生存時間そのものだという事実に気づくまで、たぶん十分くらいかかったと思う。
(これ、知ってる。いつもの、異世界に飛ばされるやつだ)
頭の片隅で、履修済みの知識がフル回転を始める。
(森で目覚める。装備なし。これは絶対、次に誰かが来る。保護してくれる勢力か、あるいは……)
そこまで考えたところで、下草を踏む音がした。
一つじゃない。複数。
心臓が変な音を立てる。息を殺して木の陰に身を寄せたけれど、隠れる技術なんて持っていない女子高生の隠れ方は、たぶん最初から意味がなかったと思う。
「――そこにいるのは分かっています。出てきていただけますか」
落ち着いた男の声だった。
怒鳴られるでも、脅されるでもない。むしろ丁寧すぎて、逆に怖い。
図書室で読んだ攻略サイトの注意書きが、頭の隅で勝手に再生される。
(丁寧すぎる声で連れ去られるの、一番タチが悪いパターンだって書いてあった……!)
震える足で木の陰から出ると、そこには数人の男女が立っていた。
鎧ではない。動きやすそうな作業着に近い服装で、腰に短い得物を差している。先頭に立つのは、初老に差し掛かったくらいの、姿勢のいい男性だった。
「驚かせてしまい申し訳ありません。この辺りは我々エルトラル家の管理地域でして、定期の見回り中に、あなたの気配を見つけました」
男性は、ゆっくりと両手を見えるところに上げた。敵意がないことを示す仕草だと、頭では理解した。
「大丈夫です。危害を加えるつもりはございません。ただ、この森は少々物騒なので、街まで送らせていただければと」
声は優しい。でも、目の奥は全然笑っていない気がした。値踏みされている、というのとも少し違う。もっと、事務的な確認をされている感じ。
「あ、あの……ここ、どこですか。日本、ですよね……?」
言った瞬間、自分でも馬鹿な質問だと思った。案の定、男性は少しだけ困ったように眉を下げた。
「……申し訳ありませんが、そのご質問には、私の口からはお答えしかねます。上の者が、あらためて詳しくご説明いたします」
「上の者」
その言葉の響きに、また別の記憶が引っかかる。
(保護されたと思ったら、実は誰かの"管理下"に置かれるパターン。これも知ってる。この後、値踏みされて、利用価値を判断されて――)
妄想が止まらなくなりかけたところで、初老の男性が静かに続けた。
「お名前を伺っても?」
「……夢丘、陽花里です」
「夢丘様ですね。私はヴァンスと申します。エルトラル家に仕えております」
ヴァンスと名乗った男性は、丁寧に一礼した。貴族の使用人、という言葉が頭に浮かぶ。でも、物腰の柔らかさの奥に、有無を言わせない何かがある気がした。
「馬車を用意しております。歩くのがお辛ければ、担架も」
「あ、いえ、歩けます」
「では、参りましょう」
拒否権という言葉が、頭の中でとても軽い音を立てて消えていった。
✶
馬車に揺られている間、私は終始無言だった。
窓の外には見たことのない街並みが流れていく。石造りの建物、行き交う人々の服装、時折視界の端をよぎる、明らかに人間ではない耳や尻尾。
ファンタジー。これは、本物のファンタジー世界だ。
スマホの充電計は、五十八パーセントまで減っていた。
連れて行かれたのは、屋敷の一角にある小さな部屋だった。牢屋、というほど殺風景ではない。ベッドも、水差しも、簡素だけれど清潔なものが揃っている。
「しばらくこちらでお休みください。食事は後ほどお持ちします」
ヴァンスさんはそう言って、静かに部屋を出ていった。鍵をかける音がしたかどうかは、確かめる勇気がなかった。
その晩は、ほとんど眠れなかった。
✶
三日目の朝、部屋の扉が開いて、それまでとは違う気配の人が入ってきた。
輝くような金の髪。まっすぐな背筋。歳は私とそう変わらないように見えるのに、纏っている空気がまるで違う。
その人は、私を上から下まで、一度だけゆっくりと見た。
値踏みされている、というのとも少し違う。棚卸しをされている感じに近かった。
「――あなたが、確保対象ね」
声は低く、そして涼しかった。
「保護対象、確認」
独り言のような一言。手元の書類らしきものに、視線を落として何かを確認している。
(え。何。この人、誰)
私は何も言えず、ただその人を見つめていた。
輝くような髪の人は、書類から顔を上げ、私の目をまっすぐに見た。
「――名前は」
「あ、夢丘、陽花里です……」
「そう」
それだけ言うと、その人はもう興味を失ったように視線を外し、部屋を出ていこうとした。
「……あの」
気づけば、声が出ていた。
「私は、これから、どうなるんですか」
振り返った金髪の人は、少しだけ――本当に少しだけ、考えるような間を置いた。
「働いてもらうわ。新しい使用人として」
「使用人、ですか」
「不服?」
「い、いえ、そんな……! 全然、不服とかじゃなくて、その、あの」
声が、勝手に早口になった。
「髪、すごく綺麗ですし、背筋もぴしっとされてて、なんていうか、佇まいだけで、ものすごく育ちの良い、立派な方なんだろうなって、さっきからずっと思ってて……!」
言ってから、しまったと思った。
計算して出した言葉じゃない。
ただ、目の前に立つこの人を見た瞬間から、頭の中にずっと浮かんでいたことが、緊張のせいで抑える力を失って、そのまま口からこぼれ出てしまっただけだった。
(――今のは、本当に思ったことしか言ってない)
その自覚が、余計に恥ずかしかった。
金髪の人は、一瞬だけ、何かに詰まったような顔をした。
値踏みの視線が、ほんの少しだけ揺れたように見えた。
「……そう」
それだけ返す声が、さっきよりわずかに遅れて出てきた気がした。
むしろ、ありがたい話のはずだった。少なくとも、路頭に迷うよりはずっといい。
でも、その一言の裏に、何か別の理由が隠れている気がしてならなかった。
(保護対象、って言った。使用人にしては、変な言い方だった気がする)
「詳しいことは追って説明するわ。今日はゆっくり休んで」
そう言い残し、金髪の人は部屋を出ていった。
残された私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
名前も聞いていない。でも、扉の外でヴァンスさんが「お嬢様」と呼びかける声が、かすかに聞こえた。
お嬢様。
この屋敷の、令嬢。
(待って。これって、もしかして――)
乙女ゲームで散々見てきた展開が、頭の中で勝手に組み上がっていく。
わけもわからず異世界に落とされた小娘が、有無を言わさず貴族の屋敷に囲われる。
これは、絶対に。
(悪役令嬢に、目をつけられたパターンだ……!)
スマホの充電は、四十四パーセントまで減っていた。
この数字がゼロになる前に、私はこの屋敷のことを、あの人のことを、少しでも理解しなければならない。
そう心に決めた夜だった。
――――――――
面白かったら、下記のリンクから評価やレビューをいただけると嬉しいです。




