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第一話 初日、洗礼、のはずだった。

 結論から言う。


 私、夢丘陽花里は、今日、悪役令嬢の洗礼を受ける。


 乙女ゲームなら決まっているのだ。新入りの使用人が初日に挨拶へ向かうと、ちょうど誰かを叱っている令嬢の声が扉の向こうから漏れてくる。そこで新入りは震え上がり、令嬢に睨まれ、あるいは涙目の相手とすれ違う。世界がそういう作りになっているのを、私は前の生活で百本以上見てきたので、知っている。


 だから、廊下の先の扉から低い声が漏れてきた瞬間、私はすぐに悟った。


 来た。


「――その単価で通ると、本気で思っていらっしゃるの?」


 声は淡々としていて、それがかえって怖い。感情を叩きつけるのではなく、刃物の背でじりじり首筋をなぞってくるような声だった。


 案内してくれていた執事――ヴァンスさんという初老の男性――が、扉の手前で足を止める。私も釣られて止まった。


 中からは、もう一つの声も聞こえる。震えた、若い男の声だ。


「し、しかし、原材料の高騰が……」


「高騰の話は先月も伺いました。今月も同じ数字を持ってこられて、私にどう判断しろと?」


 足が、勝手に半歩後ろへ下がった。


 これだ。これがそれだ。


 私は廊下の壁に張りついて、心の中で全力の実況を始めた。


(新人が来た日に限って商談の修羅場、これ絶対テンプレの洗礼イベントだ……! 目を合わせちゃだめ、涙も見せちゃだめ、あと変に庇うと巻き込まれて退場ルート確定するやつだ……!)


 前の世界の私なら、間違いなくこの手の展開を心待ちにしていたと思う。今は違う。今の私は当事者側だ。巻き込まれたら、比喩じゃなくて本当に人生が詰む側の人間だ。


 扉の隙間から、そっと中を覗く。


 執務机の向こうに座っているのは、噂に聞いていた通りの人だった。ビレイ・エルトラル様。輝くような金の髪を一分の乱れもなく結い上げ、背筋は定規でも入っているみたいにまっすぐ。机の上には書類が扇のように広げられていて、その一枚一枚に細い指がすっと添えられている。


 目の前には、恰幅のいい中年の男性が一人。額に汗を浮かべ、握りしめた帽子の縁がもう歪んでいる。


 ああ、この人が今から切られるんだ。


 私は覚悟を決めて、続きを見守った。


「原材料が高騰しているという主張自体は否定しません。ですが」


 ビレイ様は、机の上の書類を一枚、男性のほうへ滑らせた。


「こちらは先週、別のルートで仕入れた同じ原料の伝票です。御社の見積もりより、二割安い」


「そ、それは仕入れ先の規模が――」


「規模ではなく、経路の問題です。中継業者を二つ挟んでいる分、無駄なコストが乗っている。ここと、ここ」


 白い指先が、書類の項目を二か所、正確に叩く。


「この二つの中継を外すだけで、御社の言う『高騰』の半分は吸収できるはずです。次回までに、経路の見直し案を持ってきていただけますか」


「え……あ、はい……はい、確認いたします」


「無理な値下げをしろとは言っていません。無駄を削れと言っているだけです。今日のところは、前回契約の単価で継続で構いません」


 男性が、ぽかんとした顔で顔を上げた。


「よ、よろしいのですか」


「今回の話し合いで、御社が誠実に交渉に応じる姿勢は確認できましたので」


 ビレイ様は、書類の束をとん、と机の上で揃えた。


「次にお会いする時は、経路の見直し案と一緒にいらしてください。楽しみにしています」


 男性は何度も頭を下げながら、すっかり毒気を抜かれた顔で部屋を出ていった。すれ違いざま、私とヴァンスさんに気づいて、ぺこりと会釈までしていく。震えているというより、どこか安堵した表情だった。


 頭の中で、何かがガラガラと崩れる音がした。


 私は扉の陰で、しばらく固まっていた。


 脳内で用意していた展開はこうだ。震え上がる新入り。冷徹に切り捨てられる哀れな商人。捨てられた帽子。捨て台詞。そして私に飛び火する連鎖。


 実際に起きたのは、原価計算と、経路の見直し提案と、次回のアポイントメントだった。


(……これ、洗礼というか、ただの、経営指導では?)


 呆然としている私の横で、ヴァンスさんが小さく息を吐いた。


「毎週のことです。じきに慣れます」


 顔色一つ変えず、そう言った。


「え、あの、今の……お叱りになっていたわけじゃ」


「叱ってはいましたよ。ただ、お嬢様が叱るのはいつも、数字の甘さに対してです。人格に対してではありません」


 ヴァンスさんは静かに扉のほうへ向き直り、私を促した。


「行きましょう。次はお嬢様へのご挨拶です」


 うそでしょ。


 まだ本番があるの。


 私は乾いた喉を意識しながら、扉の前に立った。もう一度だけ、心の中で身構える。


(大丈夫、大丈夫。相手は普通に経営者として有能なだけで、少なくとも今のところ、令嬢としての悪役成分はゼロ――)


「――どうぞ」


 中から、先ほどと同じ、感情の起伏を削ぎ落としたような声がした。


 私は扉を開けた。


 これが、私とビレイ・エルトラル様の、本当の意味での初対面だった。


――――――――



(関連作品)

「ステータス『0』の観測兵 ~クラス転移を離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~」

https://ncode.syosetu.com/n8730lm/

異世界×戦場×成り上がりが好きな方は、こちらもよろしければ。

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