第十九話 最初から、知っていたわ。
目を覚ましたのは、見覚えのある天井の下だった。
自分の部屋のベッドだと気づくまで、少し時間がかかった。
「――気づきましたか」
枕元に、ヴァンスさんが座っていた。
「私……」
体を起こそうとして、鉛のような気だるさに、思わず呻いた。
「無理をなさらないでください。三日間、眠り続けていらっしゃいました」
「三日……」
記憶を辿る。戦場、リディア様の剣、そして――
「ビレイ様は! 無事、なんですか」
「ええ。ご無事です」
ヴァンスさんの声に、私は詰めていた息を吐いた。
「あなたが叫んだ後、戦況は一気に変わりました。崩れかけていた戦列が持ち直し、ポテンティオール軍は撤退を選びました」
「私が……何か、したんですか」
「あなたが、何をなさったと思いますか」
その問いに、私はうまく答えられなかった。
覚えているのは、ただ、必死に叫んだことだけだ。
✶
しばらくして、扉が静かに開いた。
「――夢丘」
ビレイ様が、少し痛々しい足取りで入ってきた。肩には、まだ包帯が巻かれている。
「ビレイ様! 良かった、本当に……」
起き上がろうとする私を、ビレイ様が手で制した。
「動かなくていいわ。あなたは、まだ本調子じゃない」
ビレイ様は、ベッドの脇の椅子に腰を下ろした。
ヴァンスさんが、静かに一礼して部屋を出ていく。
二人きりになった部屋は、しばらく沈黙に包まれた。
「――ヴァンスから、聞いたわ」
やがて、ビレイ様が口を開いた。
「あの瞬間、あなたが叫んだ後、戦場の兵たちの目の色が変わったと」
「私、自分でもよく分からなくて……」
「エールよ」
その一言に、私は目を見開いた。
「――え」
「あなたの、能力の名前。士気を、実質的な力に変える力。あなた自身が、まだ自覚していなかっただけ」
「知って……いたんですか、それ」
「確証はなかったわ。でも、可能性は考えていた」
ビレイ様は、淡々と続けた。
「技術班のドレイクが、あなたに真剣に向き合ってもらえたことを話していたと聞いたわ。それに、迷宮であなたが見せた、あの反射的な動き。これだけ材料が揃えば、無視できない仮説だった」
合理主義者らしい説明だった。でも、その口調のどこかに、いつもとは違う柔らかさがあった。
✶
「――あの」
私は、思い切って尋ねた。
「ずっと聞きたかったことが、あります」
「何」
「私が保護された時のこと、覚えてますか。あの時、ビレイ様は、確保対象を一瞥しただけで、すぐに行ってしまいました」
「覚えているわ」
「あれから、ずっと不思議だったんです。バベルから預かった保護対象を、そんなに簡単に受け入れて……なんで、私のこと、そんなに、その」
言葉を選びながら、続ける。
「大事に、してくれたのかなって」
ビレイ様は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに、でもはっきりとした声で言った。
「――最初から、知っていたわ」
「え」
「あなたの正体。バベルの保護対象。異世界からの、迷い人だということ」
心臓が、大きく跳ねた。
「保護された時、あなたが名乗った名前と、バベルから届いた資料の内容は、最初から一致していた。あなたが、この世界の常識をまるで知らないことも、すぐに分かった」
「じゃあ、私が『隠している』つもりだったこと、全部……」
「ええ。最初から、筒抜けだったわ」
絶句する私に、ビレイ様は、珍しく少しだけ気まずそうな顔をした。
「黙っていたのは、悪意じゃないわ。……ただ、あなたに、あなたなりのペースで、この世界に馴染んでほしかった。正体を暴くことに、意味はないと思ったから」
指先が、かすかに震えた。声を出そうとして、うまく出なかった。
「それだけ、ですか?」
私は、思わず聞き返した。
「資産価値とか、リスク管理とか、そういう理由じゃなくて?」
ビレイ様は、少しの間、目を伏せた。
「――最初は、そう説明していたわ。自分自身にも」
その声は、これまで聞いたどのビレイ様の声よりも、静かだった。
「でも、違ったの。あなたを引き受けると決めた時から、ずっと」
その先の言葉を、ビレイ様は、すぐには続けなかった。
私は、黙って、続きを待った。
「――大事だったのよ。理由も、計算もなく」
✶
その言葉に、私は、しばらく何も言えなかった。
ずっと、ビレイ様に隠し事をしているつもりだった。
でも、本当は、最初から隠せていなかった。
それどころか、ビレイ様の方こそ、ずっと本音を隠していた。
「――ずるいです」
思わず、そう漏れた。
「何が」
「私だけが、ずっと不安だったのが、です。ビレイ様は、最初から知ってたのに」
「悪かったわね」
その返し方は、いつも通り素っ気なかった。でも、その口元が、ほんの少しだけ緩んでいるのが分かった。
「これから、対等に話していただけますか」
私は、思い切って聞いた。
「主人と使用人、じゃなくて。……その、ちゃんと、お互いのこと知った上で」
ビレイ様は、少しだけ考えるように黙ってから、頷いた。
「――そうね。それも、悪くない投資かもしれない」
「また、それ言う」
「癖なのよ。仕方ないでしょう」
二人で、思わず小さく笑い合った。
窓の外では、修復の進んだ屋敷の庭に、穏やかな光が差し込んでいた。
これで全てが終わったわけじゃない。ポテンティオール家との対立は、まだ根本的には解決していない。
でも、少なくとも今は――この人と、対等な場所に立てた気がした。
その事実だけで、十分だった。
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