第二十話 まだ、始まったばかり。
あれから、二週間が経った。
屋敷の城壁は、すっかり修復されていた。中庭の焦げた跡も、もうほとんど分からない。
もちろん、傷跡が本当に全部消えたわけじゃない。それでも、日常は、確かに戻ってきていた。
「夢丘様、こちらの帳簿の整理、お願いできますか」
「はい、任せてください」
ヴァンスさんに頼まれた仕事を、私は迷わず引き受けた。
二週間前の私なら、たぶん「え、私にできますか」と聞き返していたと思う。
少しずつ、この場所での自分の役割が、分かってきた気がする。
✶
休憩の合間、私は技術班の作業場へ顔を出した。
「――あ、夢丘様!」
フィンさんが、真っ先に気づいて手を振った。
その隣で、ドレイクさんが図面を睨みつけている。
「どうですか、通信機の改良は」
「順調だ。次は、もっと小型化を目指している」
ドレイクさんが、顔も上げずに答えた。
目の下のクマは、相変わらず消えていない。でも、その表情には、以前にはなかった充実感のようなものが滲んでいた。
「あの断片のおかげで、儂らの技術は、確実に一段階先へ進んだ。……あなたのおかげでもある」
「私は、別に何も」
「そう謙遜するな。お前さんが最初に持ってきたあの端末がなければ、儂らはまだ、あの断片をただの石ころだと思っていたはずだ」
その言葉に、少しだけ、胸が温かくなった。
✶
「――夢丘様」
書庫の整理を終えた頃、ヴァンスさんが声をかけてきた。
「お嬢様が、お呼びです」
執務室へ向かうと、ビレイ様が、書類の合間から顔を上げた。
「――座って」
「はい」
私は、以前と同じように、机の向かいの椅子に腰を下ろした。
「ポテンティオール家から、正式な使者が来たわ」
私は、思わず身構えた。
「休戦の申し入れよ。少なくとも、当面の間は」
「良かった……」
「油断はしないで。あの家の内部事情は、今も不安定なままよ。今回の敗北で、むしろ追い詰められている可能性もある」
ビレイ様の声は、いつも通り冷静だった。でも、その視線の奥に、以前にはなかった何かがあった。
油断していない、というより、もう一人で抱え込むつもりはない、という意志のようなものに見えた。
「リディア様は、その、どうなったんでしょうか」
「実家へ、一度呼び戻されたそうよ。指揮の責任を問われている、という噂だけは届いているわ」
「呼び戻された、って……それって」
「更迭か、あるいは、次の機会を与えられるか。どちらにしても、大人しく引き下がる人には見えなかったけれど」
ビレイ様は、窓の外へ視線を投げた。
「詳しいことは分からないわ。ただ、彼女の家が、今後どう動くかは……正直、まだ読み切れない」
「怖いですね」
「ええ」
ビレイ様は、意外にも、あっさりとそれを認めた。
「怖いわ。正直に言えばね」
その素直さが、以前のビレイ様なら、決して見せなかったものだった気がした。
✶
「――それと」
ビレイ様が、書類の一枚を、私の方へ差し出した。
「通信機の実用化に伴って、新しい部署を作ることになったわ。技術班と、渉外との橋渡し役」
「はあ」
「あなたに、その一員になってもらいたいの」
私は、目を丸くした。
「私が、ですか? そんな、大役」
「適性があると思っているわ。それに」
ビレイ様が、少しだけ言葉を切った。
「単純に、あなたに、そばにいてほしいの」
その一言に、頬が急に熱くなった。
「あ、その、投資対効果とか、そういう話じゃなくて?」
「――そうね、それも、あるかもしれないけれど」
ビレイ様は、視線を少しだけ逸らした。
「今回は、それだけじゃないと、はっきり言っておくわ」
その言い方が、以前よりずっと不器用で、それでいて、ずっと本物のように聞こえた。
「――お受けします」
私は、深く頭を下げた。
「よろしくお願いします、ビレイ様」
✶
執務室を出て、廊下を歩きながら、私は窓の外を見た。
修復された城壁の向こうに、穏やかな夕日が沈みかけている。
乙女ゲームの知識は、結局、ほとんど役に立たなかった。
悪役令嬢の型も、破滅フラグの回避法も、この世界では、ことごとく的外れだった。
それでも――型が外れるたびに、私は少しずつ、この世界の、本当の姿を知っていった。
危険は、確かに本物だった。でも、それと同じくらい、この場所で出会った人たちの温かさも、疑いようがなかった。
これから、ポテンティオール家との関係がどうなるのか。
リディア様が、次にどんな形で現れるのか。
技術班の通信機が、この世界をどう変えていくのか。
まだ、何も分からない。
それでも――怖いのと同じくらい、この先が楽しみだと、今の私は、素直にそう思えた。
物語は、まだ、始まったばかりだった。
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