第十二話 ただ、無事でよかった。
地下の避難区画には、窓がなかった。
だから、外で何が起きているのか、音でしか判断できなかった。
最初は、遠く低い地鳴りのような音。次第に、それが何度も何度も繰り返される轟音だと分かった。
そのたびに、避難していた使用人たちが、びくりと肩を震わせた。
私も、その一人だった。
(――ビレイ様、大丈夫かな)
何度も、同じ問いが頭の中を巡った。答えの出ない問いを、何十回、何百回と繰り返した。
乙女ゲームなら、こういう時ヒロインは大抵、無力な自分に苛立ちながらも、最後には何か特別な力で駆けつける。
でも私は、ただ膝を抱えて、天井を見上げていることしかできなかった。
いつの間にか、轟音は止んでいた。
でも、それが「終わった」ことを意味するのか、それとも別の何かを意味するのか、判断する術がなかった。
その静けさが、音がしていた時よりも、ずっと怖かった。
✶
「――ご安全が確認されました。地上へどうぞ」
扉が開いたのは、それから随分と経ってからだった気がする。
私は、他の使用人たちを押しのけるようにして、真っ先に外へ出た。
礼儀としてはよくないと分かっていたけれど、そんなことを考える余裕がなかった。
中庭は、変わり果てていた。
焦げた跡。崩れた城壁の一部。土嚢が積まれ、あちこちに包帯を巻いた兵士たちが座り込んでいる。
これが、本物の戦争の跡なんだ。
実感が湧かないまま、私はビレイ様の姿を探した。
「――夢丘様」
声をかけてきたのは、ヴァンスさんだった。いつもより服が汚れていて、頬に小さな擦り傷があった。
「ヴァンスさん、ビレイ様は」
「ご無事です。あちらに」
指し示された方向を見て、私は息を呑んだ。
✶
ビレイ様は、崩れかけた城壁の脇に、椅子に座らされる形で休んでいた。
肩に包帯が巻かれている。頬には血の跡。いつもきっちりと結い上げられている髪も、今は乱れて、幾筋か頬に張りついていた。
初めて見る姿だった。
「――ビレイ様!」
思わず声を上げて駆け寄った。
ビレイ様が、気だるげに顔を上げる。
「……夢丘。無事だったのね」
「私は無事です、ずっと避難区画にいましたから! それより、その傷」
「かすり傷よ。大げさに騒がないで」
いつもの、素っ気ない声だった。でも、その声にはっきりと疲労が滲んでいた。
私は、その場にしゃがみ込んで、ビレイ様の顔を間近で見た。
顔色が悪い。呼吸も、いつもより浅い気がする。
(――このまま、目の前から消えてしまうんじゃないか)
その想像が、頭をよぎった瞬間、指先が、かすかに震えた。声を出そうとして、うまく出なかった。
これまで感じていた「怖い」とは、明らかに違う種類の感情だった。
悪役令嬢の型に当てはめて怖がっていたあの感覚とは、まったく違う。
もっと単純で、もっと切実で、もっと――失いたくない、という感情だった。
「――何、その顔」
「え」
「今にも泣きそうな顔をしているわ」
言われて初めて、自分の目に涙が滲んでいることに気づいた。
「す、すみません、その、勝手に……」
「謝る必要はないと、前にも言ったはずよ」
ビレイ様は、少しだけ困ったような顔をした。
「大袈裟ね。この程度で」
「大袈裟じゃないです」
思わず、強い口調で言い返してしまった。
「もし、もしもっと酷いことになっていたらって、そう考えるだけで……ただの、使用人が言うことじゃないのは分かってます。でも」
言葉が、うまく続かなかった。
ビレイ様は、しばらく黙って私を見ていた。
「――そう」
それだけ言って、視線を逸らした。
その横顔が、いつもより少しだけ、柔らかく見えた気がした。
✶
「――お嬢様、戦況のご報告を」
ヴァンスさんが、静かに歩み寄ってきた。
「聞かせて」
「敵本隊は撤退しました。ただ、被害は軽くありません。要撃英雄分隊は一名を失い、第3中隊は半壊。それでも、この戦力差を考えれば、抑えられた方だと言えます」
「相手方の被害は」
「聖騎士隊長を含め、複数名を戦闘不能に。ただし――」
ヴァンスさんが、一瞬だけ言葉を切った。
「ポテンティオール家の本領から動員された兵力の全容は、まだ確認できておりません。今回のは、あくまで先遣隊の一撃だった可能性があります」
ビレイ様の表情が、少しだけ引き締まった。
「――つまり、これで終わりじゃないということね」
「その可能性は、否定できません」
二人のやり取りを聞きながら、私の胸に、また新しい不安が広がっていった。
やっと終わったと思っていたのに。
それでも、目の前でこうして息をしているビレイ様を見て、今はただ、それだけで良かったと思う自分がいた。
(――型がどうとか、そういうことじゃなかった)
私はただ、この人に、生きていてほしかった。
その事実に気づいた瞬間、これまでの自分の「警戒」が、いかに的外れで、それでいて、いかに本物の危険と隣り合わせだったかを、初めて実感として理解した気がした。
「――夢丘」
ビレイ様の声に、私は顔を上げた。
「はい」
「ありがとう。……無事で」
その短い一言だけで、なぜか胸がいっぱいになった。
「はい。ビレイ様も、ご無事で、本当に良かったです」
崩れた城壁の向こうに、朝日が昇り始めていた。
昨夜の轟音が嘘みたいに、静かな光だった。
でも、この静けさが、次の脅威が来るまでの、ただの束の間のものだということを、私はもう、ちゃんと分かっていた。
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