6 秘密(秘蜜)
「それは、例えです。鍵、コマドリ、庭、メアリ、コリン――全部どこが閉じていて、どこを開ければ次へ進むのか、すぐ見つける。榎木くんの中では、みんな次の扉を開けるために働いています」
「文学に労働を持ち込んだ時点で、なんだか負けている気がします……」
「では、便利な庭としましょう」
「庭に便利不便があるのは、初めて聞きました。それに、便利な庭って何ですか……駅徒歩五分で、駐車場つきとか?」
「便利というより、『よく働く庭』でしょうか? 榎木くんの庭、働き者すぎるんです」
「『秘密の花園』は労基も管轄外だと思います」
「でも、働いていますよ。鍵があって、扉があって、隠された庭があって、そこへ入ると人が変わる。次の部屋へ連れていく。奥さんの記憶まで背負わされる。かなり仕事のできる庭です」
「まるで、ブラック企業じゃないですか」
「榎木くんの読み方だと、そう見えるんです。庭が、物語を進めるためにサービス残業までしています」
井上さんは、開いた頁の端を指で押さえた。
その仕草だけ、さっきまでの口戦とは空気が違っていた。言葉で逃げ道を塞いでくる人の指ではなく、壊れやすいものを押さえている人の指だった。
「たとえば、水をやる人の手。誰にも見られなかった十年間。そこに残されていた奥さんの気配。榎木くんの読み方だと、そういうものが、便利な庭の後ろに隠れてしまいます」
「便利な庭の後ろに隠れる気配、だいぶ重いですね……」
「『秘密の花園』ですから」
「便利なうえに怖いです。物件としても最悪ですよ」
井上さんは、そこでようやく笑った。
「私は、庭が見つかる場面より、見つかる前の時間が気になります」
「それはもう、本文に出ていない時間では……」
「出ていないから、気になるんです。メアリが誰にもちゃんと見られていなかった時間。コリンが病気という名前で部屋に閉じられていた時間。そして――クレイヴン卿が妻を失ったあと、庭も子どもも見られなくなってしまった時間。私は、そちらも気になります」
「井上さんは、時間ばかり見てますね」
「本に書かれている出来事は、だいたい時間の上に乗っていますから」
「…………」
榎木は、すぐには返事をしなかった。
正しい気がした。
いや、正しいと言い切るのは癪なので、「かなり正しそうで腹立たしい」くらいにしておきたい。物語の出来事は頁の上にあるようで、実際には時間の上に置かれている。榎木の中では、どれもきちんと役割を持った部品だった。
けれど井上さんは、その部品と部品のあいだに溜まった埃を見ている。誰にも触られなかった時間とか、誰にも呼ばれなかった名前とか、感想文に書こうとすると急に手が止まるものばかりを、平然と拾い上げる。
「主人公のメアリって、かなり嫌な子です」
「急に断罪がはじまりましたね……」
「――はい。でも、嫌な子でいないと、誰にも見つけてもらえなかった子でもあります」
榎木は視線を本へ落とした。
メアリはわがままというラベルを貼られていて、コリンは病気という名札を掛けられて部屋の奥にしまわれている。庭は十年ぶんの埃と沈黙を抱え、鍵は鍵であること以外の職務を放棄し、コマドリは鳥類でありながら、ほとんど図書委員みたいに正しい場所へ人を案内する。
さっきまで、それらは榎木の中できちんと並べられた部品だった。配置は正しい。手順も正しい。物語は、かなりよくできた脱出ゲームみたいに進んでいる。――いや、脱出ゲームではない。
脱出ゲームだったら、最後にスタッフが出てきて「おめでとうございます」と言ってくれる。『秘密の花園』には、そんな親切な係員はいない。いるのは、誰にも見られていなかった子どもと、病気という名前でしまわれていた子どもと、十年ぶん閉じられていた庭だけだ。
井上さんは、その手順の下を見ている。
いや――見ているというより、指で軽く叩いている。
「ここ、空欄がありますよ」と言うみたいに。
「榎木くんは、すぐ理由を探しますよね」
「理由は大事です。理由がないと――自分がその本のどこで立ち止まったのか、あとから分からなくなるので」
「読書中の現在地確認ですね」
「……は、はい?」
「榎木くんの感想文には、たぶん方位磁針が入っています」
「入っていません! 言葉に磁力があると、僕の逃げ道が全部北を向くじゃないですか」
「ついでに地図も、定規も入っていそうですね?」
「方位磁針と文房具が同じフロアにあるの、かなり危険なショッピングモールですよ」
「でも、迷わないために理由を置いているんでしょう」
「……まあ、それは」
「そういう読み方は大事です。迷子にならないための読み方ですから」
井上さんは、楽しそうに目を細めた。
「ただ、地図に載っていない場所もあります。『寂しい』、『好き』、『なんか嫌』、『なんか良い』とか」
「最後の方、だいぶ雑になりましたね」
「雑な感情もあります。人間なので」
「……名言っぽく言えば許されると思ってませんか?」
「文芸部なら許されませんか?」
「許されそうなのが嫌です」
「では、文芸部でよかったです」
堂々としている。
「文芸部」便利すぎる。おそらくこの人は「文芸部なので」の一枚だけで、だいたいの学校制度を突破するつもりなのだろう。生徒会が隣にあるのに。いや、隣にあるからこそかもしれない。監視カメラの真下で堂々と不審な動きをすると、逆に怪しまれない理論である。普通に怪しい。
「ただ、秘密って、誰にも知られていないから秘密、というだけでもない――気がします」
井上さんは、栞ではなく本の方を見ていた。
その横顔はふざけていなかった。
ふざけていない彼女は、ふざけているより少し困る。
「メアリは庭を見つけたから変わったんですけど――同時に、庭を秘密にしたままだったから、コリンを連れていけたんだと思うんです。開けた方がいい秘密と、閉じておいた方が息をしやすい秘密は、同じ名前をしていても、別のものです」
「……それ、かなり分かりにくいです」
「私も言いながらそう思いました。なので、今のは下書きです」
「会話に下書きがあるんですか?」
「あります。提出しなければ、だいたい下書きですよ?」
「勝手に、会話を提出物にしないでください」
「提出されたら困りますか?」
「困ります。赤入れされそうなので」
「でも、私の万年筆は青インクですよ?」
「もっと困ります! 青は赤より残ります!」
言ってから、榎木は自分の言葉に引っかかった。
青は、赤よりずっと涼しい顔をしている。赤が「ここを見ろ」と叫ぶ色なら、青は「もう見ましたよ」と言ってくる色だ。声が小さいぶん、逃げにくい。
だが、井上さんの万年筆の青には、確かにそういうところがあった。
叱られた感じはしない。
直された感じでもない。
ただ、逃げ道に線を引かれる。
それが困る。
「困る」も便利すぎる。便利すぎる言葉を使うなとさっき自分で思ったばかりなのに、もう使っている。人間の反省は寿命が短い。三秒くらいで死ぬ。今、死んだ。
「『赤より残る』ですか――」
井上さんは、栞の端を指で押さえた。
「いいですね。今のは、下書きにしておくには惜しいです」
「……あの、井上さん」
「はい。なんでしょうか、榎木くん」
「さっきから、栞とか本とか部誌とか、端を押さえすぎじゃないですか。そんなに押さえないといけないんですか?」
「私が押さえなければ、言葉は逃げ出しますよ?」
「……逃げるんですか」
「言葉は、油断すると窓から出ていきます。鍵をかけても、隙間から出ます」
「言葉に防犯性能を求めないでください!」
「だから、読んだものと、残ったものと、まだ言っていないものは、少しだけ押さえておくんです」
「文芸部、言葉の飼育係だったんですか」
「でも、逃がしたら困るでしょう?」
「…………」
青い万年筆の文字が、夕方の光の中で濃く見える。
榎木は、そこに書かれた自分の名前を見た。昨夜、感想の横に書いたはずの三文字なのに、今は他人のものに見えた。栞を挟んだだけだった。感想を書いただけだった。それなのに、その薄い紙を境に、昨日の自分と今の自分のあいだへ、細い折り目がついてしまったようだった。
何か言おうとした。
出てきそうになった言葉は、どれも説明の形をしている。
「今、理屈で納得しようとしましたね?」
「……してません」
「榎木くん、人の話も読書のように読みますよね?」
「人間に感想文を求めるの、かなり危険な読書家ですよ」
「大丈夫ですよ。人間も、わりと読み応えがありますから」
「感想の提出先が本人なのは制度として問題があるのでは……」
井上さんは「すみません」と言いながら、まったく反省していない顔で笑った。
榎木は、それに反論しようとして、言葉が出る前に息を吸う。机の向こうで笑う彼女の声が、狭い備品室にやわらかく残る。図書室の静けさとは違う、誰かと一冊の本を挟んでいる静けさだった。
そのとき、井上さんの肘が机の端に当たり、置いてあったクリップが床へ落ちた。
「あっ――」
小さな金属音が跳ねる。
井上さんは慌てて身を乗り出し、クリップを拾おうとして、今度は開いていた部誌の角に袖を引っかけた。紙が数枚、ぱらぱらと床へ散る。
「……後半だけでも、見なかったことにしてくださいね」
「前半は諦めるんですか」
「――榎木くん、読解力があるなら空気も読んでください」
「読めたうえで、見えています」
榎木は椅子から立ち上がり、床に落ちた紙を拾った。
古い紙の端は弱っていて、拾い上げるだけで指先に薄い埃がついた。表紙らしき一枚には、手書きのタイトルが青く滲んでいる。重なった紙の隙間からは短い詩の一行が覗き、読書感想文らしい段落の横には、誰かの落書きが当然のような顔で入り込んでいた。欄外には、青インクの訂正が細かく走っている。
奥付の日付は、半年前で止まっていた。
そこで、榎木は手を止めた。
青インクの訂正は、一種類ではなかった。濃く文字を潰しているものもあれば、薄く句読点だけを足しているものもある。角ばった字で容赦なく直している箇所の隣に、丸い字で、訂正というより返事みたいな文句を書き足している箇所もあった。
つまり、去年のこの部誌には――複数の手が入っている。
少なくとも、一人で作った紙束ではない。
紙は喋らないが、文字は残る。去年はここに誰かがいた。誰かが書いて、誰かが直して、誰かが余計なことを書き足していた。その事実だけが、青インクの濃淡になって、今も紙の上に残っている。
けれど、今この部屋にある青は、井上さんの万年筆だけだった。
謎というほど大げさではなく、事件というほど派手でもない。けれど、そこには欠けているものがあった。最初からなかったのではなく、あったはずのものが、今は見えない、という形の欠け方だった。
扉に「文芸部」と貼れば、ここは文芸部になる。生徒会備品室という学校側の正式名称があっても、井上さんがそう言い張れば、少なくともこの机の周りだけは文芸部になる。さっきまで榎木は、それをいつもの屁理屈として聞いていた。拾った紙を見てしまうと、その屁理屈にも別の形がつく。言い張るのは、ただの冗談ではないのかもしれない。言い張っていないと、戻ってしまうものがある。
そんな気がした。
気づかなければ、ただの散らかった紙で済んだ。だから榎木は、それ以上の名前をつけないことにした。
拾った紙の端を、ただそろえる。
「これ、部誌ですか」
「はい。去年のです」
「今年は……まだ、なんですか?」
井上さんは、紙をそろえる手を一瞬だけ止めた。
見間違いかもしれないくらい短い停止だった。榎木の目には、その止まり方だけが残った。
「出したいとは、思っていますよ」
「……ひとりで?」
「私は、まだ文芸部にいますから」
井上さんは笑ったが、その笑いはさっきより薄かった。
榎木は、拾った部誌を机に置いた。紙の匂いが指に残っている。
さっきまで、この部屋は少し変な備品室でしかなかった。去年で止まった部誌と、それをまだ手放していない井上さんを見てしまうと、机も棚も扉に貼られた「文芸部」の紙も、急にただの背景ではなくなった。
誰かと本の話がしたかったから。
文芸部員がほしかったから。
おそらく、そのあたりで間違ってはいない。それだけで終わらせるには、拾った部誌の端をそろえているうちに、榎木の中で余計な設問が勝手に増えていった。
……やめよう。
「――榎木くん」
井上さんが、机の上の紙を整えながら言った。
「もう一冊、読んでみませんか」
「……今度は何を読ませる気ですか?」
「その言い方だと、私が悪い先輩みたいです」
井上さんは、やっぱり笑った。
この人はよく笑う。
けれど、笑うことで何かを隠しているようにも見える。そう思ってしまうのは、榎木が来たからだろうか。それとも、この部屋に古い紙が多すぎるからだろうか。古い紙は、だいたい何かを隠している。文字とか、油染みとか、前の持ち主の手癖とか。
「でも、栞で僕を呼び出して、読書感想文を添削した人ですよ」
「……言い返せないのが、悔しいですね」
「勝った」
「勝ったと思った時点で、読書としては、勝手に負けていますからね」
井上さんは、机の端に置かれていた薄い文庫本を手に取った。
背表紙の文字は硬く、表紙もどこか近寄りがたい。偶然そこにあったというより、最初から次の順番を待っていたような一冊だった。まだ開いてもいないのに、もう少し怒られたような気がする。
「次は『山月記』にしましょう」




