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7 貼紙(張紙)

「なかなか強そうな本ですね。題名だけで……なんか、もう圧を感じます」


 机の上に置かれた薄い文庫本を見て、榎木はそう言った。


 『山月記』。


 どの字も妙に硬い。山は高いし、月は遠いし、記はだいたい後から残されるものだ。つまり、近づきにくく、手が届かず、終わったあとに記録だけが残る。まだ一(ページ)も開いていないのに、読書感想文ではなく被害届を書く予感がしていた。


「何か――おすすめの理由があるんですか?」


「短いので」


「……理由が、今までの井上さんとは思えないくらい短くなっています」


「でも、短い本ほど油断すると噛まれますよ?」


 「薄いから安全」という理屈は成立しない。紙で指を切ったことがある人間(ぼくたち)なら分かる――薄いものほど、案外よく刺さる。テスト用紙も、通知表も、栞も、だいたい薄い顔をして急所へ来る。


「今度は、本まで噛むんですか?」


「この部屋では、椅子も本も、私もたまに噛みますよ」


「最後のひとつに人間が混ざってます」


「大丈夫です。私は甘噛みです」


「……大丈夫の基準が、井上さんなのが心配です」


 井上さんは悪びれない。


 悪びれないどころか、今の発言を文化活動の一部として処理していそうな顔をしている。


「甘噛みは、優しさのある噛み方ですよ?」


「甘噛みの説明はいりません。っというか、噛んでいるのに優しさがあるんですか」


「ご安心を。辛噛みはしませんから」


「甘噛みの『甘』を味覚で処理した時点で、調味料みたいになってきましたよ」


「では、酸噛みもありますか?」


「ありません!」


 会話が一ミリも前に進んでいない。


 しかも、本を読む前から疲れている。文化部のくせに、消費カロリーだけは運動部寄りだった。これでは文芸部ではなく、文芸式有酸素運動部である。いや、座っているので無酸素かもしれない。


「でも――強く噛むと、次に来てもらえないので」


「…………」


 次。


 今、自然に「次」と言われた。


 ただの一文字なのに、今日の放課後が勝手に明日へ延長申請された気がした。


「――来ないんですか?」


 ずるい聞き方だった。


 「来ますか」なら断れる。


 「来ないんですか」だと、断る側が悪者になる。日本語は時々、質問のふりをした罠を作る。栞といい、手紙といい――この人は罠の作り方が丁寧すぎる。罠に丁寧も雑もあるのかは知らない。踏んだ側からすれば、どちらも罠だ。


「……読み終わったら、考えます」


「では、読み終わるところまでは確定ですね」


「今の返答に、そんな拘束能力ありました?」


「ありますよ」


 井上さんは笑って、『山月記』を差し出した。


 薄い文庫本だった。実際には軽い。片手で持てる。なのに妙に重く見えたのは、薄いものほど刺さるという話を、榎木がついさっき自分でしてしまったせいだ。


「榎木くん、たぶん嫌いではないと思います」


「好き――ではなく?」


「そこは、読んでから決めてください。好きでも嫌いでも、面白かっただけでも、聞かせてもらえれば感想です」


「提出先が固定されている……」


「感想を聞く部活ですので」


「文芸部って、そういう部でしたっけ」


「今、そういう場所にしているところです」


 榎木は『山月記』を受け取った。表紙は手のひらに冷たく、紙の角が指に当たった。窓の外では運動部の声が遠くなり、古い部誌の背だけが暗がりに沈んでいる。


「では、読み終えたら、感想を聞かせてください。できれば、『面白かった』以外も」


「逃げ道つきの提出物ですね」


「また来てもらえないと困りますから」


「優しさじゃなくて、再来室用の誘導だった」


「文芸部員獲得に向けた健全な文化活動です」


「健全って言い張る時点で、かなり怪しい……」


「言葉は、逃げ道にもなりますから」


 軽い声だった。軽いのに、紙の端で指を切ったときのような細い引っかかりが残る。


 榎木は『山月記』を鞄にしまった。鞄の中で本が一冊増えただけなのに、肩にかかる重さが変わる。高校生活において、意味ほど荷物になるものはない。


 椅子から立ち上がると、木の脚がぎぃ、と鳴いた。最後までこの部屋の椅子らしい見送りだった。


「……分かりました。読んできます」


「ありがとうございます。では、榎木くん」


「はい。まだ何かあるんですか」


「次は、読書解析文ではなく、読書感想文でお願いしますね」


「ハードルが上がったのか下がったのか、判定が難しいです……」


「私が、井上なので」


「個人で責任を取れる範囲にしてほしいです」


「では、これから、そういう場所にしていきましょう」


 井上さんはそう言った。


 その言葉だけは、冗談に聞こえなかった。


 榎木は扉の前で一度振り返った。夕方の備品室で、井上さんは机の上の紙を集めている。部屋は相変わらず片づいておらず、棚の奥には、使われないまま残ってきた時間が静かに沈んでいた。それでも、そこには確かに、誰かが誰かを待っていた気配がある。


「榎木くん。帰りに、扉の紙を剥がさないでくださいね」


「剥がしませんよ」


「生徒会の人が間違えて剥がすことがあるので、困っているんです」


「それ、ほんとうに間違えてですか?」


「主張の違いです」


「だいぶ政治的な思想になってると思うんですが、それは」


 扉に貼られた「文芸部」の紙は、四隅をマスキングテープで留められているだけだった。正式な部屋札ではない。金属でも、プラスチックでもない。指をかければ簡単に剥がれる。つまり、この部屋の文芸部らしさは、今のところ学校設備ではなく粘着力に依存している。


「文芸部なので」


「……文芸部は、政治にも手を出すんですか」


「弱いです。だから紙で抵抗しています」


「弱い抵抗ですね」


「紙は、弱いようで残ります」


 榎木は表に張られた紙を思い出した。


 太い黒字の「文芸部」。その横に、井上さんの青い万年筆で足された「活動中」。さらに隣には生徒会からの撤去要請があり、その下には同じ青で「検討します」と返事がしてある。


 どう見ても弱い抵抗だった。


 指をかければ剥がれるし、時間が経てば端から黄ばんでいく。けれど、さっき拾った部誌もそうだった。紙は弱いくせに、妙にしぶとい。折れても、破れても、誰かがそこに置いた言葉だけは案外残ってしまう。


 だから厄介で、だから少しだけ信用できる。


「……剥がれていたら、押さえておきます」


 しまった。


 今のはだいぶ余計だった。感想文で言えば、本文からはみ出した一文である。削除推奨。青インクで囲まれる前に回収したい。いや、もう遅い。言葉は一度出ると、提出箱に入れられた感想文みたいに戻ってこない。返却されるときには、たいてい何か書き込まれている。


 井上さんは、少し目を丸くした。


 それから、嬉しそうに笑った。


「はい。お願いしますね」


 回収できなかった。


 そのときだった。


 扉の向こうから、足音が近づいてきた。廊下の空気が、少しだけ重くなる。備品室の中にいたときは気づかなかったが、この部屋は生徒会室の隣にある。つまり、文芸部が「文芸部なので」と言い張るたびに、その隣では学校制度が現実の顔をして座っているわけだ。


 かなり危険な立地である。


 文芸部の隣に生徒会があるのではない。生徒会の隣で、文芸部が紙一枚ぶんだけ領土を主張しているのだ。ここでは紙を貼れば領土になる。恐ろしい法体系だ。国境線がセロハンテープでできている。


「備品室、まだ誰かいますか?」


 扉の向こうから、誰かの声が漏れた。


 低すぎず、高すぎず、感情より先に規則が歩いてきそうな声だった。榎木は思わず足を止めかけたが、止める前に、今度は目の前の扉が開いた。


 がらり、と音がする。


「……葉くん?」


 扉の外に立っていたのは、同じ制服の女の仔だった。


 小さい。


 ただし、小さいと言った瞬間に怒る種類の小ささである。左右で高く結ばれた髪が、扉の動きに少し遅れて揺れていた。ツインテール、と呼ぶのが一番早いのだろうが、彼女のそれは可愛さの記号というより、警告標識に近い。そこから先へ踏み込むと、昔の失敗を掘り返される。小学校の給食当番で牛乳を倒した件まで出てくる。時効がない。幼馴染(てんてき)の記憶には、どうやら民法が適用されない。


 大きめのリボン。少しつり気味の目。整っているのに、どこか攻撃的な顔立ち。


 可愛いか可愛くないかで言えば、「可愛い」と思う。


 しかし、可愛いという形容詞は時々、凶器にリボンを結んだだけの状態を指す。今がそれだった。


 櫻井玲於奈(さくらい・れおな)


 ――榎木の幼馴染である。


 そして今――この場で、一番会いたくなかった相手でもある。


「は、はい」


 急に名前を呼ばれて、変に声が裏返る。


「……ここで何してるの?」


 当然の質問だ。


 当然すぎて、逆に答えにくい。放課後、生徒会備品室で、二年生の先輩と二人きりで、読書感想文を添削され、次の本を渡されていました。事実である。事実なのに、提出した瞬間に呼び出しがかかりそうな報告書でもある。


 「会いたくなかった」というより、見られたくなかった。


 放課後の生徒会備品室、あるいは文芸部室、あるいは井上さん国内法における文芸部領で、二年生の先輩から『山月記』を渡されているところを幼馴染に発見される。


 事案としては小さい。


 けれど説明の難易度だけなら、そこそこ大きい。


 玲於奈は、まず榎木を見た。


 次に、井上さんを見た。


 それから、机の上の部誌と、榎木の鞄に半分だけ覗いている薄い文庫本と、扉に貼られた「文芸部」の紙を順番に見た。


 視線だけで、すでに尋問が始まっている。


 幼馴染の目というものは厄介だ。校則より昔のこちらを知っていて、生活指導の先生より細かいところを見ていて、生徒会の監査より遠慮がない。しかも違反を発見した瞬間、注意、指導、追及、判決まで一人で済ませてくる。学校制度の外側にある権力である。幼馴染条項。そんな校則、生徒手帳に載っていない。


 榎木が返事を探していると、井上さんが先に、にこりと笑った。


「――読書会ですよ」


「……こんなところに、二人きりで?」


「ここは、文芸部室なので」


 玲於奈の目が、ゆっくり榎木へ戻る。


「葉くん」


「はい」


「今の返事、完全にそっち側だったんだけど」


「……そっち側とは」


「備品室を文芸部室って言い張る側」


 かなり刺さる。


 しかも、昔からこちらの名前を呼び慣れている声で刺してくるから、余計に逃げにくい。井上さんの青インクが逃げ道に線を引くものだとすれば、玲於奈の言葉は逃げ道の前に三角コーンを置く。通行止めである。しかも私有地っぽい。


 玲於奈は扉に貼られた紙を見た。


「ここ、生徒会備品室って書いてあるけど?」


「現在、名称と制度の方が遅れていますので」


「部屋札だけ置いていかれる校則、聞いたことないんだけど」


 井上さんはまったく動じなかった。


 玲於奈は今度こそ、はっきり眉を寄せる。


「葉くん、この人、何?」


「文芸部の先輩です……」


「そこが一番分からない」


 玲於奈は、呆れたように息を吐いた。


 その表情を見て、榎木は鞄の中の『山月記』を思い出した。


 読書というのは、一人で本を開く行為のはずなのに、どうしてこうも周囲の視線が増えるのだろうか。人数が増えたぶん、栞の位置までずれていく気がする。


 明日、噛まれる。


 そう――思っていた。


 けれどその前に、幼馴染に噛まれた――もちろん、甘噛みではない。

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