5 講評(好評)
※ここから児童文学『秘密の花園』の重要な展開に触れます。未読の方はご注意ください。
「それに椅子が噛んだら、それはそれで大事件ですよ……」
「事件は、文芸部の活動実績になります。それに爪痕を残す活動もしていますから」
こちらが否定すると、井上さんは可愛い顔で、しかも真顔で「それ、何か間違っていますか?」と訴えかけてくる。
今はそれが――怖い。
「……椅子が爪痕を残したら、椅子として終わりだと思うんですが」
榎木は向かいの椅子を引いた。
ぎぃ――鈍い音がした。
椅子が鳴いた――幸い噛まれはしなかった。
確かに「鳴いた」と言っていいのかは分からない。少なくとも椅子は、抗議文を提出する代わりに音を出した。椅子にも椅子なりの主張があるのだろう。
座ってから、榎木は胸の前に抱えていた『秘密の花園』を机に置いた。
古い表紙が木の机に触れ、乾いた音を立てる。頁のあいだから栞を抜くと、白い厚紙の端は昨日より柔らかくなっていた。たった三日、鞄の中に入っていただけなのに、紙はもうこちらの生活に馴染みかけている。青い万年筆の文字だけが、夕方の光の中で新しく見えた。
井上さんは、その本と栞を順番に見た。
「ちゃんと来たんですね」
「呼び出されましたから」
「『呼び出し』は物騒です。私はただ、迷子に道を教えただけです」
井上さんは小さく笑って、栞の端に指先で触れた。
「感想、読ませてもらいました。『面白かった』です」
「『面白かった』以外を要求しておいて、感想が『面白かった』なんですね」
「では、面倒で『面白かった』です」
「面白かった」。便利な言葉である。便利すぎて、だいたい何も言っていないのに、何か言ったことにできる。読書感想文界における万能調味料。困ったときに振りかければ、それなりに味がついたように見える。ただし、万能調味料というものは、万能であるがゆえに危険でもある。かけすぎれば全部同じ味になるし、最終的には素材の味が死ぬ。読書感想文における「面白かった」は、味付けであると同時に、証拠隠滅でもあるのだった。
もっとも、そんなことを言っている榎木自身、昨日の感想の三割くらいは「面白かった」の親戚で構成されている。批判できる立場ではない。親戚付き合いが濃すぎる。
「……悪化しましたね? 今の僕の反応を聞いてから変えましたよね?」
「濃い感想は、残りますからね。ソースの染みだって残ります」
「僕の読書感想文、いま完全に洗濯事故の被害者になりましたよね」
「でも本当に、『面白かった』んです。榎木くんは、感想に理由をつけるのが上手ですね」
「それは……褒めてます?」
井上さんの目元だけが楽しそうに細くなった。
笑顔というほど分かりやすくはない。
こちらの言葉がちゃんと届いて、遊ばれて――ちゃんと机の上に置き直されたのが分かる顔だった。笑うより厄介だった。笑われるだけなら抗議できるが、楽しそうにされると抗議文の宛先が分からなくなる。
「褒めています。ただ――」
「……ただ?」
井上さんは、机の中央に置かれた栞へ視線を落とした。
「ひとつだけ。榎木くんは、字がきちんとしすぎています」
「……字の話ですか」
「字だけではありません。文章もです。庭のことも、人も、ちゃんと並んでいます――でも、並びすぎていて、読んでいるあいだの榎木くんが、後ろに隠れています」
褒められたと思ったら、隠れていることになっていた。
感想文を書いただけで、まさか本人が行方不明扱いになるとは思わなかった。
「感想文に本人を出す必要あります?」
「あります。少なくとも、私は読みたいです」
井上さんは、楽しそうに万年筆を指先で転がした。
からから、と乾いた音がする。
細い指のあいだで、青い万年筆が一回転する。二回転目に入りかけて、彼女の親指がそれを止めた。止め方が妙に上手い。文房具に対する手つきというより、小さな生き物の首根っこを、痛くないぎりぎりの力で捕まえているような手つきだった。
ここで「指まで可愛い」などと考え始めたら、この読書会は文学から別ジャンルへ転落する。危ない。転落防止柵が必要である。
だから榎木は、万年筆の方を見ることにした。
青い万年筆は、文房具というより、この部屋における権力の象徴に見えた。王笏(あるいは凶器)。どちらにしても先端が尖っている。
文芸部の権力は、どうやら刺さる仕様らしい。
「感想に理由をつけるのは――普通じゃないですか」
「悪いことでもありません。でも、普通です」
「……はい」
「むしろ、私は榎木くんのそういう読み方、好きですよ。理由を探して――構造を見て、ちゃんと自分で納得しようとするところ」
その言葉は、思ったより変なところに触れた。
「好きです」という四文字だけならまだ逃げられた。感想における好きであって、個人に対する好きではない。
好意ではなく――評価。
恋愛ではなく――講評。
そうやって分類棚に押し込めれば済むはずだったのに、井上さんはその後ろに「読み方」に「理由」とか、榎木が普段から使っている言葉を丁寧に並べてくる。つまり、逃げ道にこちらの私物を置いてくる。悪質だった。落とし物として拾わざるを得ない。
榎木は膝の上で指を組み、親指の爪を軽く押した。
「……『好きです』のあとに添削されるとは思いませんでした」
「添削ではありません。榎木くんの感想を、返しているだけです」
「返却物で人が困るなら、それはもう返却ではなく攻撃です」
「困ったなら、そこに榎木くんが残っていたんだと思います」
そう言われると、返す言葉が一瞬だけ遅れた。
残っていた。
「何が」と聞き返せばよかった。普通ならそうする。いや、普通かどうかは知らないが、少なくとも会話の手順としてはそうだ。分からない言葉が出てきたら確認する。問題文を読む。条件を整理する。場合によっては下線を引く。榎木は何も聞かなかった。
膝の上で組んだ指の、親指の爪だけを押した。たぶん、聞いたら返ってくる。返ってきたら、また困る。この人は、そういう返却をする。
井上さんは本を開いた。
頁をめくる指が丁寧だった。紙の端をすくい、急がず、折らず、次の頁へ送る。榎木はその手つきを見てしまってから、見ていたことをごまかすように視線をずらした。ずらした先には、例の乾いた糊がある。糊は喋らない。
助かる。ただ――助けてはくれない。
「榎木くんは、この本を『人の中に閉じ込められていたものが動き出す話』と書きましたね」
「……そうですね。それがどうなるんですか」
「榎木くんらしい読み方だと思いました。閉じているものと、開いていくものを見るんですね」
糊を見ていたことにしておかれた数分前の方が、まだ身体的には安全だった。精神的には不明である。
糊は喋らない――井上さんは喋る。
しかも、喋る糊みたいに、言葉が妙なところへ貼りつく。文芸部の接着力は、どうやら備品の糊より高いらしい。
「僕は、庭そのものより、庭に関わった人たちの変化の方が大きいと思ったんです。メアリが鍵を見つけて庭を開ける。庭が開くとメアリが変わる。メアリが変わると、今度はコリンの部屋に入り込む。閉じていた場所がひとつ開くたびに、次の閉じた場所へつながるというか……」
「鍵開けの連鎖ですね。榎木くんの読み方は――かなり鍵屋さんに近いです」
「文学とピッキングを同じ棚に置いた時点で、だいぶ治安が悪いです」
言ってから、今の返しは少し綺麗すぎたな、と思った。
いや、綺麗すぎたというより、用意していたみたいだった。実際には何も用意していない。榎木の脳内に勝手に出てきただけである。勝手に出てきた言葉ほど、あとから責任の所在が分からない。発言者は僕。責任者も僕。監査役は井上さん。嫌な組織図だった。
「でも、針金一本で花園の扉を開けようとしているわけではありませんよ?」
「……その言い方だと、余計に犯罪感が増します」
「では、合鍵です」
「合鍵もだいぶ駄目です……」
そこで終わってくれれば、まだただの軽口だった。




