4 交戦(口戦)
「……糊を、見ていたわけでは、ありません」
榎木はその言葉を口にしてから、失敗したと気づいた。
正直に言えば、糊ではなく彼女を見ていた。だが、それを認めた瞬間、この会話は弁明から告白へ種目変更する。残念ながら榎木に、その競技経験はない。
本来、見ていないものについては、そもそも弁明しない。「見ていないです」は、かなりの確率で見ていた人間の口から出る。現場検証である。証拠品は乾ききった糊、被告人は榎木葉、裁判長は目の前の女の仔で、陪審員席には備品棚の奥に積まれた段ボールが無言で積み上がっている。これは厳しい。段ボールは、構造上、多数決に弱いからだ。
「はい。『そういうこと』にしておきます」
「………………」
この沈黙、非常に気まずい。
彼女は、まだ穏やかに笑って、返事を待っている。
ターン制バトルで言えば、こちらのターンである。にもかかわらず沈黙しているのは、ほとんど遅延行為に等しい。
マナー違反だ。
「……『そういうこと』にされた時点で、『そういうこと』では、なくなった気が、します」
「では、『そういうこと』では『ないということ』に、しておきますね」
「……や、ややこしい。糊より粘着質な会話になってきました」
無意識に、『秘密の花園』を抱える腕に力が入った。親指の腹が古い表紙の角を押し、紙の束が胸元でかすかに軋む――図書室の本を人質みたいに締め上げている時点で、かなり負け戦である。
「まあ、生徒会曰く、『ここは備品室です』からね」
生徒会側の証言を採用するなら。
やはり、ここは文芸部の占拠地なのだろう。
「でも、備品室は……会話の粘度まで管理してないと思います」
「文芸部では、『解釈』の余地を大切にしていますので――たとえば、『ただの備品室』という札が貼られていても、そこに本が持ち込まれ、人が集まりだしたなら、それは、もう、『ただの備品室』ではない、という『解釈』が成立します」
「………………」
言い返せなかった。
正確には、言い返すための言葉はいくつか浮かんだ。浮かんだのだが、そのどれもが、彼女の言う『解釈』という網に引っかかってしまう。言葉の捕獲率が高すぎる。もはや言語の密猟者である。
夕方の光が、備品棚の角に引っかかっていた。
「つまり、あなたはもう、この部屋を『ただの備品室』としてだけでは、見られなくなっていますね」
誰かが貼っただけの「文芸部」という紙。そんな仮住まいみたいな場所で、彼女だけが、最初からここを部室だと信じているみたいに座っている。
「本を持ってきてしまいましたし、この部屋にも入ってきてしまいました。さっきから会話も置いていますね。それに――出会ったときから何度か視線を逸らしていますし、耳の先が赤くなっています」
「…………っ!」
やはり――視線はバレていた。
口では否認できても、身体までは証言台から降りてくれないらしい。
これは、とても恥ずかしい。
「それだけ重なれば、だいたいの場所には意味が生まれてしまいます」
「………………」
こころの中で、言葉になる前のものがいくつか転がった。
名前をつけるには早すぎて、なかったことにするには、もう少しだけ遅いものだった。
「その様子だと、ばれていないと思っていましたか」
「……何が、ですか」
「そこを女の子に言わせるんですか。――いやらしい」
「――はっ?」
待て待て。
この人は、一体なにを言っているんだ。
「さっきから、私の胸ばかり見ていました。気づいていないと思いましたか? 女の子は、そういう視線に敏感ですからね」
「ちがいます!」
反射的に否定してしまった。
こういうものは、必死に抵抗しようとすればするほど、それらしくなる。「私はやっていません」と叫ぶ容疑者ほど、取調室の机に身を乗り出しているように見える。しかも今回の罪状は、よりにもよって胸である。冤罪としては最悪に説明しづらい部類だった。身の潔白を証明するためには、まず問題の現場を確認しなければならない。しかし、確認した瞬間、確認自体が罪になる。
「ち、違うんです! 僕は、その、視線の置き場に困っていただけで――」
「置き場に困った結果、そこに置いたんですね。いやらしい」
だから――そこじゃない。
「視線を備品扱いする時点で、かなり悪質な解釈です!」
そして榎木は、最悪のことをした。
「見ていない」と証明するために――見てしまった。
反射だった。事故だった。指をさされると、視線は勝手にそちらへ吸い寄せられる。「火事です」言われれば火元を見るし、「これ落としましたよ」と言われれば床を見るし、「胸ばかり見ていますよ」と言われれば――いや、見るな。そこは踏みとどまれ。踏みとどまるべきだった。
だが――もう遅い。
榎木の視線は、彼女の胸元へ落ちた。
そこには――断崖絶壁があった。
いや、「壁」と言ってはいけない。失礼だ。女の仔の身体を建築資材で表現するのは、保健体育にも技術家庭にも怒られる。けれど、榎木の脳は一瞬でそう判定してしまった。平面で、垂直で――耐震性が高そう。余計な装飾のない、実用本位の設計。
文芸部室として申請すれば通りそうなほど、潔い壁面だった。
「――また、見ましたね。一応、Aの75くらいはありますからね」
これは数字の話ではない。
しかも。
名前より先に、胸の自己紹介がきた。
「なっ――確認作業です! 今のは、見ていないことを証明するために、見たのであって――」
否、こればかりは――断じて違う。
断じて違うのだが、断じれば断じるほど、断じて怪しくなるのがこの手の話の厄介なところである。「僕は無実です」と叫ぶ被告人の手に血のついた包丁が握られていたら、いくら本人が料理中だったと主張しても、周囲はまず警察を呼ぶ。今の榎木の手に包丁はない。だが視線はある――ここでは視線は凶器と化すようだ。
彼女は、まだ、にこりとはしていた。していたからこそ、余計に性質が悪かった。
「『違います』『見ていません』『見ていないことを証明するために見ました』。三段論法としては破綻していますが――情熱は伝わりました」
「情熱じゃないです! これは、冤罪への抵抗です! それでも、僕は、やっていない!」
叫ばずにはいられなかった。
それを聞いて、彼女は言葉を続ける。
もう、いいかげん勘弁してほしい。
「それに――」
そこで、彼女は首を傾けた。
その角度がまた、腹立たしいくらい落ち着いている。こちらは社会的生命を人質に取られているというのに、彼女はまるで行間に隠れた意味を拾う前に、文字の並びを確かめるみたいな顔をしていた。
「本当に見ていなかった人は、見ていないことを証明するために見たりしません」
「………………」
「黙りましたね。そして、本当に見てしまった人は、見てしまったことを認めません」
「………………」
「黙ったということは、認めたという解釈もできます。つまり、見ていなかったと言えば見ることになり、見たと言えば見たことになり、黙れば黙ったで、黙るほどのことがあったように見えます」
詰みだった。
非常に見事な詰みだった。
王手飛車取りどころではない。王手、飛車取り、角取り、ついでに学生証まで回収される勢いである。榎木は口を開きかけたが、開いたところで言葉が出てこなかった。出てきたとしても、たぶん彼女の『解釈』という網に引っかかる。もうこの部屋では、言葉が自由に泳げない。
榎木は諦めた。
この世の勝てない勝負には二種類ある。最初から勝ち筋がない勝負と、勝ち筋があったはずなのに、相手がその勝ち筋ごと栞を挟んでくる勝負である。今のは後者だった。いや、もしかすると最初から前者だったのかもしれない。そもそも相手が自分の身体的特徴を武器にしてくる時点で、こちらの想定している競技ではない。
どうやら、この人は。
自意識過剰で、言葉遊びが大好きで、こちらの反応の余白まで読んでくる、かなり面倒な女の仔なのだと分かった。
そして残念ながら。
少し――面白い。
そう思ってしまった瞬間、榎木の口元が、ほんのわずかに――緩んだ。
最悪である。
今の状況を整理しよう。初対面の相手に胸を見ていた疑惑をかけられ、否定すればするほど疑惑が深まり、最終的に自分から確認作業という名の自白に踏み込んだ高校一年生男子が、なぜか笑っている。客観的に見れば完全に危ない人だった。いや、客観的に見なくても危ない。主観でもそこそこ危ない――主観が弁護を放棄する程度には危ない。
「……へ」
小さな音がした。
さっきまで自意識過剰な罠を仕掛けていた彼女が、口元を押さえていた。
「えへ、えへへっ」
「……それ、笑って、るんですか」
「すみません。本当は、ちょっと遊びました」
謝っているわりに、肩が揺れていた。
そうして彼女は、また「えへ」と変な音を漏らした。
笑い方まで――可愛かった。
綺麗な黒髪に、整った横顔に、丁寧な言葉遣い。外側だけ見れば「品のいい誰か」で間違っていない。間違っていないのだが、中身の棚に置かれているものが、ことごとく別の方向を向いている。背表紙だけは真面目なのに、開いた瞬間、読者を罠に落とすタイプの本みたいな人だった。
もっとも、まだ名前も知らない相手を本にたとえるのは失礼かもしれない。
しかし。
胸元を見た冤罪でこちらを追い込んできた時点で、失礼の収支はすでに赤字である。こちらだけ礼儀正しくしている場合ではなかった。
彼女の笑いは、すぐに収まった。
口元から手を離し、机の上に置いてあった万年筆を指先でそっと直すと、両手を膝の上にそろえた。さっきまで人の社会的生命を弄んでいた人物とは思えないほど、姿勢がよかった。
「あなたが、榎木くん――ですね」
「なぜ名前を知っているのか」と一瞬思ったが、栞の文字を思い出して納得した。あれを書いた人間なら、こちらの名前くらい知っていてもおかしくない。自己紹介より先に名前を呼ばれると、一頁めくった先で待たれていたような気分になる。
ずるい。
変な人間が、急にちゃんとすると、それだけでこちらの調子が狂う。おかしなままでいてくれた方が、まだ安全だった。
「……はい。一年の榎木、です」
返事が半拍遅れた。
「半拍で済んだのなら上出来だ」と榎木は思った。本当に不意を突かれると、返事の前に呼吸の仕方を忘れる。今のは、その一歩手前だった――命拾いした。読書会の前に呼吸法の講習が必要になるところだった。
「二年の井上です。文芸部です」
そう言って、彼女はまた、何事もなかったみたいにほほ笑んだ。
やはり、あの栞を書いた「井上」さんだった。
それにしても、一つ引っ掛かることがある。
「……念のため確認しますが、その『文芸部』というのは、扉に紙で貼ってあった『文芸部』のこと、ですか」
「はい。紙で貼ってあった方の『文芸部』です。他の『文芸部』があるなら、ぜひ、そちらも見学してみたいですね」
榎木は扉の内側に貼られた紙をもう一度見た。
「文芸部」。
見間違いであってほしかった気持ちはある。
たまに、目で見た事実を心で否認することがある。
「あの――ここ、生徒会備品室って書いてありましたけど」
「文芸部室です」
「えっ? でも、生徒会備品室って書いてありましたけど」
「ここは、文芸部室です」
言い切った。
なにより、顔は穏やかである。
今この瞬間、「生徒会備品室」は、目の前で「文芸部室」に押し負けていた。学校の施設管理というものは、もっと頑丈にできていると思っていたのだが、どうやら紙一枚と女子高生の言い張り一つで、案外ぐらつくらしい。
「……二回言い張れば、勝てると思ってます?」
「言葉は、重ねると強くなります。文芸部は、『文』を『芸』する部活ですから」
「大喜利の会場になりましたね」
「解体と再構築です」
「もっと駄目です。それに学校の部屋に、そんな成長要素はありませんよ」
「では、文芸部で成長するのは私たちの方ですね」
「なぜ、今のでいい話に寄せられるんですか」
文芸部は、制度の隙間に入る接着剤か何かなのだろうか。
備品室を部室化する特殊素材。素材は、言い張る勇気である。
防火性能は、たぶんない。
「他の部員は……」
「鋭い質問ですね。今の一言には、『文芸部が本当に存在するのか』『部室と呼べるだけの実態があるのか』『そもそも私以外に生存者がいるのか』など、複数の疑問が圧縮されています。短いのに、よく刺さります」
「つまり。答えにくい質問なんですね」
井上さんは、口元に人差し指を当てて考えるような仕草をした。考える必要のある質問ではなかったはずだが、彼女はかなり真剣な顔をしている。榎木はまた、机の上へ視線を落とした。乾ききった糊の容器は、相変わらず乾いている。
「現在、物理的に確認できる部員は、私だけなんです。ここだけの話ですが、概念上は若干名いるかもしれません」
「言い方が怖いです。それに、概念上の部員って何ですか」
「昔の部誌を書いた大先輩とか。文芸部では、卒業しても魂は在籍し続けますので」
「急に怪談になったんですけど」
井上さんは小さく笑った。笑い方は静かなのに、備品室の薄暗さが、そこで一枚だけめくれたように見えた。
初対面の相手と話しているはずなのに、不思議と会話のテンポが合ってしまう。
「合ってしまう」時点ですでに不本意だった。
「まあ――まあ、まあ、座りましょう。文芸部室の椅子なので、たまに鳴きますけど、噛みませんよ」
「……椅子が、鳴く?」
「鳴きますよ。『お』とか『ぎゃあ』とか。たまに、聞かなかったことにしたい声もします」
「それは、ほんとに鳴き声なんですか……」
どこから訂正すればいいのか分からず、榎木は一度だけ椅子を見た。木製の古い椅子は、特に何も知らない顔でそこにある。自分が今まさに鳴く家具として紹介されたことについて、抗議する気配はない。




