3 乾燥(感想)
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榎木は本を棚から抜き取り、昨日の自分が栞を挟んだあたりを開いた。
栞はそこに――なかった。
指先が一瞬止まる。頁を数枚めくると、庭の気配が濃くなるあたりに、白い厚紙が見えた。昨日とは違う場所だった。誰かが動かしたのだと分かった瞬間、紙片を押さえる指に力が入る。
その白い厚紙に寄り添うように、小さく折られた紙が一枚、挟み込まれていた。
便箋と呼ぶには簡素で、メモと呼ぶには丁寧すぎる――つまり、判断に困る紙だった。高校生活において、そうした類の紙はだいたい面倒な用件を連れてくる。面倒な用件で済めばいい――済まない場合、たいてい青春とかいう名前で処理される。迷惑な分類である。
榎木はその紙を開いた。
あの――青い万年筆の字があった。
榎木くんへ
感想、読みました。
「人の中に閉じ込められていたものが動き出す話」という読み方、私は好きですよ。
ただ、理由がきれいに並びすぎていて、少しだけ感想が迷子になっていますね。
私は本だけでなく、そういうふうに読んだ榎木くんにも興味があります。
もしよければ、放課後、生徒会室の隣にある文芸部へ来てください。
あなたの感想を、詳しく聞かせてください。
井上
榎木は、紙を閉じた。
そして。
もう一度開いた――文字は変わらないのに。
昨日から、その字を書いた人物のことは想像していた。
もちろん、妄想していただけであって、期待していたわけではない――期待は、事実関係をかなり雑に処理するので信用ならない。期待していない人間が、翌日の放課後にわざわざ図書室へ来て、昨日返したばかりの本を棚から抜き取った理由については、現在調査中である。
ただ、青い万年筆の字は、榎木の字よりずっと――やわらかかった。勝手な印象で言えば、女の仔の字に見える。もちろん、字に性別があるなどと言い出したら国語辞典に叱られる――そう見えてしまったものは仕方がない。
しかも、そこには「好きです」と書いてある。
(読書の話である――冷静に読めば、完全に読書の話である。ここで『僕も好きです』などと突撃したら、僕は一生『読解力のない男』として、恥の多い学生生活を送ることになる)
高校一年の男の仔の脳は、冷静な読解より先に、都合のいい単語だけを抜き出すことがある。たいへん危険な読み方だった。これ以上は国語の成績より先に、保健体育の範囲である。
ただ、危険だと分かっていても、もう一度読んでしまうあたりが救いようがない。
それに――榎木くん、である。
初対面どころか、対面すらしていない相手に、もう「くん」付けで呼ばれている。こちらの名前は自分で書いたからいいとして、距離の詰め方が早い。「井上」という人はみんなこうなのだろうか。全国の井上さんを一括りにするのは危険だ――サンプル数は一。統計としては貧弱なのに、圧だけはやたら強い。
生徒会室の隣にある文芸部。
用件としては、かなり具体的だった――具体的すぎて逃げ道がない。図書室の本から出てきた紙に、目的地まで指定されている。これはもう、文化活動ではなく――文化的で健全な誘導である。
行かない選択肢もあった。
白い厚紙と手紙を元に戻して、そのまま帰る。昨日の出来事を、不思議な読書体験として処理する。高校一年生の春に、図書室の本に挟まった紙片へ感想を書いた。返事が来た。
以上。
人生の脚注としてはそれで十分だ。
なのに。
榎木は、『秘密の花園』を――棚に戻さなかった。
二枚の紙を挟んだまま本を閉じ、貸出カウンターで借り直す。返却したばかりの本を翌日にまた借りる。手続きとしては何もおかしくない――おかしくないが、司書の先生に一瞬だけ見られた気がして、榎木は無意味に背表紙を手で隠した。
隠す必要はない――ないのに隠した時点で、言い訳の余地はなかった。
榎木は『秘密の花園』を鞄には入れず、胸の前に抱えたまま図書室を出た。本のあいだには、昨日の自分の字と、青い万年筆の手紙が閉じ込められている。古い本は腕の中で思ったより軽かった――軽いのに、胸のあたりだけが忙しい。心臓まで呼び出しに応じなくていい。
*
生徒会室は、本校舎三階の端にあった。
榎木は入学してまだ日が浅く、校内の地理に詳しくない。覚えているのは、授業を受ける場所と、腹が減ったときに財布を軽くする場所くらいである。高校生活に必要な地理は、だいたい欲望と義務でできている。ただ図書室だけは例外だった。本を借りる場所であり、昨日の感想が今日になって手紙として戻ってくる場所でもある。校内でいちばん静かなはずなのに、やっていることはかなり騒がしい。
生徒会室は、その地理の範囲外にあった。生徒会に用がある高校一年生は、生活設計のどこかで分岐を間違えている。
生徒会室の札の隣に、もう一枚、小さな札がある。
「生徒会備品室」
そこまでは学校側の主張だった。問題は、その下に貼られた手書きの紙である。
「文芸部」
太めの黒いペンで、堂々と書かれている。紙の四隅はマスキングテープで留められていて、右下には青い万年筆で小さく「活動中」と足されていた。活動中――部屋ではなく、文字の方が活動しているように見える。
さらに横には、別の紙が斜めに貼られていた。
「無許可掲示物は撤去してください。 生徒会」
その下に、青い字で返事がある。
「検討します。 文芸部」
検討で済ませていい問題ではない。少なくとも、生徒会は撤去を求めている。文芸部は検討を返している。部室の入口で、すでに―― 文通が始まっていた。
榎木は扉の前で立ち止まった。
生徒会備品室である。
文芸部である。
そして――生徒会と文芸部の冷戦地帯である。
どちらかが嘘をついている。あるいは両方が本気で言い張っている。学校の部屋札と手書きの紙が正面から対立している場合、法的にはどちらが強いのだろう。校則六法が存在しないことが悔やまれる。あったとしても、たぶん生徒会室に保管されている。つまり今、敵地である。
ノックをすると、木の向こうで紙がこすれる音がした。
「――どうぞ」
声は、思っていたより近かった。
扉を開けると、古いガムテープと紙と、かすかなインクの匂いが流れてきた。図書室とは違う――図書室の本の匂いには、読むために残ってきた時間がある。この部屋の匂いには、片づけられなかった時間が混じっていた。似ているようで、責任者の所在が違う。「責任者不在」という意味ではかなり強い。
狭い部屋の真ん中に、ひとりの女子生徒が座っていた。
彼女はセーラー服を着ていた。立てば百六十センチくらいだろうか。高すぎるわけではない。低いわけでもない。座っているのに、姿勢のせいで背筋がすっと通って見えた。いや――初対面の相手の身長を目測するな。失礼である。感想文を伝えに来たはずが、反省文を書くことになる。ジャンルが近いぶん、余計に逃げ場がない。
髪は黒く、まっすぐで、肩より下まで落ちていた。ただ長いだけではない。毎朝ちゃんと櫛を通され、湿気と戦い、勝った日の黒髪だった。両頬の横だけが顎のあたりで切りそろえられていて、動くたびにその短い髪が一拍遅れて揺れる。いわゆる姫カット(あるいは平安貴族のデッドコピー)である。名称からして強い。髪型だけで身分制度を持ち込んでくるのは反則ではないだろうか。
乱雑な備品室の中で、そこだけ線がきれいだった。
一方で、机の上には開きかけの本が三冊、栞が二枚、クリップがひとつ、乾ききった糊の容器がひとつ転がっている。ただ、完全な乱雑ではなかった。三冊の本は別々の角度で開かれているのに、どれも彼女の手が届く範囲にある。散らかっているのではなく、考えかけの何かが、そのまま机の上で止まっているように見えた。
髪は整っている。セーラー服の襟も整っている――なのに机の上は整っていない。
整っている人なのか、散らかっている人なのか、判断に迷う。
いや――違う。
判断に迷っているふりをしているだけである。
普通に、かなり可愛い。
かなり――副詞では足りない気もした。かといって「めちゃくちゃ可愛い」と言うと語彙が敗北する。読書をしている人間として、語彙の敗北は避けたい。避けたいが、現実には語彙が膝をついている。立て。語彙。ここで倒れるな――
駄目だった。
語彙は立てなかった。
彼女は万年筆のキャップを閉めながら、榎木を見た。
ほんの一瞬、部屋の音が遠くなった。
生徒会室から漏れていた声も、窓の外の運動部の声も、備品棚の奥で何かがずれる小さな音も、少しだけ後ろへ下がった。代わりに、彼女の指先が万年筆から離れる動きと、目元に浮かんだ小さな笑みだけが、やけにはっきり見えた。
まずい。
この人は、紙面より先に視線で添削してくるタイプだ。
榎木はすぐに視線を机へ落とした。乾ききった糊の容器は、やはり乾ききっていた。助からない――何が助からないのかは分からないが、少なくともこちら側の感情処理は助かっていない。糊が乾いているのだから、せめて感情くらい固まっていてほしかった。できればこの場から剥がれたかったが、残念ながら足は床に貼りついたままだった。現実はいつも必要なところから乾いていく。
そんなふうに、何の役にも立たない避難訓練を頭の中で実施していると――
「……糊に逃げても無駄ですよ」
彼女の口元がにやりと笑った。
「あれは――『貼るため』のものであって、見栄を『張るため』のものではありませんから」
思考の防衛線を、あっさり踏み越える声だった。
からかっているようで、笑っているのに逃げ道を塞いでくる。かなり高度な笑顔である――笑顔にも履修条件があるなら、これは予習範囲だ。




