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2 榎木の枝折(栞)

 『秘密の花園』は、タイトルだけならとても穏やかな本です。


 この二つの言葉が並ぶだけで、だいたいの読者は綺麗なものを想像します。ただ、閉ざされた場所を開ける話が、いつも綺麗なだけで済むとは限りません。


 未読の方はご注意ください。読了済みの方は、どうか自分の感想も少しだけ持ってきてください。きっと楽しいですよ?

 ぱたん、と本を閉じた。


 図書室の窓際では、春の風がカーテンをゆっくり押していた。布の向こうで運動部の声が揺れ、どこかの教室から机を引きずる音がする。放課後の学校が、昼間より静かになる――などという都合のいい校則(ルール)はない。人が減ったぶん、残った音が勝手に「自分まだいます」と名乗り出てくる。静寂とは――思ったより自己主張が強い。できれば控えめな性格でいてほしかった。


 榎木えのきは、閉じたばかりの『秘密の花園』に指を置いたまま、しばらく動けずにいた。


 面白かった。


 最初に浮かんだのはそれだった。あまりにも素直で、あまりにも短く、そして――あまりにも敗北感のある感想だ。


(いや、負けてはいない。少なくとも本に負けたわけではないし、そもそも読書は勝負ではない。読書を格闘技にするな。勝敗判定(レビュー)を持ち込むな)


 ビブリオバトルまで否定する気はない。あれはあれで文化活動として極めて健全である。「健全」が出てきた時点で、もう少し疑った方がいいのかもしれないが。


 きっかけは、()()()()だった。


 三日前の昼休み、榎木は図書室の棚でこの本を見つけた。背表紙は日に焼けていて、題名の金色も薄くなっている。それなのに、なぜか目についた。古本というよりも、棚の奥で長年営業成績(貸出回数)を上げそこねていた本が、最後の力で目線を取りにきたように見えた。積極性の方向が怖い。


 名前だけは知っていた。ちゃんと読んだことはない。そんな本は世の中に多い。知っているつもりで通り過ぎて、読んでいないことを忘れている本。榎木にとっての『秘密の花園』も、その一冊だった。


 棚から抜き取ったとき、乾いた紙の匂いが軽く立った。図書室の本には、それぞれ違う古び方がある。新しい本はインクと糊が前に出ていて、古い本は長い時間を吸った紙の匂いが奥に残る。この本は、(ページ)を開く前からそちら側の顔をしていた。頁をめくると、途中から一枚の栞が滑り落ちた。


 白い厚紙に、青みがかった罫線。角は黄ばんでいるし、市販品には見えない。誰かが学校のどこかで作ったような手作業の気配が、紙の端にまだ残っていた。栞そのものは古い――文字だけは、まだ古びていなかった。黄ばんだ紙の上で、青いインクだけが現在進行形である。過去の顔をした紙に、今の用件が乗っている――ややこしい。


 そこには、こう書かれていた。


 この本を読み終えたら、感想を聞かせてください。

 できれば、「面白かった」以外も。


 井上


 榎木は最初、図書委員会の企画かと思った。学校では、紙を一枚用意すると、だいたい文化活動が発生する。おすすめ本を並べればフェアになり、感想を書く欄を作れば交流になり、「読書の輪を広げましょう」と書けば――輪に入っていない人間まで文化的に追い込める。「文化活動」は便利な言葉だ。提出箱と締切を連れてきても、まだ笑顔でいられる。


 ところが、栞には「()()」としか書かれていなかった。


 企画なら、もっと学校らしい逃げ道のなさがあるはずだった。誰が集めるのか、どこへ出すのか、いつまでに出すのか。学校の紙は、親切な顔をして人間の逃げ道をひとつずつ塞いでくる。そこに図書委員会の角ばった文字と、やけに礼儀正しい丸ゴシックが並んでいれば、こちらも文化活動として諦めがついた。けれど栞には、その手の安全装置(提出先と締切)が何もない。()()()()と、()()()()()()だけが、紙の上で行儀よく並んでいる。お願いのくせに、姿勢がいい――始末が悪い。


 面白かった以外も。


 ――ずいぶん欲張りな栞である。頁のあいだに挟まっているだけの薄い紙片が、読後の人間にまで手を伸ばしてくる。厚さのわりに、やることが大きい。薄いからといって油断してはいけない。


 そう思いながら、結局、榎木はその本を借りた。


 それから三日間、『秘密の花園』は榎木の(トラップボックス)に入っていた。授業の合間に読み進め、家で続きを読み、部屋の明かりを消す前にもう少しだけ読み、読み終えたのは、今日の放課後になってからだった。頁を閉じるたび、あの薄い栞が本のどこかで待っている。そう意識してしまった時点で――もう負けていた。だから読書に勝敗を持ち込むな、という話なのだが。


 そして。


 読み終えた本の前で、栞の裏面を見下ろしている。


 シャーペンの先を紙に近づけると、指先が汗ばんだ。感想を書くのは、試験の解答を書くより落ち着かない。試験には正解がある。国語の記述問題に本当に正解があるのか、という人類規模の疑問はいったん脇に置くとしても、少なくとも採点基準はある。


 感想には――それがない。


 ないくせに、下手なことを書くと、自分の中身まで雑に見える――非常に厄介だ。読書感想文(デスゲーム)の顔で学校に入り込んでいるが、本当に感想を書かせる気があるのかは怪しい。少なくとも、こんなに人を黙らせるものを「感想」と呼ぶのは、だいぶずるい。


 面白かった。


 以上。


 これで済むなら、どれだけ楽だっただろう。榎木の手はまだ動かない。どの場面がよかったのか。なぜそう読めたのか。庭が開くことと、人が変わることは、どうつながっているのか。先に理由を並べれば、少なくとも感想らしい形にはなる。


(安全な感想とは何だ。保険でも適用されるのか。『読書感想保険』対象は――黒歴史。保険金は出ない。審査で落ちる)


 榎木は小さく息を吐き、栞の裏に書いた。


 庭が開いていくにつれて、登場人物たちの気持ちも外に出ていくところが面白かったです。秘密の場所を見つける話なのに、読んでいるうちに、人の中に閉じ込められていたものが動き出す話にも見えました。


 書き終えてから、榎木は数秒、栞を見つめた。


 悪くない。


 ――これは悪くない。いや、かなり良いのではないか。自画自賛が脳裏をよぎったが、自分で書いた文章を自分で褒められなくて、誰が褒めるというのか。少なくとも栞は褒めてくれない。紙は案外、沈黙が上手い。


 庭が開く――人の中に閉じ込められていたものが動き出す。


 うん、ちゃんと感想になっている。これを感想文と呼ばずして何と呼ぶのか――読書感想文である。ただし、提出する場所も、採点する人間も分からない。分かっているのは、栞の最後に「井上」と書かれていたことだけだ。情報量としては、感想文より捜査資料に近かった。


 名前を書くかどうかで迷った。


 相手は「井上」と名乗っている。こちらも名乗らなければ、無作法というものだ。


(違う。これは礼儀(好奇心の変装)。そう、これは礼儀であって、『()()』という二文字が気になったわけでは――ない。名前だけで人間が動くなら、生徒名簿はもっと危険物として扱われるべきだ)


 好奇心を礼儀に変換できるのなら、人類はもう少し上手に生きられる。そもそもこの栞を本に戻したところで、相手が読む保証はない。保証がないから気軽で――気軽だから怖い。


 最後に小さく書き足した。


 榎木葉(えのき・よう)


 苗字も名前も植物由来という、いささか光合成の効率が良さそうな名前である。もっとも、日当たりのいい席に座ったところで成績が伸びた記憶はない。書いた名前だけが急に、制服を着た高校一年生のものになった。物語の余韻(ファンタジー)の中へ、榎木葉という現実(リアル)が一行だけ混ざる。場違いな感じがして、栞を本に挟んだ。


 返却棚に本を戻すとき、窓から入った風で、壁のカレンダーの端が一度だけめくれた。本から手を引く。返したのは本のはずなのに――()()()()()()()()()()返却(テイク)とは、案外一方通行(ギブ)ではないらしい。返した本から返事が来る確率まで計算し始めたら、いよいよ文化活動ではなく「数学」である。


 逃げたわけではない。


 返却後の本の前に立ち続ける理由がないだけだ。そう心の中で言い直してから――自分で自分に疑いが向いた。言い直しが必要な時点で、だいぶ怪しい。

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