1 感想未満のラブレター未満
――春は、奥まで届くのに少し時間がかかる。
そんなものより廃部届の方が先に届きそうなのは、文芸部として非常に困る。
生徒会室の隣にある備品室は、四月になってもまだ冬の残り物を抱えていた。
寒い――というより、片づいていない。窓際では、去年の文化祭で使った折れたポスター立ての脚が、「もう歩けません」と言いたげに段ボールの隙間から突き出している。机には模擬店で使ったらしい「焼きそば 五百円」の値札が、一枚だけ取り残されていた。紙に染みた油と古いガムテープの甘い匂いが混ざって、この部屋では文学より先にソースが香っている。これは文芸部室として、かなり問題がある。もっとも正式名称は「生徒会備品室」なので、非があるのはこちらの方だった。
私は扉の内側に貼った手書きの紙を見た。
文芸部。
字がわずかに右へ傾いている。主張としても、だいぶ斜めである。学校の図面には存在しない部室を、紙一枚で発生させようとしているのだから、かなり強引だ。だが文芸部(自称)なので仕方がない――文芸部は、言葉を扱う部活である。ならば、扉に「文芸部」と貼った瞬間から、ここは文芸部室だと言い張ってもいいはずだ。貼ると言い張るは、どちらも張るである。日本語は、私に少しだけ優しい。ほら、だんだん正式な活動に見えてきた。見えてこない人は、きっと隣の生徒会の人である。
そういうことにしておかないと、私は今、生徒会備品室に不法滞在している、かなり扱いに困る生き物になる。
その問題のある部屋の真ん中で、万年筆を片手に、黄ばんだ栞を見下ろしている
栞は備品棚から出てきた。備品棚と言えば聞こえはいいが、実態は「誰も責任を取りたくなかったもの入れ」である。曲がったクリップ、乾ききった糊、配布に失敗した部誌の余り、鍵であること以外の職務を放棄した鍵、そして、この栞。「文芸部」が「部」として成立していた頃の遺跡みたいで、見つけた瞬間、思わず笑ってしまった。考古学部だったら大発見だ。実際は文芸部なので、ただ片づけが下手なだけである――悲しい現実だった。
その栞に、人を呼ぶための文章を書こうとしていた。
万年筆を持つ指が、なかなか動かない。ペン先を紙へ近づけると、インクの匂いがふっと立った。甘さの奥に、金属みたいな硬さがある。青は赤より穏やかに見えるのに、書いた言葉を消してはくれない。
「……これ、ほぼラブレターでは?」
口に出してから、あわてて首を振った。
(違う、違う違う。違います。これは恋ではない。まだラブではないし、レターにしても提出先が曖昧すぎる。栞を挟んで誰かを待つ謎の先輩なんて、あまりにも物語に都合がよすぎる。属性の安売り反対)
これは読書感想の募集であり、文芸部員獲得に向けた健全な文化活動である。健全は、怪しいものほど先に名乗る。言ってから気づいた――だいぶ怪しい。そこは青インクで塗りつぶすことにした。
机の上には『秘密の花園』が置いてある。
最初からこの本に決めていたわけではない。『山月記』は初対面にしては虎が強い。『羅生門』は部員勧誘より人生相談になる。『こころ』は罪が重い。『走れメロス』は――入部前から走らせることになる。そこで、図書室の棚で半分だけこちらに身を乗り出していたこの本を選んだ。『秘密の花園』という題名は、部員募集の隠れ蓑としてかなり都合がよかった。秘密で、花園で――しかも誰かに見つけられることを待っている。文芸部員を募集しているのか、不審な庭へ誘導しているのか、だんだん分からなくなってくる。それでも、物語の入口というものは、だいたい少し怪しいくらいでちょうどいい。
文芸部員としては、入口に賭けるしかなかった。
栞に書いた。
この本を読み終えたら、感想を聞かせてください。
――硬い。読書感想文の提出命令である。「財布はいりません、感想だけ置いていってください」という文学的カツアゲに見えなくもない。そんな罪名はない――ない方がいい。
ペン先を止めた。「面白かった」だけでもいい――本当にいい。けれど本当は「その先」が聞きたい。どこで息が止まったのか。どの頁を飛ばしかけたのか。本を閉じたあと、何が残って、何が残らなかったのか。
感想。感心。感動。感触。感傷。
感じたものには、だいたい行き先がある。
では、感じたまま終わってしまったものは、どこへ行くのだろう。そこまで考えて、ひとつ余計な字を拾ってしまった。
――感葬。
変な言葉だ。少なくとも、栞に書くには縁起が悪すぎる。まだ葬るには早い――文芸部も、この備品室も、私がここで「文芸部なので」と言い張れる時間も、終わるとしても今日ではない。
息を整えて、一行足した。
できれば、「面白かった」以外も。
井上
下の名前は書かなかった。書けば親切にはなる。ただ、親切と距離の近さは別物だ。名前は呼ばれた瞬間、その人にならなくてはいけない感じがする。私はもう「井上」でいたかった。昔みたいに「なっちゃん」と呼ばれるたび、閉じたはずの本を勝手に開かれる気がする。しかも栞の位置まで、こちらが忘れたかった頁に戻される。あの仔は平気で呼ぶけれど、高校生にまでそう呼ばれるのは、もう照れくさい。そういうことにしておきたかった。どこにでもあるこの苗字なら、誰かの背景に徹することができる。
栞をどこに挟むかで迷い、頁をめくった。乾いた紙が指に触れ、端で指先を切った。
「……出血サービスまで付ける予定はなかったんですけど。これだから電子書籍派に煽られるんです」
指を口元に寄せると、鉄の味がした。インクと紙と古いガムテープの匂いに混じって、そこだけが妙に人間だった。文芸部員にも血は通っているらしい。
庭の気配が濃くなる頁に、栞を挟んだ。
それから『秘密の花園』を抱え、扉の紙を一度押さえた。「文芸部」という文字はまだ剥がれていない。廊下では生徒会室から誰かの声が漏れ、運動場からは新入生の笑い声が届いている。春は、奥まで届くのに少し時間がかかる。それでも、届かないわけではない。
図書室の返却棚に本を戻すとき、指先に、さっき切った場所とは別の熱が残っていた。
どうか、面白かった以外の感想をくれる人に届きますように。
棚から手を離して、すぐに付け足した。
……いや、面白かっただけでも普通にめちゃくちゃ嬉しいです。
文芸部では随時、読書感想を募集しています。




