(3)宇都宮家と、有力家臣との関係
宇都宮家と、その家臣団をめぐる近年の状況は非常に複雑だった。
以前から宇都宮家中では、主従間で婚姻や養子縁組が幾度となく行われ、特に宇都宮家と芳賀家とは、血縁の面でも濃い姻戚関係にあった。
宇都宮家第十六代当主は、尚綱の祖父、正綱だが、正綱の父は、当時の芳賀家当主、成高である(正綱の母は、宇都宮家第十四代当主、等綱の妹)。したがって、正綱以降の宇都宮家当主は、みな芳賀成高の血を引いていた。
正綱の嫡男で、宇都宮家第十七代当主、成綱は、外戚である芳賀家の専横を抑えて家臣団を一つにまとめ、対外的にも周辺諸侯との戦いを有利に進めて版図を広げ、宇都宮家中興の祖と呼ばれる名君であった。
成綱が没すると、その息子忠綱が第十八代当主に就いたが、忠綱の傲岸不遜な仕置に反発する家臣が多く、宇都宮家中は親忠綱派と反忠綱派とに分裂した。
忠綱が下総結城家との戦いに出陣した隙に、忠綱の叔父、興綱が、反忠綱派の重臣、芳賀高経らと結託して宇都宮城を占拠し、宇都宮家第十九代当主の座に就いた。
宇都宮城から締め出された忠綱は、やむなく、親忠綱派の重臣、壬生綱房を頼って鹿沼城に身を寄せ、復権の機会を窺った。だがその四年後、それを果たせぬまま鹿沼城で死去した。これは忠綱を見限った綱房による謀殺とも噂されたが、真相は明らかではない。
興綱は宇都宮家当主になったものの、その実権は、興綱を擁立した芳賀高経に握られていた。
やがて、それを良しとしない興綱は高経と露骨に対立するようになる。だが結局、興綱は政争に敗れ、高経によって隠居を余儀なくされ、かつ幽閉の身となった。
高経は、興綱の息子で、幼少期から宇都宮大明神慈心院の僧侶として入山していた尚綱を還俗させて、宇都宮家第二十代当主に据えた。このとき、尚綱は二十三歳であった。
その二年後、幽閉されていた興綱は自害して果てた。
尚綱も、高経にとっては傀儡当主に過ぎなかった。高経は宇都宮家中で権勢を振るったが、尚綱は父興綱同様、それを良しとせず、やがて高経と対立するようになる。
尚綱は、高経との政争に敗れた父の二の舞を避けるために、壬生綱房に接近し、これを味方につけた。
高経と綱房とはいとこ同士の間柄だが、実権を奪われたくない高経と、尚綱に味方して高経を追い落とし、実権を手中にしたい綱房とは対立を深めた。やがて、尚綱、綱房の勢力が優位となり、それと相反して高経の発言力は低下していった。
高経は劣勢を挽回すべく、都賀郡の児玉城に拠って尚綱へ反旗を翻したが、結局敗北して捕らえられ、処刑された。
高経亡き後、壬生綱房が宇都宮家における最大の権力者となった。尚綱と綱房とは、二人で手を組んで高経を追い落としたものの、それが成就すると、今度は互いに反目するようになった。綱房はしばしば尚綱の命に従わず、独断専行が目に余るようになっていた。
このような経緯があって、宇都宮家中は、主家とその有力家臣である芳賀家、壬生家を中心に因縁と怨恨とが折り重なった状態であり、その他の家臣もそれぞれに確執を抱えていて、その屋台骨はとても盤石とは言い難かった。




