新魔王
若干閲覧注意かもしれないです
旅先の宿で迎える朝は、もう日常の一部になっていた。
廊下を叩く軽やかなノックと共に、ミレイナの澄んだ声が響く。
「ワイアット、朝ですよ」
重たいまぶたをこすりながら、ワイアットはのそのそと身を起こす。
「……おう……おはよ……」
まだ夢の続きにいるような声で、ベッドの隣に寝転がる赤髪へとぼやく。
「おいカレン、行くぞ……服着ろ」
「う〜ん……♡ 寝不足〜」
カレンは毛布にくるまり、気だるげに寝返りを打つ。
昨夜の騒ぎが尾を引いているのか、それともただの悪ふざけか──その甘えた声が、部屋の空気を少し柔らかくした。
こうして始まる、彼らのいつもの朝。
今日もまた、旅は続いていく。
宿の朝──ロビーにて
身支度を終えた一行は、宿のロビーに集まった。
カウンター越しに差し込む朝日が床に斜めの影を落とし、外では人々のざわめきが一日の始まりを告げている。
先に待っていたのは、清楚な黒髪の少女だった。
「ワイアットさん、おはようございます♡」
エトラがはにかむように微笑み、頬へと軽くキスを落とす。
朝の挨拶は、彼女にとってもう習慣のようなものになっていた。
「おはようございます♡ では今日も参りましょう」
続いてアイネスが落ち着いた声で囁き、そっと唇を重ねる。
静かな気品を漂わせながらも、彼女もまた欠かさない日課だった。
ロビーに漂うパンの香ばしい匂いと、仲間の笑顔。
こうしていつも通りの朝が始まり、また新しい一日が積み重なっていく。
「よし、じゃあチェックアウトするぞ」
ワイアットが軽く伸びをしながら言う。
「あ、もうしておきましたよ。我が君の鍵も預かっていましたので。あと全員分のコーヒーも頼んでおきました」
ミレイナは当然のように答え、控えめに微笑んだ。
そのやり取りを聞いていたカレンが、ジョッキでも持つように手を振って笑う。
「なんかさー、あの二人って熟年夫婦だよね」
「ミレイナさん、言わなくても全部やってくれますね……」
エトラは小さく感心したように呟く。
「流石、ミレイナさんです♡」
アイネスも優雅に微笑み、軽く頷いた。
仲間たちのやり取りに、ワイアットは頭をかきながら口の端を上げる。
「……まあ、助かってるよ」
穏やかな朝の光に包まれながら、一行はいつものように笑い合い、宿を後にした。
コーヒーを飲み終え、荷物を背負った一行は宿を後にした。
街の門の前には、すでに蹄を鳴らす二頭の名馬が待っている。
ワイアットはレガシーロジストの首筋を軽く叩き、その背に軽やかに飛び乗った。
「よし、行くぞ」
その後ろにカレンが笑顔で跨がり、彼の腰に腕を回す。
ミレイナはリボーンズエスポワールにきちんと腰を下ろし、その背にアイネスが静かに体を預けた。
二人の銀髪が朝日を受けてきらめき、芦毛の馬体と共に美しく映える。
そしてエトラは箒に跨り、ひらりと宙へ舞い上がった。
黒髪を風に揺らしながら、楽しそうに仲間たちを見下ろす。
──いつもの乗り合わせ、いつもの光景。
大地を蹴る蹄と、空を渡る箒の音を響かせながら、ワイアット一行は今日も走り出した
街を抜け、草原を渡る街道を一行は進む。
朝の陽光が馬体を照らし、風に乗る蹄音が心地よいリズムを刻んでいた。
「エルムパレスへの手掛かり……早く見つけたいですが……」
ミレイナは馬上で真剣な眼差しを向ける。
その声音には焦りというより、使命感に近い色が混じっていた。
「エルムパレスは間違いなく実在します」
エトラは箒に跨りながら、力強く言葉を返す。
風に揺れる黒髪と共に、その瞳は揺るがなかった。
「手掛かりも、必ずどこかにあるはずです。後は──それを探し当てるだけです」
彼女の言葉に、ワイアットは肩を揺らして笑った。
「ゴールは見えてんだ。なら、あとは道を探すだけだろ。迷っても寄り道しても……最後には辿り着くさ」
朝日を浴びるレガシーとリボーンズが力強く地を蹴り、仲間の視線が自然と前へと向かう。
確かな目的地がある限り、この旅は止まらない。
果てしなく広がる荒野を、ワイアットたちは馬と箒で駆け抜けていた。
乾いた風が頬を叩き、砂塵が蹄の跡を巻き上げる。
そのとき、遠くに小さな人影が見えた。
母親と幼い娘らしき二人が必死に走っている。
振り返る間もなく、後ろからは武器を構えた怪しげな集団が追い迫っていた。
「我が君!? あれは……!」
ミレイナが鋭く声を上げる。
「なんだ? 盗賊か?」
ワイアットは目を細め、追手の数を素早く数える。
「どっち助ける?」
カレンが唇を吊り上げ、楽しそうに問う。
「親子!」
「やっぱりね♡」
即答と同時に、ワイアットはレガシーの手綱を強く引いた。
名馬は砂塵を巻き上げて荒野を疾走し、一直線に敵の集団へと迫る。
ワイアットは腰の袋から即席の火炎瓶を取り出し、芯に火を灯す。
「どけぇぇぇっ!!」
振りかぶって投げ放たれた瓶が、轟音と共に爆ぜた。
火柱が荒野を照らし、追手たちが慌てふためいて散り逃げる。
火炎瓶の炎が収まったころ、母娘はようやく足を止めた。
荒い息を繰り返しながらも、二人は深々と頭を下げる。
「……助けていただき、本当に……ありがとうございます……!」
母親が涙声で礼を述べる。幼い娘も、母のスカートを握りしめながら、震える声で続いた。
「ありがとう、お兄ちゃん……!」
ワイアットは馬上から軽く顎をしゃくると、声を落とした。
「何があったんだ? あいつらはなんだ?」
母親はしばらく唇を噛んでいたが、覚悟を決めるように答える。
「……私たちは、近くの街から逃げてきました。あの街は……魔族と、それを信仰する人間たちに襲われて……」
「“生贄の街”に……されてしまったのです」
娘が震える声で言葉を継ぎ、母の背にしがみつく。
「さっきの追手は……魔族を信仰している連中です。逃げ出した私たちを捕らえ、供物にするために……」
母の瞳には、恐怖と憤りが同時に宿っていた。
母娘の言葉に、場の空気が一気に重くなった。
誰もが顔を曇らせる中、ミレイナが真っ直ぐに声を上げる。
「……放ってはおけません。我が君、どうか……!」
「私も同じ気持ちです」
アイネスは静かに娘の肩に手を添え、憂いを帯びた瞳で続けた。
「生贄など、あってはならないことです」
二人の言葉に、ワイアットは鼻で笑い、馬上で肩をすくめた。
「この前の仕返しもあるし──一丁やってやるか!」
腰の袋から数枚の金貨を取り出し、母親の手に無造作に押しつける。
「街は俺たちがなんとかしてやる。……アンタらはこれで安全なとこまで逃げな」
乱暴に言い放ちながらも、その眼差しには確かな温もりが宿っていた。
母親は嗚咽を漏らし、娘は小さな声で「ありがとう……」と繰り返す。
ワイアットは前を向き、レガシーの首筋を軽く叩いた。
その仕草は、もう迷いを微塵も感じさせなかった。
母娘を見送り、一行は荒野の先にそびえる街を目指して進み出した。
乾いた風が吹き、空の青さがやけに眩しく感じられる。
その背にあるのは確かな決意と、これまでの旅で培った絆。
しかし──彼らはまだ知らなかった。
これが、これまでに経験したどんな戦いよりも苛烈で、
そして残酷な幕開けであることを。
──「生贄の街」を巡る戦いが、今まさに始まろうとしていた。
ワイアットたちは、街道を外れた裏門から静かに忍び込んだ。
薄暗い石造りの街並みは、まるで長い時を逆戻りしたかのように陰鬱な気配を漂わせていた。
本来ならば、この世界はすでに魔族の時代を過ぎているはずだった。
ワイアットの父、ノーザが魔王を討ち果たして以降、魔族の勢力は衰退の一途を辿っていた。
人々の生活は再び光を取り戻し、少なくとも表向きは「魔族の影」は遠ざかったはずだった。
──だが、この街は違った。
路地を歩く者たちの目は狂気に濁り、広場では赤黒い布を掲げた集団が声を張り上げている。
「新たなる魔王の誕生を!」
「血を! 供物を!」
叫びは不気味な合唱となって、街全体に響き渡った。
壁には異様な紋章が刻まれ、子供ですら意味も分からぬまま魔族を賛美する言葉を口にしている。
まるで、かつて魔族が支配していた暗黒の時代が蘇ったかのようだった。
「……信じられません」
ミレイナが足を止め、眉をひそめる。
「この空気……明らかに狂っています」
アイネスも静かに首を振る。
ワイアットは肩をすくめ、しかしその目は鋭く光っていた。
彼にとっても、想像以上の異常事態だった。
一行はただ唖然としながら、街を覆う狂気の光景を見つめるしかなかった。
「ど、どうしましょう……ワイアットさん?」
エトラが不安げに問いかける。黒髪が小さく揺れ、視線は街の異様な光景に釘付けのままだった。
ワイアットは口の端を吊り上げ、肩をすくめる。
「魔王が復活してエルムパレスにまで被害が出たら困るしな……」
わざと軽い調子で言いながら、その瞳には確かな炎が宿っていた。
そして、拳を突き上げる。
「俺たちで潰す! 俺たちに不可能は無いよな!」
「当然です!」
「我が君に続きます!」
「ええ、必ず!」
「わ、私も全力で!」
仲間たちの声が一つになり、街の狂気を打ち払うように力強く響いた。
──こうして一行は作戦へと移る。
だがその背後で、暗い影もまた蠢いていた。
次なる視点は、魔族の側。
街を覆う狂信の渦の中心に、彼らの真実が潜んでいた。
ワイアットたちがそれぞれ動き始めた、その頃。
街の中央に構える石造りの屋敷は、厚い黒布で覆われ、昼間でも陰鬱な気配を漂わせていた。
その広間には、怯えた様子で鎖につながれた女性がひとり。
彼女は生贄として連れてこられ、今にも力尽きそうに床へと膝をついていた。
その前に立つのは、魔族信仰を広める指導者の女、いや女魔族だ。
血のように赤い衣をまとい、恍惚とした表情で両手を天に掲げる。
「新たなる魔王の御前に──供物を捧げよ!」
その声は屋敷全体に響き渡り、壁に描かれた魔族の紋章が不気味に脈動した。
そして、暗がりから姿を現したのはひとりの魔族の男。
鋭い牙をのぞかせ、肌には紫紺の紋様が刻まれている。
彼の双眸には、人間を養分としか見ない冷酷な光が宿っていた。
「……人間どもは愚かだ。自ら進んで我らに血を捧げ、魔族の再興を願うとはな」
低く笑うその声には、深い蔑みと満足が入り混じっていた。
女は膝を折り、恍惚の声を上げる。
「全ては新たなる魔王の誕生のために……! 我らが再び覇権を握るその日まで!」
屋敷を満たす狂信の声と、犠牲者のすすり泣き。
街の中心で蠢くその異様な光景は、確かに“かつての魔族の時代”を思わせるものだった。
広間の壇上に立ち、グラン=ネフェルはゆっくりと手を掲げた。
その深紅の瞳がぎらりと光るだけで、屋敷の空気が張り詰める。
「二十七年前──私の父は勇者ノーザン・クレインに討たれた」
低く、しかし確かな怒りを込めて言葉を紡ぐ。
「そして現在、その息子ワイアット・クレインによって、魔王復活の計画はことごとく潰されている……」
縛られた人々の間にざわめきが走る。
だが、狂信者たちは目を輝かせ、待ち望んだ言葉を聞くように息を呑んでいた。
「ならば、父の誇りを継ぐのはこの私だ! 父の意志を受け継ぎ──新たなる魔王として魔族の復権を果たそう!」
広間に響き渡る咆哮。
信者たちが一斉に立ち上がり、拳を振り上げる。
「そのためには……より多くの命を捧げよ!!」
その瞬間、グランの隣に立つ指導者の女が声を張り上げた。
純血の魔族にして、グランの妻──ルア=ネフェルである。
「──捧げよ!!」
その一声は、雷鳴のように広間を揺らした。
狂信者たちは歓喜に叫び、先を争うように壇上へと歩み出る。
「どうか我らをお受け取りください!」
「新たなる魔王に栄光あれ!」
次々と進み出た信者の身体は、グランの掌に触れた瞬間、黒き魔力に包まれ、吸い込まれるように消えていった。
彼らの命はそのまま彼の力へと転じ、広間に禍々しい気配が渦を巻く。
一方で、無理矢理連れてこられた者たちは絶望に悲鳴を上げる。
「いやだぁぁぁ!!」
「助けてくれ!!」
「誰か……!」
狂気と恐怖が交錯し、屋敷の中はまさに地獄絵図となった。
黒き魔力に触れた信者たちは、次々と歓喜の絶叫を上げながら絶命していった。
肉体は干からび、瞳は異様な恍惚に濁り、口元には歪んだ笑みが浮かんだまま、命を手放す。
その異様な光景を、グラン=ネフェルとルア=ネフェル夫妻は見つめ合いながら受け止める。
「ルア……」
「グラン様♡」
血と狂気の中、互いに微笑み合い、二人の唇が重なる。
愛を確かめるかのように、まるでこの惨劇こそが二人の祝祭であるかのように──。
やがて、ルアが振り返り、片腕を大きく掲げて叫んだ。
「魔族のために!!」
広間に轟くその声に、残された信者以外の人々──無理矢理引き立てられてきた生贄たちが一斉に悲鳴を上げる。
「いやぁぁぁぁ!!」
「やめろ! 殺さないでくれ!」
「助けて……誰か……!」
恐怖の声をかき消すように、狂信者たちの「栄光あれ!」の叫びが渦巻き、
いよいよ彼らに刃が振り下ろされようとしていた。
「魔族のために!」という狂気の合唱が最高潮に達したその瞬間。
群衆のざわめきの中から、ひときわ強い気配が走った。
──キィンッ!
銀の刃が煌めき、前列にいた魔族の部下が、何が起きたか理解する間もなく真っ二つに裂ける。
血飛沫が弧を描き、広間の床を赤く染めた。
「なっ……誰だ!?」
狂乱に酔いしれていた信者たちが一斉に振り返る。
そこに立っていたのは、銀髪を揺らす騎士。
右手には剣、左手にはワイアットから借り受けたピストル。
「……この愚行、見過ごすわけにはいきません」
ミレイナ・クロシュノレーヌの声は、鋭い刃のように広間を切り裂いた。
次の瞬間、引き金が絞られる。
──パンッ!
銃声が木霊し、魔族の部下が頭部を撃ち抜かれて崩れ落ちる。
そのままミレイナは、剣を閃かせながら群衆の中へ踏み込んでいった。
混乱の最中、広間の隅にある大扉がギィィと音を立てて開いた。
誰もいないはずの場所に、突然空気が揺らめき──そこから姿を現したのはエトラだった。
彼女はまだ透明化の魔法を解ききらぬまま、振り返って縛られた人々に声を張り上げる。
「こっちです! 早く逃げて!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにした母親が最初に立ち上がり、その声に続くように他の人々も一斉に駆け出す。
閉ざされていた出口が開かれたことに気づいた瞬間、広間に絶望しかけていた者たちの表情に光が宿った。
「う、嘘だろ……!」
「助かるのか……!」
その背を、エトラは必死に手で押しやりながら誘導する。
黒髪が揺れ、清楚な顔立ちに不安と決意が入り混じる。
「大丈夫です、急いで! ここから逃げてください!」
混乱する信者と魔族の部下たちが振り返り、慌てて追いすがろうとするが──そこに再び銃声と剣閃が走り、ミレイナが道を切り拓いた。
逃げ出す人々を見て、グランの部下たちが一斉に武器を構えた。
「逃がすな! 生贄を連れ戻せ!」
怒号と共に踏み出したその瞬間──。
彼らの足が、不自然に止まった。
まるで見えない鎖に絡め取られたかのように、剣を振り上げた姿勢のまま固まる。
「なっ……何だこれは……!?」
「身体が……動かない……!」
広間に柔らかな声が響いた。
それは歌だった。
どこか悲しく、それでいて心を縛りつけるような旋律。
「追わせません──」
人垣の向こう、アイネスが静かに立っていた。
青い瞳を閉じ、胸に手を添えて紡ぐその声は、屋敷全体を包み込むように広がっていく。
唄に囚われた魔族の部下たちは次々と武器を落とし、膝をつき、歯を食いしばりながらも抗えずに動きを止めた。
混乱する信者たちのざわめきを背に、アイネスはゆっくりと瞳を開き、毅然と告げる。
「──この方たちを犠牲にするなど、決して許しません」
混乱の広間に、ガシャーンッ!!と窓ガラスが砕け散った。
そこから飛び込んできたのは、黒いコートをはためかせた男。
「ワイアット・クレイン!!!」
グラン=ネフェルの怒声が轟き、赤い瞳が鋭く光る。
次の瞬間にはすでに迎撃の魔力を纏い、拳を振り上げていた。
だが──。
「喰らいなさいっ!!」
割り込むように、カレンが袋を投げつける。
白い粉が炸裂し、グランの顔面を直撃!
「ぐあっ!? 目がっ──!!」
偉そうな魔族の威厳も台無し、赤い瞳を押さえてのたうつグラン。
その隙を逃さず、ワイアットは素早く背後へ回り込み…
ブスリッ!
ショットガンの銃口が、容赦なくグランの尻に押し当てられる。
にやりと口角を吊り上げるワイアット
──ドォンッ!!
ショットガンの銃声が屋敷に轟き、硝煙と共に魔力の火花が散った。
次の瞬間、グラン=ネフェルの絶叫が広間を揺るがす。
「ぐわああああぁぁぁっ!!」
グランのような上級魔族の肉体は常人を超えて頑強で、致命傷には至らない。
それでも直撃の衝撃は容赦なく、グランは床に転がりのたうった。
銃を肩に担ぎ直しながら、ワイアットはにやりと笑う。
「流石は新魔王様だな! このぐらいじゃ死なないか!」
場の空気が張り詰める中、カレンが腰に手を当て、悪戯っぽく笑った。
「でも痔は確定だね♡」
その言葉に、広間全体が一瞬沈黙する。
次いで信者も生贄も魔族の部下も、何が起きているのか理解できずにざわめき立った。
──シリアスと狂気の只中に、ワイアット一行らしい破天荒な笑いが叩き込まれた瞬間だった
「グラン様!」
ルア=ネフェルが駆け寄り、必死に夫の身体を支える。
「……すまない、ルア。大丈夫だ」
痛みに顔を歪めながらも、グランはゆっくりと立ち上がる。
外套を翻し、その瞳に怒りの炎を宿した。
「ワイアット・クレイン……やはり噂通りの卑怯者……」
「そりゃどうも」
ワイアットは肩をすくめ、片手でショットガンをくるりと回す。
広間の空気が再び張り詰める。
グランの怒号が轟いた。
「貴様のせいで……父の悲願は潰えた! 魔族の希望も消えた! ──ワイアット・クレイン、貴様はここで死んでもらう!!」
その気迫に信者たちが震え上がり、空気が震動する。
だが──当のワイアットは、にやにや笑いながら吐き捨てた。
「ケツ丸出しが何言ってんだか」
ルアが「!?」と顔を赤らめ、信者たちの間にざわめきが走る。
壮大な復讐の宣言が、一瞬にして台無しになる。
──どう見ても魔王の威厳をぶち壊しているのは、他でもないワイアットの方だった。
「貴様ァァァァ!!!」
怒声と共に、グラン=ネフェルが拳を振り上げ、ワイアットへと殴りかかる。
その一撃は大地を砕くほどの魔力を帯びていた。
だが──。
──パンッ!
鋭い銃声が広間を裂いた。
撃ったのはミレイナ。
剣を構えたまま、左手のピストルで狙い澄ました一発を放っていた。
弾丸は、よりにもよって──先ほど痛めつけられたグランの尻に直撃。
「ぐああああぁぁぁっっ!!!」
悲鳴と共にグランは床を転げ回り、顔を歪めてのたうち回る。
その姿は威厳ある魔王どころか、ただの滑稽な男だった。
「……」
ワイアットは一歩も動かず、その光景を見下ろしていた。
ただ片手をポケットに突っ込み、にやにや笑っているだけだ。
「皮肉だな……。頑強な魔族の肉体が、逆に仇になっちまってるじゃねぇか」
痛みに悶絶しながらも死なない──その強靭さゆえに、尻ばかり痛め続ける哀れな新魔王。
屋敷の空気はもはや、狂気と嘲笑の入り混じる異様な舞台と化していた。
息を荒げ、なおも立ち上がるグラン=ネフェル。
尻を押さえながらも、その瞳には烈火のごとき怒りが宿っていた。
「卑怯者!! 真面目に戦え!! それでも勇者の息子か!!!」
広間が震えるほどの怒号。
信者たちが一斉に息を呑み、緊張の視線がワイアットに注がれる。
「貴様の父──ノーザン・クレイン!」
グランの拳が震え、歯を食いしばる。
「そしてその妻、ニーナ・ピサロ! あの二人は、愛と誇りと人類の未来のために戦い、我が父を討った……!!」
一瞬、声に憎悪ではなく敬意が混じる。
「敵ながら、見事だった……! 確かに偉大な勇者とその伴侶だった!」
だが次の瞬間、怒りが爆発するように吐き捨てられた。
「だというのに!! その息子が……なんだこの姑息な戦いは!! 尻を撃つだと!? これが勇者の血を継ぐ者の姿か!!」
広間全体に、グランの絶叫が響き渡った。
ワイアットはというと
広間に響くグランの怒号を聞き流し、ワイアットは大きく欠伸をひとつ。
興味なさそうに首をかしげ、ぼそりと呟いた。
「あ〜……魔族って、皆同じことばっか言うよな。……面倒くせぇ」
視線を外し、肩をすくめながら続ける。
「父さんのことは尊敬してたよ。強くて完璧で、誰もが認める勇者だった」
口調は軽いが、その目には一瞬だけ素直な光が宿る。
「母さんも……美人だし、乳デカいし……魔法使いとしても優秀で、最高の親だった」
そこでワイアットはにやりと笑い、わざと場を挑発するように声を張った。
「──だからって俺も同じになれと? 人類の未来を守る勇者であれと?」
吐き捨てるように叫ぶ。
「ふざけんな! そんなもんは国とか軍隊にやらせりゃいい! 個人に背負わせんな!」
ざわめく広間。信者も生贄も、魔族の部下でさえその言葉に息を呑んだ。
ワイアットは銃口を軽く掲げ、淡々とした声で締めくくった。
「俺が尊敬してたのは、“親としての”両親だ。勇者としての二人を尊敬したことなんて一度も無ぇよ、馬鹿正直に生きて私欲を捨て世界の為だ?」
グラン=ネフェルの赤い瞳が、疑念と怒気に揺れた。
「なら──なぜだ……! 我ら魔族の生き残りに、なぜ仇なす!?」
その問いかけは、広間にいる誰もが抱いていた疑問でもあった。
生贄にされかけた者も、狂信に酔う信者も、息を呑んでワイアットの返答を待つ。
ワイアットは肩を竦め、あっけらかんと笑った。
「それも、この前言ったろ。──ついでだよ」
にやりと口角を吊り上げ、銃口を軽く掲げる。
「俺たちは“人魚を人間にする方法”を探してる。……嫁のためにな」
その視線が仲間へと流れる。
「ここにいるミレイナも、カレンも、エトラも、アイネスも……全員俺の嫁だ」
堂々とした宣言に、女たちの頬が赤く染まり、観衆はどよめき立つ。
「世界より嫁のため──それが俺の生き方だ。勇者の誇りだの、生き様だの……知ったこっちゃねぇ!」
その瞬間、広間の空気は完全に二分された。
狂気と怒りに燃える魔族と、呆気に取られながらも笑みを浮かべるミレイナたち。
「親の尊厳を踏みにじるな!!」
グラン=ネフェルの怒声が広間を震わせる。
「世界より女を選ぶだと!? そんなものが勇者の息子の答えか!!」
その叫びに、信者たちが一斉に同調の声を上げる。
屋敷は怒りと狂気の熱に包まれた。
しかし、ワイアットは肩を竦め、興味なさそうに笑った。
「……お前がそうなら、それで別にいいよ」
銃口を下ろし、わざと軽い声で言う。
「けどな。親の意思だの、同胞のことだの、立派な看板を背負うのも結構だが──」
その瞳が鋭く光り、広間の熱気を冷ますように一言を突きつけた。
「──嫁さんだけは、幸せにすること考えた方がいいんじゃねえの?」
一瞬、場が凍りついた。
狂気の渦中に投げ込まれたその言葉は、グランの胸を抉るように響いた。
「この外道がッ!!」
ルア=ネフェルが怒声を上げ、長い髪を翻しながらワイアットへ殴りかかろうとした。
その瞳には狂気と愛ゆえの激情が燃えていた。
だが──。
彼女の手首を掴んだのは、他ならぬグラン自身だった。
その掌は震え、力も弱々しい。
「グラン様!? なぜ止めるのです! この男を……!!」
ルアが振り返ると、グランは苦しげに微笑み、力なく首を振った。
「……ルア。もうやめよう」
その声には、かつての怒号も威厳もなかった。
「お前は……もう私や、父の名誉など背負わなくていい……」
その言葉に、ルアの瞳が揺れる。
夫を支えてきた誇りが音を立てて崩れていくようで、それでも彼女は夫の手を強く握り返した。
広間の空気は、もはや狂気の渦ではなく、哀切な沈黙に包まれ始めていた。
ルアの手を止めるグランの姿を見て、ワイアットはふっと肩を下ろした。
戦う構えを解き、仲間たちへ軽く顎をしゃくる。
「よし、帰るぞ。……皆」
一行は武器を収め、背を向けて歩き出す。
血と狂気に染まっていた広間を後にし、重たい扉が閉ざされていく。
残されたのは、泣きながら抱き合うグランとルアの姿だった。
その表情には憎悪も野望もなく、ただ互いを慈しむ夫婦の穏やかな色があった。
もはや魔王の意思も、魔族に尽くす誓いも残ってはいなかった。
──そのとき。
扉の外から、軽薄な声が投げ込まれる。
「……あ、そうだ。今回は帰るけどな──二度とカタギに迷惑かけんなよ?」
ニヤリと笑い、ワイアットが言い捨てる。
「次やったら、お前が“切れ痔で失脚した”って街中に言いふらしてやるからな!!!」
扉の向こうで笑い声が響き、やがて遠ざかっていった。
静寂の中、グランはルアを抱き締めながら、小さく呟く。
「……ありがとう……」
屋敷を後にし、夕暮れの街道を一行は進んでいた。
風が冷たく、砂塵を巻き上げる中でも、どこか穏やかな空気が漂っている。
馬上でアイネスが小さく呟いた。
「……あの二人、素敵な夫婦でしたね」
その言葉に、ワイアットは一瞬だけ目を細め、ふっと笑う。
「今思えば、ちょっと父さんと母さんに似てたかもな」
前を見据えたままの軽い口調。
けれど、その背にはほんのわずかに過去を偲ぶ影が差していた。
レガシーとリボーンズの蹄が大地を刻み、エトラの箒がその隣を並走する。
沈む陽の中、彼らの影は長く伸びて──やがて夜の闇に溶けていった。
こうしてまた、新たな一日が終わり、彼らの旅は続いていく。
この世界魔王はいなかったけど今回の敵が実質魔王かも




