― Resistance of sons ― [ 1 ]
―― 伝説のウェディング撮影会から数日が経過した。
「お帰り理子」
「ただいまお母さん! ヌウちゃんもただいまっ!」
水砂丘高校から帰宅した理子を母の弓希子と興奮気味の愛犬が出迎える。
理子にじゃれつこうとしているヌーベルをいち早く抱き上げ、弓希子は娘を急かした。
「理子、帰って来た早々で悪いんだけど、パパが理子に話があるんだって。すぐに書斎に行ってちょうだい」
コウとの婚約も終わり、二日前に単身赴任先へと一人で戻ったはずの父が在宅していると聞かされた理子は驚く。
「お父さんまたこっちに来てるの!?」
「そうなのよ、さっき突然帰ってきてね。連絡寄越さないで急に帰って来たから私もビックリしたわよ。それとお父さんじゃなくてパパでしょ」
「あ、忘れてた。それで私に話ってなに? もしかして進学のことかな?」
「パパの様子を見る限り、たぶんそういう話じゃないと思うわ。私もまだ聞かされていないから詳しくはパパから直接聞きなさい」
「うん。分かった」
理子は急いで手を洗い、父の書斎に向かう。
ドアの前に立ちノックをすると緊張で心臓の鼓動が少し早まっているのが分かった。
何か自分に話したいことがあれば今回のコウとの婚約で戻って来た時に話していたはず。
それなのにこうして突然戻ってきてあらためて話があるということは、何か緊急性の高い重要な用件に違いない。
「パパ? 理子だけど……」
「……あぁ帰って来たんだね理子ちゃん……。入りなさい」
父の声にはいつもの陽気さがなかった。
張りの無い父の声に不安心いっぱいで扉を開けると、どんよりと重苦しいオーラを纏った礼人がデスクに力なく両肘をつき、ガックリとうなだれている光景があった。
「あぁ……愛しの理子ちゃん……パパはもう終わりなんだ……」
「終わり!? もしかして会社で何かあったの!?」
「うんそうなんだ……。パパはもうダメだよ理子ちゃん……」
父の落ち込み度合いの激しさに、( もしかしてパパってば横領とかとんでもないことをして会社をクビになっちゃったの!? )と焦る理子。
憔悴の父にまず何を聞くべきかと必死に言葉を探している理子の前で、礼人は廊下の外にまで聞こえそうなほどの大きな溜息を、全身を使って長々とついた。
「……はぁぁ……、理子ちゃん……、君のパパがこんなに打ちひしがれている理由……、聞いてくれるかい?」
「う、うん!! もちろん聞く!! 一体何があったのパパ!?」
礼人はべっ甲の眼鏡をゆっくりと外すと眉間を軽くつまみ、眼鏡を静かに置く。そして再びデスクの上に両肘をついた。
「パパね……、転勤期間が延びそうなんだ……。そのショックで昨日から食事も喉を通らないんだよ……」
「えっパパの転勤延びちゃうの!?」
「うん……。後半年で終わるはずだったんだけど、社内の都合であともう二~三年はこっちに帰ってこれなさそうなんだ……」
「そうなんだ……。大変だねパパ……。で、でも元気だしてよ。そんなに暗いパパ、いつものパパじゃないみたいだもんっ」
理子は精一杯の感情をこめて礼人をねぎらった。
父がまだこの家に戻ってこなさそうだということを知り、ショックな気持ちももちろんある。
だがそれ以上に、汚職に手を染めてそれが発覚、といったような不祥事で落ち込んでいるわけではないことを知って安心した気持ちの方が強かった。
しかしここまで思い詰めた様子の父を見ていると、可哀想で仕方ない。
「あーあ……、あともう少しで理子ちゃんやママや拓斗とまたここで暮らせると思ってパパは向こうで頑張ってきたのにさ……、まだまだ帰れないなんて酷すぎるよ……。もう全部投げ出してここに逃げてきたいくらいです……」
「まさかパパ、会社辞めちゃうつもりなの……?」
愛娘のその問いに、初めて礼人は寂しそうな顔のままで小さく笑った。
「もしできるのならすぐにでもそうしたいけどね……。でもパパにもたくさんの部下がいて責任があるし、理子ちゃんや拓斗を大学まで行かせてあげたいからまだ辞めるわけにはいかないよ。だからパパは向こうに残る。僕は君たちが幸せになるためならなんだってするよ。どんなに辛くてもね」
「パパ……」
「おいで理子ちゃん」
礼人が椅子の向きを斜めにずらし、理子に向かって両手を広げる。
自分に対して必要以上に干渉してくることは多いし、「お父さん」と呼ぶことを断固禁じたりと少々面倒な部分はあるが、理子にとってはたった一人の優しい父だ。
「パパ……!!」
鼻の頭がツンとしたような感触がした。
理子はグスンと鼻をすすると礼人の腕の中に飛び込む。そんな娘の頭を父は優しく撫でた。
「ありがとうパパ……! 私も何かパパの役に立てればいいんだけど何もできなくてごめんね……」
―― その時、それまでは暗く沈痛な表情だった礼人の口の端がニヤリとわずかに上がった。
しかし抱きついているせいで理子は父のその変化にまだ気付いていない。
そんな娘の耳元で父は言う。
「……言ったね理子ちゃん?」
「ハ? 何を?」
「今言ったよね? “ 私も何かパパの役に立てればいいんだけど ” ってさ」
「う、うん、言ったけど?」
「はいっ! 言いましたああああああ!! OKOK!! じゃあ理子ちゃんっ、ここからが本題ですっっ!!」
沈んだ声で喋っていたのを一変し、突如大声を上げる礼人。
そしてその変貌にビックリしている理子の前でその本題とやらを滔々と述べ始めた。
「確かに会社の辞令で不幸にも転勤期間は延びました!! だから社畜のパパは向こうに残ります!! でもパパはもうこれ以上あっちでの一人ぼっちの生活に耐えられません!! なので決めました!! ママをパパの所に呼び寄せますっ!!」
「ええっ!? お母さんを!? じゃあ私や拓斗はどうなるの!?」
「はいそこですっ!! そこなんですよ理子ちゃん!! いや拓斗はいいんだ! 来年受験だからパパの都市の高校を受けさせればいいんだからさ!! パパの転勤先にはサッカーが有名な高校もあるから、サッカーで頑張ってる拓斗はきっと喜んでこっちに来てくれると思うし!! でも問題は理子ちゃん!! 君なんですよ!!」
「私が問題って……どうして?」
「だって理子ちゃんはこっちの大学で希望している所があるだろ? それになんたってコウくんもここにいるし、君をパパの所に連れていくわけにはいかないと思うんだ! コウくんと離れ離れになっちゃうしね! コウくんと離れるのイヤだろ?」
理子の顔が赤らむ。
礼人の言う通り、父の転勤先に着いていけばコウと離れて暮らすことになる可能性がある。いくら向こうが未来から来ているとはいっても、コウも一緒に礼人の転勤先の都市に来られるかは理子には分からない。
「でもでもだからといって理子ちゃんをこの家で一人暮らしさせるわけには絶対にいきません!! なぜなら高校生の女の子の一人暮らしなんて危ないから!! それ絶対ムリ!! だからパパ考えました!! そしていいことを思いついちゃいました!! ……聞いてくれるかなぁ理子ちゃん?」
「…………どーぞ」
すでにこの先の展開を読みきった理子がほとんど棒読みの口調でアイディア披露の許可を出す。
この後父が何を言い出すのかくらい、今なら簡単に予想がついた。伊達にこの短期間でコウやこの父に色々と振り回されて来てはいない。
「ありがとう理子ちゃん!! ではいきますっ!! だからね、理子ちゃんがコウくんの家で一緒に暮らしちゃうといいと思うのです!! だって君たちもう婚約したし!! しかも籍を入れる前に一緒に暮らしてみればお互いのことがよーく分かると思うんだ!! ほらよくあるでしょ? “ いざ結婚してみたはいいけどなんか思っていた人と違ったのでそれぞれの道を歩いていきましょう離婚 ”! 結構多いらしいよこれ? でもこれだって未然に防げちゃうってわけ!! いやーこれはもう同棲するっきゃないでしょ!! ね、パパのこのアイディアすごくいいと思うだろ!?」
「……………」
「だからさ、コウくんと “ お試し同棲 ” 、行ってみようよ!! それにもし、もしもだよ? もし図らずも二人の同棲の結果が残念な結果になっちゃったらさ、その時は理子ちゃんもここを離れてパパの所に来ればいいんだし! さてさて、どうかな理子ちゃんの気持ちは!?」
「……分かった。それでいい」
「あららららら~~!? なんか今日の理子ちゃん、ものすごーく素直さんだね! 予想では君に大反発されると思ってたからパパ、すっかり拍子抜けです!! もしかして今までのパパの力説が理子ちゃんの乙女なハートにズキュンと届いたのかな!?」
自分の意見を受け入れられてハイテンションになっている父とは対称的に、理子は虚ろな目と表情でボソリと答える。
「……そうじゃないけど、なんかもう慣れた」
「うわーぉ!! さっすが愛しの理子ちゃん!! 若い子はやっぱり適応力がありますねっ!! 頼もしいなぁ~!! この先の未来も君たちのような子がいれば安泰だね!! じゃあさ、早速今夜からコウくんの所に行ってもらうからよろしくねっ!!」
「はあああああっっ!? 今夜からですってえええ――っ!?」
―― 展開を読み切っていたつもりだったが甘かった。大甘だ。
父のこのぶっとび指令に、それまで深々とかぶっていた無表情の仮面も一気に剥がれ落ちていく。
「こっ今夜って冗談でしょパパっっ!?」
「ううんホントホント!! 実はさっきコウくんに連絡して向こうのOKもすでにもらってるよ~!! ハイッ、というわけで!! とりあえずは身の回りの物だけでいいからそれを持って理子ちゃんは今日からコウくんの家で暮らしてねっ!! 転勤が長引くってこと昨日聞かされてさ、ショックのあまり無理やりまた有給取って帰ってきちゃったんだ~! どうだい理子ちゃん、パパのこの行動力!! パパもやる時はやるよ!!」
「パパのバカッ!! 何が “ やる時はやる ” よ!! しかもなんでまた私に話する前にコウに先に言っちゃうの!? どうしてそういつもいつも私をそっちのけにしてパパとコウとでなんでもかんでも先走りしちゃうわけっ!?」
怒り心頭の愛娘の肩に礼人は手を置く。そしてフッと斜に構えた笑みを漏らした。
「……仕方ないんだよ理子ちゃん。男はね、元々先走りしちゃう生き物なんだ。心も、そして下半身も、全部がそういう風にできているんだよ」
「やっやらしい言い方しないでよパパ!!」
「でも本当のことだもんっ。それなのにパパなんて一人ぼっちで転勤してからもうずっーと我慢してきてるんだから褒めてほしいぐらいですよ? 先走りなエキスだって溜まりすぎちゃってるんだから! だってさ、たまにこっち帰った時にしかママとしっぽり出来な…」
「いやああああああああああああ!! 聞きたくない聞きたくなーいっ!! パパのバカァ!!」
父の口を通して両親の生々しい秘め事を聞かされそうになった理子は耳をふさいで書斎から逃げ出した。
「あっ理子ちゃん!! コウくん今家にいるみたいだよー? 荷物を用意したら挨拶を兼ねて夕飯前に会ってくるといいよ! よろしくぅ~!!」
愛娘に告げるべきことを全て言い終えた礼人の呑気な声に後押しをされ、理子は自室に逃げ帰る。
そしてグスン、ともう一度鼻をすすった後、「今度こそもう慣れたわよ!! 行けばいいんでしょ!! 行けば!!」と半ばやけ気味になって小型のボストンバックにコウのブラを始めとした衣類を次々に詰めこみ始めたのだった。