第6話 絵里 Ⅰ 家を出て向かった先 3
「貧乏になったら余裕がなくなるけえね。素が出てきたんよ」
「素……」
「姉さんはねえ、絵里ちゃんを自分のスペアみたいに思うとるんよ。じゃけえ、高校受験失敗したことが許せんのんよ。自分の失敗みたいに思えるけえ」
「そんなん……」
「ちなみに、姉さんが行った高校、どこなんか知っとる?」
急に問い掛けられて私は顔を上げる。
「知っとるけど……」
私が落ちた高校と、同ランクの高校だ。私の返事を聞くと美代子おばさんは、ひとつ、頷いた。
「あそこね、当時はそんなに難しゅうなかったんよ。今でこそランクが上がっとるけど」
「そ、そうなん?」
「絵里ちゃんが落ちた高校、ウチが行った高校でもあるけど、姉さんは受けれんかったんよね。成績がちょっと足りんくて。姉さんはいろいろ言い訳しよったけど。まあ高校なんか、やりたいことがありゃあどこでもええと思うけど、姉さんはそうは思えんかったんじゃろうね」
嘘だ。そんなこと、知らなかった。むしろ、私にはできたのに、という圧力を感じていたというのに。
「絵里ちゃんがあの高校に受かることで、自分の失敗を取り返そうとしとったんじゃないかね。意識的になんか、無意識になんかは知らんけど」
美代子おばさんは、ひとつ、大きく息を吐いて続ける。
「姉さんは、上手くいかんことは全部、絵里ちゃんが姉さんの思うように生きんかったせいじゃ思いよる。自分のスペアが自分の思い通りに動かんかったせいじゃ思いよる」
「そんなん……」
「姉さんが見よるのは、自分自身なんよ。絵里ちゃんじゃない」
「けど……」
「ウチは姉さんとの付き合いは絵里ちゃんより長いけえね。わかるんよ」
確信を持ったその声が、私の胸に突き刺さる。私はもう、返す言葉を持っていなかった。
あまりにも、しっくりきた。上っ面な、「親は子どもを愛するものだ」などという綺麗ごとなんかより、よっぽど。
ふいに、ぼろぼろと涙が零れ落ちてきた。なんの前兆もなく流れ出したそれは、どんどんと出てきてテーブルの上にパタパタと落ちていく。
「キツいこと言うようなけどね」
私の様子を見ていても、美代子おばさんは、口を止めはしなかった。でもそれは、美代子おばさんの慰めだったのではないかと思う。
「絵里ちゃんは、姉さんから逃げんにゃいけん。姉さんは、絵里ちゃんを愛しとらん。じゃけえその代わり」
美代子おばさんは腕を伸ばしてきて、俯いて涙を零し続ける私の頭に手を置いた。
「絵里ちゃんは、自分を愛さんといけん」
やっぱり。美代子おばさんは、「その代わり、ウチが愛してあげる」だなんて気休めは口にしない。
「誰も助けてはくれん。血の繋がりなんか幻想じゃ。世の中で唯一、裏切らんのは自分じゃ。自分以外は、血の繋がりがあろうとなかろうと、全員他人じゃ」
どんどんと容赦なく、現実というものを突き付けてくる。
「じゃけえ、自分は自分のことをめいっぱい愛さんと。ウチはそうしとる」
私は涙に濡れた顔を上げる。美代子おばさんは微笑んでいた。
「ウチはウチのことが大好きじゃ。ほいで、ウチはそういう自分を気に入っとる。絵里ちゃんも、そうしんちゃい」
「……できるかな」
「できるできないじゃないんよ。やれって話なんよ」
本当に、容赦ない。それなのに私の口からは笑いが漏れる。
美代子おばさんはそれでも考えてくれたようで、うーん、と唸ったあとに続けた。
「難しいんじゃったら、まずは宝物でも作ればいいんじゃないん?」
「宝物?」
「ほうよ。家族とかそういう面倒くさいもんよりも大事なもんを手に入れりゃあ、姉さんのこともどうでもようなるわ。ウチはもうすぐ手に入れるけえ、なおさら絵里ちゃんに構っとれんようなるわ。じゃけえ、とっとと自分の足で立ってくれんと」
「……なに?」
「手に入ったら見せたげる」
そう返事して、ニヤリと笑った。
親戚から『勘当』された人。美代子おばさんも、私と同じようなことがあったのかもしれない。もしかしたら見限ったのは、美代子おばさんのほうだったのかもしれない。
自由で。気難しくて。マイペースを絵に描いたような人で。遠慮なんて全然しなくて。使った食器を洗いもしないし、料理もしないし、家ではだらしなく寝ているばかりで。
けれど、こういう人になりたいと思った。
しばらく涙を流し続けたけれど、少し落ち着いてきた頃に、美代子おばさんは通帳を差し出した。
「見てみんちゃい」
そう促され、しゃくり上げながら、川本美代子、と書かれた通帳を開く。そこには見たことがない数字が印字されていた。驚きのあまりに涙も引っ込んだ。
「いち、じゅう、ひゃく、せん……」
思わず指を差して数えた。八桁だ。
「宝物って……これ?」
「違うわ。これは、単なる財産。仕事ばっかりじゃけえ使うことがないけえね。まあ、絵里ちゃんの学費くらいは払えるいうことよ。すごいじゃろ」
「……美代子おばさん……」
私はその通帳を抱きしめた。
「いうても、ウチは雇われの身じゃし、こんな時代じゃし、いつ仕事をクビになってもおかしゅうはないけえね。途中で打ち切りしても恨みんさんなよ」
おどけたように肩をすくめてそう続ける。
「うん……」
自分以外は全員他人、と言い切るこの人が。他人のためにここまでしてくれる。
私は顔を上げて、なんとか笑顔を作ってお礼を口にした。
「ありがとう、美代子おばさん。私、大学行って、卒業して、ええ会社に入って、ほいで楽させてあげるけえね」
「ええわ、そんなん。面倒くさい」
そう返して、美代子おばさんは眉根を寄せた。心の底から面倒くさそうだった。
「あと、そのおばさん、いうの止めてえや。美代ちゃんとか、いろいろあるじゃろ」
「美代ちゃん?」
「そっちんがええわ」
美代子おばさんは気に入ったようで、嬉しそうに笑った。
◇
そうは言われても老後は私が見よう、だなんて考えていたのに。
私が大学四年生、卒業する直前。美代子おばさんは、突然逝った。
くも膜下出血。
病院に呼び出されたときにはもう、彼女は逝ってしまっていた。
まだなにも返していないのに。
私は呆然と立ちすくむだけだった。
◇
一応知らせるべきかと思って、気は進まなかったが、母には電話をした。久々の母の声は、懐かしいと思っただけで、嬉しいとは思わなかった。
「ええ? 美代子が?」
驚いたように声を上げて、そして特に悲しげな声音も出さず、いやむしろ得意げにこう言い放った。
「まあ、あの子は不規則な生活ばっかりしとったけえね。それでじゃわ」
知ったふうな口をきくな、と思った。私はすぐさま電話を切った。葬儀についてもなにも知らせなかった。何度か電話が掛かってきたが、取らなかった。
美代ちゃんのスマホにあったアドレスや、名刺ホルダーから、できるだけの人に連絡をした。親戚は一人も呼ばなかった。きっと彼女もそれを望んではいないだろうから。
それでもたくさんの人が来てくれて、泣いてくれた。美代ちゃんは、それで満足だったに違いない。
後日、マンションを訪ねてきた母は私に怒鳴りつけた。
「何回も電話したじゃろ! なんで葬式のことを私に言わんのん! せんのんか思いよったわ! 親戚も誰も知らんで、なのにいろいろな人に聞かされて、ええ面の皮よ!」
私は黙って扉を閉めた。
「ちょっと! 開けんさい! 話はまだ終わっとらんよ!」
何度もインターホンを鳴らし、扉の前でぎゃあぎゃあとわめいている。
隣の部屋の人が、「うるせえ!」と怒鳴りつけているのが扉の向こうで聞こえ、それで退散したようだった。
それ以来、母には会っていない。
大学に入る前に美代ちゃんと養子縁組しておいてよかったと、心の底から思った。
◇
私は美代ちゃんのただ一人の娘ということで、彼女の遺産のすべてを受け取った。
結局私は、美代ちゃんのなにもかもを奪ってしまったのかもしれない、と思う。あの通帳の数字はずいぶん減っていた。
そして私は美代ちゃんの一番大切にしていた『宝物』も、受け取っている。本当に手にしていいのだろうか、という思いも拭えない。さりとて、捨て去る気にもなれない。誰かに渡したくもない。どうするべきなのか、未だに答えは出ていない。
誰かに相談したい。でも誰に相談すればいいのかわからない。
「相談ごとって、けっこう難しいですよね」
私は大学を卒業して、働きだした。もう美代ちゃんに宣言した、『大学行って、卒業して、ええ会社に入って、ほいで楽させてあげる』選択肢は失われてしまったから、いい会社は狙いもしなかった。
その仕事先のお客様との飲みで、ぽろりとそんなことが口をついて出てきた。少し酔っていたからつい弱音を吐いてしまったのだ。
目の前にいた斎藤さんは、うん? と顔を上げる。私は慌てて、平静を装いながら取り繕う。
「ああ、いえ、悩みって、聞かれとうなかったりもするし、見当違いのことを言われたりもするし、難しいなって。今日、ラジオの相談コーナー聞いたけえ、そんなこと思うて」
「悩みなら、ワシが聞いちゃろうか?」
「いえ、私の悩みの話じゃないんです。ただ、一般的に」
斎藤さんはいい人に違いないが、込み入った話をする対象ではなかった。
すると斎藤さんは首を捻ったあと、口を開いた。
「相談ごとかあ。ワシじゃったら……ほうじゃのう、あやかママに相談したいのう」
そう答えて、斎藤さんは苦笑した。そしてチビチビと日本酒を口につけている。
あやかママ。スタンド『エスケープ』のママ。お客さんがたくさんついていて、流川でとても人気のあるママ。
相談ごとなんて、ホステスに持ち掛けるものなのだろうか。もっと身近な、それでいて正確な答えが返ってきそうな、信頼できる社会的地位のある人に訊くものではないのだろうか。
「なんちゅうか、絶対に否定されんって確信があるんじゃ。あやかママは割とポーッとしとるところがある人じゃけえ、それがええんよの。しっかり生きとる人にゃあ、かえって相談ごとはできんもんじゃ」
なるほど、確かに。正論で否定されるのは、つらい。
私の話だってきっと、「育ててくれた親なのに」とか「愛情があるからこそ叱ったに違いないのに」とか諭されて、「家出するなんて」「グレるなんて」と説教されてしまうだろう。
『ほいでも、高校の学費は出してくれたんじゃろ?』
そう諫められたときには、すぐさま高校を辞めるべきだった、借りなど作るべきではなかった、と思ったものだった。だから、すぐには無理だったけれど、高校の学費は両親に突き返し済みだ。
それでも、今からでもいい、帰って謝ったほうがいい、だなんてしたり顔で何度説教されたか知れない。
冗談じゃない。そんなことするもんか。
お前が悪い、お前が折れれば済む話、なんて言葉は聞きたくない。そう言われると、なんにも知らないくせに、と叫び出しそうな自分が出てきて嫌になる。
だから誰にも愚痴れなくなる。そうして澱のように暗い感情が胸の奥底に沈んでいく。積もり積もって吐き出せなくなる。
そんなときに、ただただ、頷いてくれる人がいるだけで、どれだけ救われるだろうか。否定せずに聞いてくれる、それができる人がどれだけありがたくて、そして貴重か。
「人間、そんなに強うはないけえの。なにもかも正しゅうは生きられんけえのう。そりゃあ正しゅうあろうとするんは崇高じゃ思うで。ほいでもやっぱり弱っとるときにゃあ、『ええんじゃないの、それくらい』って言うて欲しいんじゃ。あ、そりゃあ犯罪なんかは止めんにゃいけんけどの」
「わかりますよ」
私がそう肯定すると、斎藤さんはほっとしたように息を吐きだした。
「甘えじゃって言われたらそうなんじゃけどの。ほいでもやっとれんときもあるけえのう。正しさは、時に刃になるもんじゃわ」
「詩的ですね」
「あやかママは、そういうんを聞き出すんが上手いっちゅうか、いつの間にか弱音を吐いてしもうとるんよ。相談するんなら、あやかママみたいな人がええわ」
そう締めくくって、斎藤さんは笑う。
新天地公園に現れるという妖精。馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないけれど、その妖精に、今の私の悩みごとを相談してみたい、と思う。
果たして、あやかママは、私の前にも現れてくれるだろうか。




