第7話 優美 Ⅱ 『エスケープ』へ
結局私は、会社を辞めることにした。課長は最後まで残るように説得してくれたけど、私は意思を曲げなかった。
会社を辞めて、次の就職先がすぐに見つかるかもわからない。誇れるような特技もない、すごい職歴があるわけでもない、二十六歳の女が入社できる会社が本当にあるのだろうか。
不安で仕方ないけれど、きっとなんとかなる。いや、なんとかするんだ。
決意した私はもう一度、新天地公園に行ってみた。前と同じように、ビールを買って、神社にお参りして、ベンチに座って待った。私の決断を、あやかママに報告したかった。
でも、いつまで経ってもあやかママは現れない。
やっぱりそうだよね、と私は考え直す。あの日たまたま、あやかママはここにいたのだ。妖精のふりをして……いや、見た感じ、まったく妖精ではなかったが、妖精の話を知っていたあやかママは、親切心から私の話を聞いてくれたのに違いない。
だから私は、あやかママのお店に行くことにした。
◇
あやかママがあのとき指差した、枯茶色の雑居ビルの中に入る。そして入ってすぐのところにある、各店名が書かれた案内パネルで、三階の列を確認していった。
そして。『エスケープ』と書かれたパネルを、列の一番端っこに見つけた。
思わず息を呑んだ。本当だ。本当にあった。私はひとつ、息を吐く。
それにしても、女一人で入っても大丈夫なお店なんだろうか。ぼったくりのお店とかだったらどうしよう、だなんて考えてしまう。いや、何十万とか請求されたらさすがに無理でも、多少高いくらいなら払える。それにきっと、あやかママのお店なら大丈夫だ。
私はエレベーターに乗り込み、三階のボタンを押した。
チン、という音とともに扉が開き、足を前に動かす。三階には四店ほどの店が並んでいて、その一番奥に「エスケープ」はあった。
私はそろそろと店に歩み寄り、頭上の看板を確認するとドアノブに手を掛けた。ゆっくりと開けたつもりなのに、思いの外、大きな音でドアベルが鳴り、驚いて見上げてしまう。
「いらっしゃいませー」
店の中、カウンターの内側から、一人の女の子がそう声を掛けてきた。
思わずその子をじっと見つめる。まっすぐな黒髪が肩を過ぎたあたりで切り揃えられていて、真っ赤なスーツを着こなし、バッチリと化粧はしているのに、どこか幼さを感じる子だ。どう見積もっても二十歳そこそこなのではないだろうか。
違う。あやかママじゃない。
「あ、あの」
私は扉から顔だけを覗かせて店内に視線を移す。
カウンターに十席ほど。ボックス席がひとつ。まさしくスタンドだった。まだお客さんは一人もいない。開店したばかりなのかもしれない。女の子はカウンターに並べられたコースターをまとめているところだった。
そして店の中にはその女の子しかいない。あやかママの姿はない。
「えっと」
「一見さん?」
女の子は首を傾げてそう問うてくる。
「いちげん……?」
「あ、ごめんね。このお店は初めて?」
「あ、は、はい」
「待ち合わせ? それともお一人?」
「ひ、一人です」
「ここ、女の子の店じゃけど、大丈夫かね?」
接客をするのが女性のお店、という意味だろう。女の客は入らないような店なのかもしれない。入店する前にそう訊いてくれるのなら、きっと良心的な店なのだ。
「はい、お願いします」
「じゃあ、こちらどうぞー」
手のひらで手前から二番目のカウンター席を差されたので、私はおずおずと店の中に足を踏み入れ、そこに座る。
女の子はおしぼりを保温機からひとつ取り出すと、広げて私の目の前に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
私はおしぼりを受け取って手を拭いてから、それを畳んでカウンターの上に置いた。
女の子はカウンターの向こうでなにやらゴソゴソと用意しながら、申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「ごめんなさい、女の人が一人っていうのは珍しいけえ、いろいろ訊いてしもうて」
「いえ」
「はい、チャームとオード」
女の子は私の前に、コースターと箸と、それからお菓子とおつまみを、手早く置いていく。
「一見さんならボトルはないんよね? 今日はたちまち、お店のボトルを出しときますね」
彼女は後ろの棚に並んだブランデーの瓶の中から一本を手に取ると、カウンターの上に置いた。それからグラスに氷を、ポイポイとアイストングで入れ始める。
その間、私はキョロキョロと店を見回した。
カウンターの後ろの棚には、ギッシリとウイスキーやブランデーのボトルが並んでいる。照明は割と明るくて、店の端にある大きな花瓶の中のカラーの花を照らしていた。天井近くには、野球選手のものらしきサインが何枚か飾られていて、誰のだろうと目を凝らしたが、読めなかった。
「はい、どうぞ」
女の子が私の前のコースターに水割りが入ったグラスを置いて、私は慌ててそちらに視線を移した。
「あ、あの」
私の声に女の子は、小さく首を傾げた。
「ここ……おいくらくらいなんでしょうか」
なんともあっさりと物事が進んでいくので、ふいに不安になってそう尋ねた。あやかママの店なら大丈夫だなんて安心はしたが、もしものときのために覚悟は決めておきたいし、と思ったのだ。
「ああ」
女の子はくすりと笑った。
「一見さんじゃし女の人じゃけ相場がわからんよね。だいたい五千円くらいで帰ってもらうことになっとるよ」
「ほうなんですか」
私がほっと息を吐いて胸に手を当てていると、女の子は苦笑して、それから作業を再開し始めた。
どうやら先ほどコースターをまとめていたのは、カウンターの上に並べて干していたものらしく、綺麗に重ねるとカウンターの内側にしまった。それからお菓子を密閉容器に移し替えたり、水の入ったポットをセットしたりと、忙しなく動いている。
これはどうやら開店したばかり、もしくは開店する前だったのではないだろうか。悪いことをしたな、と罪悪感が湧くが、そこで口を挟むのも作業の邪魔かと、私はなにも言わずにちびちびと水割りを何度も口につけた。
腕時計を見ると、午後七時を少し過ぎたところだった。きっと夜七時からのお店なのだろう。
一通り準備は終わったらしく、女の子は私の前に立つ。いい頃合いだと、私は軽く頭を下げた。
「ごめんなさい、早う来てしもうて」
「ええですよ、実はちょっと遅刻したんです」
そう返してくると、ペロリと舌を出して笑みを浮かべる。その可愛らしい仕草に、笑いが漏れた。
「あの、お一人で、されとるんですか」
カウンターの奥の小部屋のようなところのドアが開けっ放しだったので、ちらりと覗いてみても、あやかママらしき人影はなかった。
「いや、ママがおりますよ。今日は同伴じゃけえ少し遅うなっとるだけ。それでちぃと気ぃ抜いて、遅刻したんですよ」
「なるほど」
「内緒ね?」
「はい」
そうして、二人して笑い合う。
そのとき、カラン、とドアベルが鳴った。
「あ、ママ、おはようございます。一見さん、通しましたよ」
女の子が入り口に向かってそう声を掛けた。
ママ。あやかママ。
私は慌ててドアのほうを振り向く。
「あら、ほうね」
一人の男の人と一緒に入ってきたその女性は、肩に掛けたバッグを下ろしながら、私のほうに視線を移してにっこりと微笑んだ。
「いらっしゃいませー」
私はそれに小さく会釈して返す。
でも。違う。あやかママじゃない。
ゆるやかに波打つ茶髪を両サイドから一房ずつだけ垂らして、後ろ髪はまとめてアップにしてバレッタで留めている。そして落ち着いた青紫色のヒラヒラした素材のスーツを着ていた。化粧は全体的にブラウン系で、派手さはそこまでないものの、華やかさは残している。
顔立ち自体はなんとなく似ていると言えなくもないような気もするが、なにせ両者ともにナチュラルメイクと呼べるものではないので、なんとも言えない。
けれど見間違いなどではない。あやかママではなかった。
私の接客をしていた女の子は私の前から、入ってきた男の人のほうに移動していく。
「いらっしゃいませー。今日はどこ行ったん?」
「寿司。回らんところじゃ」
「ええなー。今度、ウチも連れて行ってや」
「ええよ」
「やったあ」
女の子は、そうごく自然に、ママと一緒に入ってきた男の人の前に立ち、私と同じようにおしぼりを差し出すと、チャームとオードをカウンターに並べていた。
小部屋にいったん入ったママはすぐに出てきて、私の前に立つ。
「いらっしゃいませ。ごめんなさいね、遅れてしもうて」
「あ、いえ」
そして私の前にあるグラスを取り、横に置かれたボトルからウイスキーを少し注ぐと、近くにあったウォーターポットの上を押して水を追加し、マドラーでかき混ぜる。そしてグラスの回りを近くにあったおしぼりで拭くと、私の前のコースターの上に置いた。
「あ、ども」
私は上目遣いでママのことを観察しながら、増えた水割りのグラスを手に取ると、少しだけ、口に含んだ。
「私、ママのかえでです。よろしく」
名刺をこちらに差し出しながら、かえでママは自己紹介をする。私は慌ててグラスをコースターの上に戻すと両手を差し出した。
ピンク色の名刺を受け取ると、そこには『江利川かえで』と書いてあった。あやか、とは一文字たりとも被っていない。
「よ、よろしくお願いします」
「お名刺、あったらいただきたいな」
少し甘えたような声音で、かえでママはお願いしてきた。でも。
「あ、ないんです。すみません……」
「ああ、ええんですよ。あったら、ですから」
ひらひらと手を振りながら、かえでママは苦笑した。
「ほいじゃあ、お名前、教えて欲しいな」
「元木優美です」
「ゆみさん。うん、覚えた!」
明るい声でそんなことを言いながら口を笑みの形にする。
「この店は、どこで?」
続けて、かえでママは首を傾げてそう訊いてきた。
「えと……紹介……というか、いいお店だって聞いて……」
誰から聞いたって言わないといけないのかな、それならたまたま目に付いてって言えば良かったかな、と頭の中でいろいろ考えて回答を捻り出そうとがんばったが、かえでママはそれ以上訊いてこなかった。
「あらあ、それは嬉しい」
にっこりと笑ってそう返してきただけだ。
「最近、一見さんが多いいですよねえ」
向こうのほうにいた女の子が、少し声を張り上げてこちらに向かって声を出した。すると彼女の前に座る男の人がそれに答える。
「ワシ、ネットの情報サイトいうんか? それに載っとるって聞いたで」
「ええー、ほんま? 口コミとかそういうん?」
「ほうなんじゃないかのう」
女の子は殊更に眉をひそめて言う。
「変なこと書かれたらヤじゃなあ」
「ええこと書いとった、いうて聞いたで。ええお店じゃーいうて」
「ほいならええけど。あ、樹里ちゃんが可愛い、って書いとるに決まっとるかー」
腰に手を当てて胸を反らして女の子はそう茶化した。ははは、と男の人が笑って応える。
彼女はどうやら、樹里、という名前らしい。いやホステスさんだから、本名じゃなくて源氏名かもしれない。
「美しい夜の蝶、樹里ちゃんに、おビールをごちそうして欲しいなー」
「ええで」
「やったあ」
樹里ちゃんはカウンターの下にあるのであろう冷蔵庫から、瓶ビールをさっそく取り出している。
夜の蝶。そういえばホステスさんのことを、そんなふうに呼ぶのだっけ。
「どうして夜の蝶って言うんでしょうね。確かに蝶っぽいけど」
服も、なんだかひらひらした素材を着ている人が多い気もするし。派手な色合いの人が多いし。夜の蝶、というのはけっこう的確な喩えではある気がする。
「昔の映画のタイトルみたいですよ。ホステスを描いた」
私の前にいたかえでママが穏やかに微笑みながら答えた。
「へえ。……あ、かえでママも、なにか」
なんだか彼女が手持ち無沙汰なように思えて、手のひらでかえでママの前のカウンター上を指す。かえでママは頬に手を当て、小首を傾げた。
「あら、ええですか? 女の人に奢ってもらうんは申し訳ないような」
「ええです、どうぞ」
「じゃあ、おビールいただきます」
そう応えて、かえでママも冷蔵庫があるのであろうところに歩いていく。ビールに「お」を付けるのは、なんだか変な感じがするが、彼女たちの中では常識なのだろう。
小さめの瓶ビールの栓を開けて、空のグラスを持ってかえでママは私の前に来ると、とん、と瓶ビールを私の前に置いた。
「注いでいただいても?」
「あ、はい」
斜めに傾けてこちらに差し出されたグラスに、ぎこちなく両手で持った瓶からビールを注ぐ。あと少し、というところでかえでママはグラスをそっと上に動かし、瓶ビールの口を立てさせた。もういいですよ、の合図なのだろう。
「ではいただきます」
私のグラスに自分のグラスを近付けてくるので、慌ててビール瓶を置いて自分のグラスを持って、ちん、と乾杯する。
こういったスタンドに来るのは初めてではないが、アタフタしてしまう。男の人たちはこういうのを流れるようにやっていたなあ、なんてことを考えた。私は不慣れなのが丸出しだ。
かえでママは左手でグラスの底を支えるように持ち、上品な仕草でビールを一口飲んだ。
「ああ、美味しい」
そう感想を述べながら、口元に弧を描く。
缶ビールに直接口を付けてグビグビと飲み、「沁みるわー」としみじみしていたあのホステスさんとはすごい違いだな、と思いながら、私はそれを眺めていた。
結局、かえでママがこの店のママだというのなら、あやかママは違うお店のママなのだろう。もしかしたら店名を聞き間違えたとか、階数を間違えて覚えたとか、そんなことかもしれない。一回しか聞いていないから、確信が持てない。
新天地公園でウロウロしているのなら、またそのうち会えるかもしれないし、必死になって探すこともないかな、と心の中で勝手に納得する。
はっきりさせたいような気もするが、「あやかママって知ってますか?」と、目の前のかえでママに訊くのはためらわれた。訊くといっても、かえでママにどう説明していいかもわからなかったし、違うママの話は失礼に当たるかもしれないし、下手すると変な人だと思われてしまうかもしれない。
それに。もしかしたらあやかママという人は、本当に妖精かなにかだったのかもしれない、という気持ちもちょっと残っているのだ。あやかママは四階のお店の人ですよ、とか教えられたら、興ざめの気がする。それなら、このまま謎の人として疑惑を残しておきたい気分なのだ。
そんなことを考えているうち、ドアベルの音が響いて次にお客さんが入ってきたので、私はいい頃合いだと立ち上がった。
お会計は、三千六百円という、安心のお値段だった。
「よかったらまたいらしてくださいね」
お店の外までお見送りにきてくれたかえでママがそう声を掛けてきた。なので私はこう返す。
「次はボトルを入れますね」
「あら、嬉しい」
そうにっこりと両の口の端を上げるかえでママは、ケラケラと笑うあやかママとは、やっぱり別人だなと思った。




