第5話 絵里 Ⅰ 家を出て向かった先 2
美代子おばさんは、なんというか、自由な人だった。だからだろうか、私のこともすんなり受け入れてくれた。かといって、私のためになにか母親めいたことをすることもなかった。
料理をすることもない。一緒に食事をしたのも数えるほどだ。洗濯物は各自で近くのコインランドリーを使うように指示された。洗濯機は洗面所に置いてあったが、使っていない様子だった。掃除だって少し気を抜くと部屋中散らかってしまっている有様で。
学校のことも訊いてこない。友だちと遊んで少し遅くなっても、なにも口出ししない。ピアスをしていようが派手な服を着ていようが、なにひとつ文句は口にしなかった。
美代子おばさんの部屋に転がり込んだ翌々日のことだ。美代子おばさんは、ポイと机の上になにか小さなノートのようなものと、カードを一枚投げる。通帳とキャッシュカードだった。
「最初じゃけえ多めに入れとる。それでいろいろ買いんさいね。無駄遣いしんさんなよ」
通帳を開いてみると、二十万円、の記載があった。
「え、こんなに」
「最初はいろいろ物入りじゃろ? ほいじゃけ来月からは五万にするけえね。バイトもしよるんじゃけ、大丈夫じゃろ。あ、言うとくけど、食費とか電車代とかも入っとるんよ」
「あ、ありがと。もしかして、お母さんからも……?」
私がおずおずとそう問うと、美代子おばさんはハッと鼻で笑った。
「まさか。姉さんがそんなんするわけないわ」
私にお金が掛かり過ぎる、と追い出されたようなものなのだ。もう私に余計なお金を使う気はないのかもしれない。親戚なだけの美代子おばさんがサラッとこんな大金を渡してくれるなんてにわかには信じられなくて、母が援助したのかと思ったが、どうやら見当違いのようだ。
「でもまあ、高校の授業料は払ういうて言いよったけえ、そこは安心しんさい」
「そうなんだ」
先日、お母さんと電話で話をしたときに、そのあたりの打ち合わせは済ませたのだろう。
私はほっと胸を撫で下ろす。学費も払わない、となったら私は高校に行けなくなる。遊び回ってはいたけれど、友だちもいるし、学校に通うこと自体は好きなのだ。よかった。高校だけは卒業できそうだ。
「グダグダ言いよるけえ、面倒じゃったわ。はあたいぎゅうてやれん」
美代子おばさんは頭を掻きながら、そんなことを愚痴る。ということは、学費を出すと決まったのは、美代子おばさんのおかげなのだろうか。渋る母を、美代子おばさんが説得したのだろうか。
「あ、あの、ありが……」
「とにかくウチは面倒なことは嫌いじゃけえ。それは覚えといて」
礼を述べる暇もなく、美代子おばさんは私をビシッと指差しながら、ぴしゃりと告げた。
「ここに住むけえいうて、ウチのご飯作ったりとかせんでもええけえね。ウチのことは放っといて」
「え、でも」
「ええ、ええ。面倒くさい。ウチは仕事に全振りしとるけえ、家じゃ抜け殻なんよ」
ひらひらと手を振りながら、そんなことを話す。でも、ここでこれから暮らすというのに、お世話になりっぱなし、というのはいかがなものだろうか。やっぱり家事くらいはするべきなのではないだろうか。
もしかしたら、私に気を使ってそう言ってくれたのだろうか、と最初は考えたのだけれど、すぐにそれは違うとわかった。
バイトはそのまま続けたが、やっぱりいつどこでお金が掛かるかもわからないし、慣れないながらも自炊しよう、とお米を買ってきたり、調味料を買ったりした。そういったものが、美代子おばさんの家にはなかったからだ。
そうしてなんとか作ったご飯を指して、「食べる?」と声を掛けると、ちらりと見たあと、「ウチのことは放っといて言うたじゃろ?」と不機嫌そうに返された。そして、ぷい、と自分の部屋に入ってしまった。
その割にときどき、残ったおかずがいつの間にか少なくなっていたり、味噌汁を飲んだあとのお椀がシンクに投げ出されていたりはしていたので、まったく食べたくない、というわけでもないらしかった。ちなみに、そうして使った食器は、一度も洗われていたことはなかった。
洗濯も、せっかく洗濯機があるのだからと洗剤を買ってきて日曜日に回したら、「うるさいわ。あと、洗濯機使うんじゃったらウチにも訊きんさいや。ついでに洗ってくれてもええじゃろ」と文句を言われたので、次に訊いたら、「ウチのことは放っといて」とまた突き放された。
いったいどうしろと、と口ごもっていると、「言いたいことがあるんなら、はっきり言いんさいや。ウジウジするんは嫌いよ」と怒られた。
そうして暮らしているうちに、なんとなく接し方がわかってきて、三ヶ月もすると扱えるようになってきた。
とにかく面倒なことが嫌い、というのはまさにその通りらしかった。
初日に見かけた、ノーメイクに黒縁メガネに上下のスウェット、ぐしゃぐしゃの髪を無造作に後ろでひとつに束ねている、というのはいつものスタイルで、部屋の中でそれ以外の格好を見たことがないくらいだった。
時間を決めて食事をするのは嫌。食べたいときにたまたまあるのは嬉しい。掃除は嫌い。でも勝手に綺麗になっていると嬉しい。言われて嫌なことはすぐに言い返せ。裏でこそこそと不満を溜め込んでいるのはムカつく。
そんなことが徐々にわかってきて、私は文句もすぐに言ったし、言い返されたし、勝手にしたし、勝手にされた。
同じ部屋に住んでいるのに生活サイクルはまったく違っていて、まるで二世帯住宅みたいだな、と思うことも多かったが、ときどきは重なり合って、話をする。
「おばさん、なんでトイレットペーパーなくなったら入れ替えてくれんのん」
「無いなったら替えよるじゃろ」
「五センチ残すん、やめんさいや」
「あーうるさいうるさい。それくらいやっときんさいや」
「それくらい言うんなら、できるじゃろ?」
「あーもう、たいぎいわ」
そんなくだらないことを口論したりもした。ブツクサと文句を口にしつつも、次からはちゃんと替えるようになったので、一応、私の話は聞いてくれているようだった。
美代子おばさんは、嫌な気持ちを次の日に引きずらない。それがわかってからは、私は伸び伸びと生活できていたと思う。
自由で。気難しくて。マイペースを絵に描いたような人で。『勘当』されたのも、どうしてなのかなんとなくわかるような気がする。
けれど私は、美代子おばさんの部屋が心地良かった。
◇
高校三年になってからすぐ、私は美代子おばさんに、ちょいちょいと指先でリビングに呼ばれた。席に着くと、美代子おばさんはテーブルに肘を乗せて、ぐいっとこちらに身を乗り出した。
「絵里ちゃん、大学、行きたいんじゃろ?」
私はその問い掛けにぐっと詰まる。
「いや、行きたいいうほどじゃあ……」
「でも勉強しよるじゃん」
「そりゃあ、宿題とかあるけえ。それに就職するんでも勉強はいるし」
「まあ、ほうなんじゃろうけどね。でもなんか違う気するんよね」
私は俯いた。別に、大学に絶対に行きたい、というほどでもない。特に将来に夢があるわけでもない。
「髪も染めとったのに、プリンになってしもうとるじゃん。真面目になってしもうて」
「これは、別に……。そ、それに、やっぱり就職するんでも染めとったらいけんじゃろ」
「それもまあ、ほうなんじゃろうけど」
私は自分の髪に手をやった。最近は、おしゃれだとかそういうことに手を回していない。遊びに出かけることも、めっきり減った。家事をするという理由もあるが、やっぱり勉強する時間が増えたからだ。
でもそれは、大学に行きたいから、と明確な目標を持ってしているのではないのだ。
ただ、これから、いつまでもこの家にいられるわけではないのだろう、とは思う。そして家に帰れるわけでもないのだろう、と。だから自立しないといけない。そのためには就職だ。そのはずなのだ。
その迷いを見透かすように、美代子おばさんは私に問うてくる。
「就職って、どこに就職するつもりなん」
「き、決めてない」
「決めてない割に、えらい方向が決まっとる感じするんよね。バイトも辞めて、ずっとなんか部屋でカリカリ書きよるじゃん」
就職するつもりなのは、嘘ではない。けれどなんとなく、もしかしたら大学に行くという話になるかもしれないし、と諦めきれないだけだ。本来ならばそれが、自分が進む人生のはずだった。
でもあれから両親とは連絡を取っていない。あちらも連絡してこない。ときどき母と美代子おばさんが連絡している様子が窺えるが、それも内容は知らされていないし、知りたいとも思わなかった。
いや、知るのが怖かったのだ。
「バイト辞めたんは……美代子おばさんがお小遣いくれよったけえ、もうええか思うて」
「でも、通学代とかもその中に入っとるんよ。それに食費とかに使うてくれよったじゃろ? そんなには余らんかったんじゃないん?」
「食費は、自分が食べるぶんだけじゃし」
「ウチもけっこう食べさせてもろうたよ。冷蔵庫の中のもん、減っとったじゃろ」
「ほうじゃけど……」
私は目を伏せる。
受験勉強のために、時間を捻出したかった。友人たちも受験生であることもあり、遊びに行くこともなくなり、そんなにお金がいらなくなった。だからアルバイトを辞めた。バイト先の店長も、『もう三年生じゃもんね。そりゃあバイトしとる場合じゃないわ』とあっさりとしたものだった。大学に行く気がないのなら、受験勉強なんて必要ないはずなのに。
「大学に行きたいんなら、ウチに言わにゃあ。ほいで学費を出してくれぇってお願いするのが筋なんじゃないん?」
多少、呆れたように。ふてくされたように。苛ついているかのように。美代子おばさんは言った。
「黙っとったらわからんわ」
けれど私はますます俯いてしまう。学費を? 美代子おばさんに? いくらなんでもそれは。
「ほいでも、美代子おばさんに学費までは頼めんし……」
「ほいなら奨学金でも受けるん? 言うとくけど、全額出るヤツじゃないとキツいんよ。絵里ちゃん、そんなに成績いいん? そうでもないじゃろ? 普通のは社会人になって、いきなり借金からスタートせんにゃあいけんけえね。それで大学なんか無理して行かんでもよかったって言う人、いっぱい見たわ」
少しの遠慮もなく、ズバズバ言葉にする。チラリと上目遣いで見てみると、頬杖をついて、不機嫌そうな表情をしていた。
「それに調べてないけえようわからんけど、絵里ちゃんじゃったら、親は普通に稼いどるけえ、奨学金の対象者じゃないんじゃないん? そりゃあ裕福じゃないんじゃろうけど、そもそも奨学金は受けられるん?」
「知らない……」
調べていない。というか、そもそも大学に行くかどうかすら、まだ決めかねているのだ。いや、諦めないといけないのに、諦めきれていないだけなのだ。
美代子おばさんはわずかに眉をひそめて、口を開いた。
「もしかして、親が学費を出してくれるかもしれんって思うとる?」
ぴくり、と私の肩が震えた。それを見たのか美代子おばさんは、はあ、とこれ見よがしに大きくため息をつく。
そしてまた、少し身を乗り出して、密やかな声で続けた。
「絵里ちゃん、あんたねえ、そろそろ姉さんに期待するのは止めんさい」
「え……」
「これだけここにおるのに迎えにも来んって、おかしいと思わんのん?」
「それは……」
「あの人は、自分のことしか考えよらんよ。娘じゃけえ無条件に可愛い、とか思わん人じゃ。義兄さんも同じじゃ。似たもの夫婦じゃね」
私はその指摘に呆然としてしまって、なにも返すことができなくなった。
そうなのかな、と思わないこともなかった。でも私の周りの友だちや大人は、「子どもを愛さない親なんていない」と皆言っていたし、信じていた。私もそうであって欲しいと願っていた。
そして、こんなふうに面と向かって私に忠告する人はいなかった。
「高校の受験失敗は、きっかけにしかすぎんと思う」
少し低い声でそう告げられて、私は膝の上に置いた手を、ぎゅっと握った。




