第4話 絵里 Ⅰ 家を出て向かった先 1
私は、妖精に相談したい。
◇
私には叔母に、返しても返しきれない恩がある。
始まりは高校受験だった。第一志望の高校に落ちたとき、両親は特に私を責めたりはしなかった。
「残念じゃったね」
「まあけど、後々大事なのは大学じゃし。高校でがんばればええんよ」
そんなふうに慰められて、私はほっと息をついたものだった。
受験に失敗した第一志望は、公立高校だった。都会あたりでは私立高校のほうがランクが上だとかいうけれど、ここらへんでは公立高校のほうが進学校として名を馳せている。その上、家からも近かった。住宅街にある二階建ての小さな一戸建てから、バス停までは徒歩五分。そのバス停から出るバスに乗れば、二十分もかからず到着する。
授業料も安く、交通費もあまり掛からず、さらには進学校としてレベルが高い。なにひとつデメリットのない進学先だったのに、私はそこに受からなかった。
本心では両親は、落ちたときに責めたかったのではないだろうか。しかし人として親として、それはしてはならないと考えたのだろう。そしてそれは彼らの優しさというよりは、世間一般ではそうだから、自分たちもそうしなければならない、と考えていたように思う。
だけど滑り止めの私立高校に通うようになって、彼らは次第にブツブツと零すようになった。予想外に掛かるお金に疲弊していった両親は、それでも私を責めてはならないと自身を諫めていたのだろう。面と向かって受験失敗を責められることはなかった。
でも彼らはそんなに我慢強くはなかったようだ。通学のための電車代や、参考書代を貰うときですら、「高いねえ」とため息とともに言われる。私はそれを聞くたびに、「あんたが合格さえしていれば」と責められているような気分になった。
そして夫婦の会話はお金のことばかり。夜、二人がリビングで話をしているのをうっかり聞いてしまうこともあった。
「絵里の学費、キツいんよ。お父さんの小遣い、ちぃと減らしてもええ?」
「はあ? なんでじゃ。お前が無駄遣いしよるんじゃないんか。こないだも出掛けて」
「ウチにも付き合いいうのはあるし。お父さんが行かんでもええ飲み会減らしてや」
「ないわ、そんなもん」
そう会話したあと、二人してため息をついた。リビングに入ることもできずに廊下に立ち尽くしたままの私の肩が、そのため息に反応してピクリと震える。
「絵里がねえ……なんで落ちたんかね」
「お前に似たんじゃろ」
「なんでよ! ウチの親戚は皆、出来がええわ。あんたに似たんじゃわ」
「はあ? ああ、ほうじゃ。お前の妹、そうでもないんじゃないんか。問題児じゃろ」
「美代子はそれでも高校のときは成績が良かったけえね。やっぱりあんたんとこじゃわ」
「お前はうちの親戚が気に入らんだけじゃろ。はあ気分悪いわ。寝る」
父が舌打ちするとともにソファから立ち上がる気配がして、私は慌てて踵を返し、足音を立てないように気を付けながら二階の自室に戻った。そしてベッドの中に潜り込むと、息を殺して涙を零す。
努力はしたつもりだった。がんばったつもりだった。でも、つもり、ではどうにもならない。やはり私の努力は足りなかったのだ。結果が伴わなければ、なにひとつ意味がない。
確かに母方の親戚は皆、私が落ちた公立高校、または同レベルの高校に行っている。
私だけだ。私だけが、出来が悪かった。私は『出来損ない』なのだ。
その頃から私は、なんとなく父と母から距離を置くようになり、彼らも必要以上に私に構うことはなくなっていった。ギクシャクとした空気がいつも家の中に漂っていて、息が詰まりそうな日々が続いていた。
その代わり、学校は楽しかった。友人もできた。でも遊びに行くお金もないし、そのための服を買うお金もない。
「バイトすりゃあええじゃん」
と友だちが勧めてきたので、その紹介でアルバイトをすることにした。有名な百円均一のお店の店員だ。
しかし『保護者の許可』なるものがいる、ということで、両親に話をすることにした。
両親はもしかしたら褒めてくれるかもしれない。「助かるわー」と笑顔を返してくれるかもしれない。お金さえ入れば、家の空気だってきっと良くなる。『出来損ない』の私だって役に立てるんだ、とも思った。
もちろん欲しいものも買いたいけれど、それよりなにより、交通費や文房具や参考書だって自分で買えれば、家計は助かるに決まっている。
リビングに両親を呼び出した私は、そう思っていたのだ。
ところが彼らは言った。
「バイトなんて恥ずかしいわ」
しかめ面で、母は続ける。
「お金が無うて娘にバイトさせとる、だなんて噂されたらどうするんよ。親戚にだって合わす顔がないわ」
どうしてそこで親戚、だなんて言葉が出てくるのか。あまりにも予想と違う反応に唖然としながらも、私はなんとか食い下がろうとした。
「でも」
「欲しいもんでもあるんか? それなら、お小遣いの中で遣り繰りすりゃあええ」
しかし私の言葉を引ったくり、父はそう説教を始める。
そうは言うが、月に決まったお小遣い、というものはない。なにが欲しいのか、なにを買わなければならないか、母に申告しなければお金は手に入らない。まだ中学の頃のほうが、融通が利いたくらいだ。
「お小遣い、貰うてないもん」
「あげよるじゃろ! あんたが欲しいって言うたときには!」
ふてくされたように言う反論に、母が目を吊り上げて叫ぶように返す。
「ほんまか。月の小遣いをやってないんか」
父はそんな状況も知らなかったのか、母を責めるような口調になって問い詰めた。それにカチンときたのか、母が言い返す。
「うちのどこにそんな余裕がある思いよるんよ! あんたの少ない給料で遣り繰りする気にもなってみんさいや!」
「はあ? なに言いよるんなら。お前が遣り繰り下手なんじゃろうが! 昨日も総菜で」
「ウチだって仕事しよるんじゃけ忙しいんよ」
「お前はパートじゃろうが」
「ウチは家事もしよるんよ、ダラダラしとるあんたの世話で、時間が無うなるわ!」
耳を塞ぎたくなるような不平不満が次から次へと繰り出される。私がアルバイトをする、という話からどうしてこんな喧嘩に発展してしまったのか。
「夫婦喧嘩はあとにしてや!」
私も、大声で口を挟む。せっかく良い話を持ってきたと思ったのに、とイライラを募らせてもいたのだ。
「私がバイトすりゃあええ話じゃろ」
しかし母は、頑なに首を横に振る。
「いけん言うたじゃろ。バイトなんか」
「いうても、なんにも自由に買えんもん。服もろくに買えんし。文房具とか買うのだって、渋々お金を出されよるし」
「あんたが高校、落ちたけえじゃろ!」
堪えきれなくなった母は、怒鳴り声を上げた。
「あんたが公立に通っとったら、こんなことにはなっとらんわ!」
リビングは、しん、と静まり返る。
私は黙ったまま立ち上がり、両親も声を掛けてこなかった。
◇
そこから私は、もう親の言うことを聞かなくなった。一言で言えば、グレた。
親のハンコを持ち出して、『保護者の許可』を作り出し、バイトに精を出した。まともに家に帰らず、友だちの家を渡り歩いた。自分の稼いだお金で化粧品を買い、服を買い、髪を染め、ピアスを開けた。
日々変わっていく私に両親は何度も叱りつけてきたが、私はまったく聞く耳を持っていなかった。
「出て行け! もう帰ってこんでええ!」
ある日、父が私の頬を平手で打ったあと、そう言い放った。母はその背後で眉根を寄せて、転がる私を見つめるだけだった。
父の言葉は、はずみだったのか、常々考えていたのか。そして本気だったのか、脅しだったのか。どういったものだったのかはわからない。
けれど私はその言葉をそのまま受け取り、最低限の荷物を持って家を飛び出した。
大人になった私は、高校無償化のニュースを見るたび、なんだか悲しい気持ちになったものだった。もしも私の時代にそうした制度があったなら、私の人生はどんなものになっていたのだろう。
◇
そんなふうに家を飛び出しはしたが、実はその私立高校はちゃんと卒業した。両親は学費を払い続けてくれたのだ。説得されて。
家を飛び出した私がどこから高校に通ったかというと、母方の叔母の家だった。
叔母という人は、ときどき母と連絡を取るくらいで、親戚の集まりにも顔を出さず、誰も話題に出さない。いわゆる『勘当』された人だった。年賀状が毎年届いていて、『川本美代子』という名前だけは知っていた。『川本』は母の旧姓だ。家を出るときに、こっそりとその一枚を抜き取ったのだ。
独身貴族で、一人暮らし。いつか母が零していたのを覚えていた。『勘当』された人。私と同じ。もしかしたら、部屋の隅にでも置いてもらえるかもしれない、と考えた。
年賀状に書かれた住所を探して、叔母の家にたどり着く。広島の都心部に近いところにある、大きくはないが小綺麗な、薄いピンク色の十階建てのマンションだった。
追い返されるかもしれない、と不安に思う。でも他に行くところを知らない。さすがに友だちに頼るわけにもいかないし、普通の高校生が両親の協力もなしに一人暮らしなんてできるわけもない。藁にも縋る思いで、インターホンを鳴らした。
インターホンのスピーカーから「はーい」という声が聞こえた。よかった、いた。私は縋りつくようにインターホンに顔を寄せ、早口で告げる。
「おばさん。美代子おばさん。私、姪の絵里です」
「絵里ちゃん?」
まだ小さかった頃に、母方の祖母の家で会ったことがある。ほとんど記憶に残っていないが、顔を合わせたのは確かだ。たぶんその頃はまだ『勘当』されていなかったのだろう。優しい人で、私の『なんでなんで攻撃』に、笑顔で答えてくれたことだけをやけに覚えていた。
祈るような気持ちで玄関ドアを見つめていると、それがゆっくりと開いた。
出てきた叔母は、大きな黒縁メガネの向こうで、驚いたように目を何度も瞬かせている。寝ていたのかノーメイクで、グレーの上下スウェットで、ぐしゃぐしゃの髪を後ろで無造作にひとつにまとめていた。
「どしたんね、急に。まあ大きゅうなって」
「美代子おばさん。ここに置いてください」
私が勢い込んでそう懇願すると、彼女は「ええ?」と素っ頓狂な声を上げた。
今考えれば、ずいぶん甘えた選択だったな、とは思う。幼い頃に会ったことがあるだけの、『勘当』されてからは一度も会っていない人。そんな人に、『親戚』というだけで頼ろうとしたのだ。冗談じゃない、と追い返されても仕方なかった。
「ようわからんけど、まあ入りんちゃい」
しかし美代子おばさんは、私を部屋に入れ、ミルクたっぷりのコーヒーを淹れてくれ、私の話をただ淡々と聞いていた。
それからテーブルの向こうで、うーん、と腕を組んで考え込んでから、顔を上げた。
「えーとね、とりあえず、姉さんに確認するけえね。誘拐とか言われても困るけえ」
携帯電話を手に取り、アドレスから母の電話番号を見つけたらしい美代子おばさんは、電話を耳に当てた。
「もしもーし、姉さん? あのねえ、絵里ちゃん来とるんじゃけど。そう。うん。……はあ?」
美代子おばさんは立ち上がり、部屋の外に出て行った。なかなか帰ってこなくて、私はそわそわとあたりを見回したりコーヒーをちびちび飲んだりしていた。外で美代子おばさんがなにか話しているのが聞こえてくるが、なにを喋っているのかまでは聞き取れない。
しばらくして、どうやら話はついたらしく美代子おばさんの声が聞こえなくなり、そして玄関がガチャリと開く。部屋の中に帰ってくると、美代子おばさんは小さく肩をすくめて口を開いた。
「ここから学校に通いんさいね」
「えっ」
「えっ、てなによ。そうしたいんじゃろ?」
「あ、は、はい」
私はこくこくと頷いてそう返事する。
「そっちの部屋、荷物いろいろ置いとるけえ、適当に整理して使いんちゃい。狭いけど」
今いるダイニングキッチンの隣の部屋を指差して、事もなげに説明する。
「あ、ありがとうございます。よろしくお願いします」
慌てて立ち上がってペコリと頭を下げると、美代子おばさんは、ふう、とため息をついた。
「ウチ、今日休みなんよね。寝るわ」
そう言って、あくびをひとつ、した。
「詳しいこたぁ、明日にして」
きっぱりと話を切り上げると、黒縁メガネを外してテーブルの上に投げるように置き、奥の部屋に引っ込んでいく。
私は呆然とその背中を見送ったあと、荷物を持って、与えられた部屋の扉を開けた。
物置として使っていたのだろう。カーテンが閉め切られた、四畳半の部屋だった。手探りで壁を触るとスイッチらしきものがあって、押してみると電気が点いた。
そこに、引っ越してきたときのまま開封していないのか、いくつかのダンボールが積み重ねられている。押入れを開けてみると、布団があった。来客用のものを突っ込んでいるのかもしれない。
荷物を置いて、もう一度、通されたダイニングキッチンに戻る。椅子を引いて座ると、しばらくそこにぼうっと座り込んで部屋を見回した。
美代子おばさんが今寝ている部屋と、物置になっていた四畳半の部屋と、ダイニングキッチン。2LDKの部屋。ここが、美代子おばさんの城。
今からここに住むなんて、嘘みたい。しかもこんなにあっさりと。
私はテーブルの上に残っていた飲みかけのコーヒーを口につける。もう冷めてしまっていたが、なんだかほっとした。




