第3話 優美 Ⅰ 妖精を呼び出した 3
私は何度か、彼の部屋を訪れていた。
一人暮らしの男の部屋。物はそんなにないのに乱雑で。小さなキッチンにはろくな調味料もなくて。ゴミ袋には、カップ麺の空の容器と割り箸がいっぱいで。洗濯物は近くのコインランドリーでまとめて洗うんだと、洗濯籠の中に山と放り込まれていて。
女の影なんて、ひとつもなかった。
最初は確かに、疑ってなんていなかった。疑いだしたのはいつ頃からなのか、自分でもわからない。その疑惑を、婚活パーティに一緒に行った友人にも、そして彼自身にも言わなかった。誰にも言わなかった。
言ったら終わりだと思ったから。彼との恋が終わってしまうと思ったから。
私は気付いていたのだ。なにかを見たわけでもない。なにかを聞いたわけでもない。ただ、会話の端々で、ときどき訪れる妙な間を、私は感じ取っていた。
出会いが婚活パーティなんだから、結婚についてもっと突っ込んで話をしたいのに、私が結婚について話すことはあっても、彼からはない。
けれど、『どう思う?』と踏み込んで訊けば、答えてはくれていた。
結婚式を挙げるとすれば、広島ではなく彼の地元で。でもこちらに友だちがいるから、広島では友人たちだけ集めたパーティでいいんじゃないか、だなんて話までした。
今思えば、それを実現する方向に強引に進めていたら、どうするつもりだったんだろうと、疑問に思う。
『焦らずに納得がいく形にしていこう。俺たちは出会ったばかりなんだから』
とはいえ実際は、そんなことを何度も言い聞かせられて、そこまで強引に結婚について話をしたことはなかった。確かに婚活パーティでの出会いだったが、結婚相談所ほど結婚に直結した出会いの場ではなかったので、そういうのが普通かな、と納得もした。
焦らずにゆっくりと育んでいく。それは特におかしなことではなかったと思う。なのに次第に、私の中の疑惑は膨らんでいく。それは、女の勘、というものだったかもしれない。
この人は、私の知らないどこかに、家庭というものを持つ人だ、と。私はそれに気付いていた。
「私は一方的に被害者じゃない。なのに被害者面して、馬鹿みたい」
なぜだかじわりと涙が浮かんできた。
ずっと私は、芽生えた疑惑を、一生懸命否定しようとしていた。
だって、結婚指輪をしていない。私の前で掛かってくる電話は仕事の電話ばかりだ。いつ家に行ったって慌てた様子もない。部屋の合鍵だって渡してくれた。
結婚している人が、そんなはずはない。私は何度も何度も、そう心の中で唱え続けた。
彼に訊けば答えたのかもしれない。だから、訊けなかった。
私は彼が既婚者だと完全に知ったあの日からも、胸に抱いていた疑惑については口を閉ざした。友人にも、会社の人にも、そして彼自身にも、言わなかった。
結婚している、と奥さんの弁護士さんに聞いたそのときも、私は『結婚しているだなんて、知りませんでした』と答えた。茫然自失、といった私を見て、弁護士さんは納得したようだった。むしろ気の毒そうに眉尻を下げた。
コミュニケーションアプリの彼とのやり取りの記録も全部見せた。それだけではなく、友人との会話も見せた。
そこには、『パーティに誘った私よりあんたのほうが早く結婚しそうね』、なんてメッセージもあった。『今度、ブライダルフェアに行ってみようかな』『でもちゃんとしたプロポーズは彼からして欲しいし』なんていうはしゃいだものもあった。
私は見事なまでに、なにも知らない、騙された馬鹿な女だった。
私から彼を訴えることもできると提示された。けれどそれには首を横に振った。
『もう、いいです』
会議室で隣に座っていた部長がそれに異を唱える。
『ほんまにええんか? ワシは怒ったほうがええ思うで』
『いいんです』
頑なにそう繰り返す私に、部長も諦めたようだった。
『まあ、引きずらんでもええことではあるわいのう』
ため息とともに、部長は理由を与えてくれる。私の前に座る弁護士さんも、面倒なことにならずに済んだと思ったのか、食い下がることはなかった。
しかし私がそのとき考えていたのは、引きずらないとか面倒だとか、そんなことではない。早く逃げなければ、と思ったのだ。早く逃げださなければ、ボロが出る。
そう、私が真っ先に考えたことは、保身だった。彼との時間が終わることを悲しむよりも、私はまず我が身の安全を図ったのだ。
息が詰まるような就業時間を終え、重い足取りでなんとか自分の部屋にたどり着いたあと、彼から『妻が迷惑をかけてごめん』とメッセージが来た。『妻』というその一文字は、私の胸に鬱屈した思いを落とす。
そのメッセージを皮切りに、ずらずらと言い訳の数々がスマホの画面に並べられていく。私は流れる画面を、膝を抱えてなにもせずにじっと眺めていた。
近いうちに離婚するつもりだった。もう夫婦とは呼べないような関係だ。子どももいないのに単身赴任ということでわかるだろう? まだ離婚していないだけで、離婚しているも同然だ。広島に来てからは会ってもいない。会いにもこない。連絡を取ることもほとんどない。妻は仕事だけが生きがいで、俺は世間体のために書類で繋がっているだけの人間なんだ。
既読が付くからだろう。彼の釈明はどんどんと積もっていった。
『頼むから、返事をくれ』とメッセージが来たときに、私はスマホ画面に指を伸ばした。
『どうして既婚者だって教えてくれなかったの? そしたら私は最初から付き合ったりしなかった』と返信をした。その返事を待たず、私は『嘘つき』とだけ付け加えて、彼をブロックした。
実際、彼の言う通りだったのではないかと思う。だから奥さんの影を隠し通せたのだろう。そうでなければ、もっと早くに気付けたはずだ。なにひとつ物証がない中で既婚者だと疑ったくらいなのだから、きっとそうだ。むしろ私は、よく気付けたな、と自分に感心してしまったくらいだ。普通ならばきっと疑いもしない。それだけ私は彼のことを見つめていたのだろう。
奥さんの弁護士さんが帰ったあとから、私はひそひそと囁かれるようになった。
弁護士さんとは部長と私とで会議室での対面をしたのだが、きっと聞き耳を立てていた人がいたんだろう。いや、弁護士が一介の独身会社員を訪ねてくることなんて不倫くらいしか思いつかないから、それで推測されたのかもしれない。
飲み会はもちろん、お昼ご飯に誘われることもなくなった。給湯室に同僚が集まっているときに足を踏み入れると、さっと潮が引くように彼女たちは散らばっていく。
人数が少ないだけに、それは堪えた。
たまに、『本当に気付かなかった?』なんて念押しされたりもしたけど、横から、『だって婚活パーティで知り合ったんだもんねえ?』と愉快げな声を挟まれる。
『そうですね……それで、気付かなくて……』
『仕方ないよねえ』
そんな慰めの言葉で話は終わる。なにか含んだような声だが、私は素知らぬふりをするしかない。
表立っては誰も私を責めたりしない。だって私は騙された側ということになっている。けれど彼女たちは、『そんなはずはない』と思っているのだ。
もし私が本当に完全に騙されていたとしたら、きっと彼女たちに向かって『言いたいことがあるんならはっきり言って』と、そして誤解を解くべく何度だって説明したのかもしれない。でも、できなかった。私は俯くことしかできなかった。
そんな様子を見かねたのか、ある日、課長が声を掛けてきた。
『やましいことなんてないんだから、堂々としていればいい。噂なんてそのうち消える』
私はその助言に、こくりと頷いた。
だけど、違う。やましいこと、あるんです。だから堂々とできないんです。そのせいで、逃げだしたくて仕方ないんです。
今日は退職する人がいてその送別会があり、珍しく私も呼ばれた。結果は見ての通りだ。やっぱり私は逃げ出した。
「彼に全部押し付けたけど、本当は私も共犯だったんです」
そう、共犯者なのだ。だから堂々とできなくて、こそこそと逃げ回る。
彼に返したメッセージも、彼に対して書いたものではない。あれは、彼の妻に対して、『私は本当に知りませんでしたよ』と主張したものだった。
なんてずるい女だろう、と自分で自分に呆れてしまう。
◇
私はそうっと、あやかママのほうに視線を移す。今度こそ呆れられているのではないかと思いながら。
するとあやかママは、にっこりと鮮やかに笑った。そして人差し指を一本立てて、自分の口元に持っていく。それから、軽くウインクした。
私は、ウインクが綺麗にできるだなんて器用な人だな、なんてことを考えていた。私はしようと思ったら、両目を閉じてしまう人だから。
真っ赤な唇が、動き始める。
「ほいでも、誰も知らん」
「……はい」
すべては私の心の中のこと。
「じゃ、ないこと」
「……ええんでしょうか」
「ええか悪いかでいうたら、良うはないじゃろうけどね」
そう答えて、あやかママはまたケラケラと笑った。
「まあウチは、判事さんじゃないけえね」
そう続けて、口の端を上げる。なんでもないことみたいに。
「でも実際、どうするん? ホンマは気付いてました、って、そんなん、人の心の中のことなのに、どうやって証明するん? だってメッセとか全部提出したのに、どこにも知っとったっていう証拠はなかったんじゃろ?」
「……はい」
「ほいなら、もうええわ。もうええ、もうええ。面倒くさい」
ひらひらと手を振りながら、心底面倒くさそうに眉根を寄せ、そんなふうに言い募る。
「その人とももう会わんで、会社も辞めて、パーッと忘れりゃあええわ」
そう言い切ると、両腕を広げる。そしてまた足を組んで、その上に肘を置いて頬杖をついた。
「ウチならそうする、いう話。あんたがどうしたいんかは知らんけど」
そこまで話して、なにかに気付いたように、こちらを振り向く。
「そういやあ、お名前、聞いとらんかったわ」
「あ、優美です。元木優美」
「優美ちゃんね。うん、覚えた!」
そう声を上げてから、真っ赤な唇の両端を上げて笑った。その表情を見ていると、なんだか私もおかしくなって、笑いが漏れる。
「今度こそ、すっきりしたん?」
あやかママは微笑んだまま、そう訊いてきた。
「はい。幾分かは」
「ほいならええわ」
そう答えて、あやかママはビール缶を口につける。それからすぐに口から離して眉根を寄せた。
「あー、無いなった」
「じゃあ買ってきましょうか」
そう提案して腰を浮かせかけた私を、あやかママは手を立てて制する。
「いや、ええよ」
「ほうですか? じゃあ今度、お店のほうに行きますよ」
「ほんま? じゃあよろしくー」
あやかママはそう嬉しそうに笑う。
どうやらこの辺でお開きだ。私は再度、ビール缶を自分の手に持ち、グイっと傾けて飲んだ。
結局、なにごとも解決はしていない。ただ、胸の中に溜まっていたものを吐き出せたような気がする。
救われた。そう思った。
「そういや、お店は何時から……」
訊きながらあやかママがいる右手のほうを見ると。
あやかママはもうそこにはいなかった。
「え……」
この一瞬で? いったいどこに? 私は慌てて立ち上がってあたりを見回す。どこにもあの派手なスーツを着た人は見当たらない。
そして、繁華街の喧騒が戻ってきていた。新天地公園は、いつも通り、幾人もの人がいて。中央通りにはたくさんの車が通っていて。ネオンが瞬く中、ざわざわと騒がしい、いつもの繁華街。
私は呆然としたまま、ストンと腰をベンチに下ろす。ふと横を見れば、空になった500mlのビール缶。私はそれを、夢見心地でじっと眺めた。
そういえば。私はいつ、誰から、妖精の召喚の仕方を聞いたのだっけ。
しばらく考えてみたけれど、どうしても思い出せなかった。




