第2話 優美 Ⅰ 妖精を呼び出した 2
私は小さく息を吐くと、話を始めることにする。でも、なにから喋ればいいのだろう。
「あの、あやかママは、なんでこんなところにおってんですか」
とりあえず、私はそんな質問から始める。
「なんでじゃろうね?」
なのに返ってきたのは、そんな曖昧な返事だった。
「ママって言うからには、お店はあるんですよね?」
「うん、あるよー」
そう答えるとあやかママは、すぐ近くの枯茶色の雑居ビルを指差した。
「あのビルの三階の一番奥。『エスケープ』ってスタンド」
行ったことはないが、あのビルの中ではいくつかのスタンドが営業しているのは知っている。
では妖精云々はやっぱり噂話とかの類で、あやかママはそれに乗っかっただけなのだろうか。妖精のふりをしては客の呼び込みをしているんだろうか。
人通りがないのも、たまたま今日のこの時間、途切れてしまっただけなのだろうか。『とうかさん』というお祭りのときには、中央通りは車両の通行禁止をするのだし、ありえない話ではないのかもしれない。
「ほうじゃ、知っとった?」
私の思考を遮るように、唐突にあやかママは声を掛けてくる。
「スタンドって方言なんじゃって」
「えっ」
「驚くよねー。県外の人には通じんのんよ。スタンドってガソリンスタンド? って訊かれたりするんじゃけえ」
そう続けて、あはは、と笑う。それは知らなかった。
「じゃあ標準語じゃあ、なんて言うんですか」
「スナック、みたいなんじゃけど、なんかちょっと違う気ぃするよねえ」
「はい」
十席ほどのカウンター席。ボックス席はひとつ。広いところならもうひとつ。それからカウンターの内側にはマスターかママがいる。店は狭くて。薄暗くて。それがスタンドというものの気がする。テレビで見るスナックのイメージとほとんど変わらないような気もするし、ちょっと違う気もする。
「バー?」
「あー、バーのほうが近いんかね」
「最近は、ラウンジって言うところ、あるみたいですけど」
「ラウンジって、ちょっと広いところじゃないんかね。あと、九州のイメージ。それと、若い女の子がおる気がする。カウンターを挟まんと接客するみたいな」
「若いって……あやかママはおいくつなんですか」
「いやじゃー! 女に年を訊きんさんなやー!」
またケラケラと笑いながら、私の肩に軽く手を置く。見たところ三十歳過ぎっぽいけど、そう言うからには聞かないほうがいいんだろう。もしかしたら見た目よりは上なのかもしれない。
というか、私はいったいなにをしているんだろう、なんでホステスさんと話をしているんだろう、とため息をついたところで。あやかママは問うた。
「ほいで?」
「え?」
「ウチとなんか話をしたいんじゃないん?」
あやかママは手に持ったビール缶を軽く掲げながら、小さく首を傾げた。二本のビールと引き換えでしょう? とでも言いたげに。
「相談というか……ちょっと聞いてもらいたいだけなんですけど……」
でも私が喋りたかったのは、妖精に対してだ。ホステスさんに喋りたかったら、それこそスタンドに行ったほうが早いのではないか。ホステスさんがいるスタンドに心当たりはないので、探す必要があるが。いや、まったくないわけではないのだが、会社の人に連れられて行ったようなところばかりだ。自分の行きつけ、という店はない。
私のそんな心の動きを知ってか知らずか、あやかママはにこにことして口を開いた。
「言いんちゃい、言いんちゃい。聞いたげるよ、なんぼでも」
そう促して、微笑んだまま、私の次の発言を待っている。
その顔を見ていると、まあいいか、という気になってきた。なんにしろ、私はすでに酔っているのだし。本当に妖精なんてものが存在しているのかもわからないし。
なんでもいいや。そういう考えに至ると、私は本題に入る。
「あのですね」
なんでもいいや、と思った割に、私は次の言葉をなかなか舌に乗せられなかった。もじもじと膝の上で自分の指を弄ぶ。言わなきゃ、言わなきゃ、待ってくれているのだし、と心の中で何度か自分を叱咤して、ひとつ深呼吸をしたのち、私はようやく話し始める。
「私、不倫しとってですね」
「うん」
「いや、不倫だって知らんかったんですけどね。いつの間にかさせられとった、っていうか」
「うん」
あやかママは、ただただ相槌を打ちながら、私の話に耳を傾けている。
よかった。私は心の中でほっと胸を撫で下ろす。もしここで『理由はどうあれ不倫なんて』と責められていたら。いやそこまではっきり言わなくとも、『えー不倫?』としかめ面で返されたとしたら、そこで話は終わり、私はこの公園から立ち去っていただろう。
ホステスさんだから不倫カップルなんてたくさん見てきたのだろうか。だからなんとも思わないのだろうか。いや、それは偏見だろうか。
とにかく、彼女からは私の話に対する嫌悪感はまだないように感じられた。なら話を進めてもいいよね、と勝手に判断する。酔っているからか、少しずつ私の口の滑りも良くなってきた。
「彼との出会いが、婚活パーティなんです。まさか既婚者が交っとるだなんて思わんでしょう?」
「そりゃあ思わんねえ」
あやかママは、ああー、という口の形のままで、うんうん、と頷いた。
一人じゃ心細い、という友人の誘いに乗って私も参加した。正直なところ、もしかしたらいい人がいるかもしれない、という期待もあった。もう二十六歳だし、そろそろ結婚を考える相手がいたらいいな、とは思っていたのだ。ここ数年、彼氏なんていなかったから。
婚活パーティで出会った彼は、あまりがっついたところのない人で、スマートで素敵だな、と思ってしまった。今思えば、妻がいるからがっついていなかっただけなのだとわかる。
「ほいで、付き合い始めて。いたって順調で。もしかしたら本当にこのまま結婚するんかな、なんてちょっと期待しとったら、ある日突然、奥さんの弁護士が会社に来たんです」
「ありゃ……」
あやかママは、頬に手を当てて眉尻を下げる。それは大変だったわね、と顔に書いてあった。
「だって! 結婚しとるなんて知らんかったんですよ! 私、知らずに不倫しとったんですよ!」
「ああー、なるほどねえ」
私の強い口調に、あやかママは納得したようにそう答える。
「私、不倫女扱いですよ! 騙されたのはこっちなんですよ!」
興が乗ってきたのか、私は拳を握って、ぶんぶんと振った。自分の正当性を殊更に主張するように。反論を許さないかのように。なにかを誤魔化すかのように。
「ほうじゃねえ」
あやかママはそんな私に特に驚くこともなく、ただただ頷いている。その様子があまりにも拍子抜けで、私は少しだけ落ち着きを取り戻し、声のトーンをちょっとだけ下げた。
「会社の人に事情は説明したんです。でもそれからずっと疑惑の眼差しで見られてしもうて。一応、私の言い分は聞いてはもらえたんですけど、今でも信じられとるかどうか……」
本当に結婚しているのを知らなかったの? 気付かなかった? 何度そう問われたか、わからない。
そのたび私は言った。言い続けた。私は知りませんでした、まったく気付きませんでした、と。
でも、その釈明を本当に信じてくれたのは、何人いたのだろう。
そうだ。目の前のこの人だって、私の話を信じているのかわかりはしない。
私はまるで、今まで信じてもらえなかった不満をすべてぶつけるように、あやかママに向かって大声を上げた。
「知らんよおー! 単身赴任なんじゃけえ、わかりゃしませんよー!」
「なるほどねえ。うん、それはわからんじゃろうねえ」
あやかママは私の主張をすべて肯定して、うんうん、と頷くばかりだ。その通り、あなたの言う通り、なにも間違っていない。そんなふうに思っているように感じる。
そんなこと、ありえるのだろうか。私の発言をすべて信じるだなんてこと。今までいろんな人が私の説明を鵜呑みにはしなかったことを見てきただけに、なにかあるのかと勘ぐってしまう。
信じて欲しかったはずなのに、なんだか急にそわそわと不安になってきた。
「……聞いてくれとりますか?」
「ん? 聞いとらんように見えるん?」
あやかママはこちらを見たまま、小さく首を傾げた。大きな輪っかのピアスが、ゆらりと揺れる。
「いえ……」
私は目を逸らして、膝の上でぎゅっと拳を握る。そうだ、信じて欲しかった。そしてようやく、信じてくれる人が現れたのだ。続けよう。聞いてくれると言っているのだから。
「そしたら今日……なんか、別部署の女の子がね、こっち見てひそひそしとるのが見えたんですよ」
「あー……それは」
「ですよね……」
きっとまだ噂はあって、そっちのほうが真実と思われているのだ。私の弁明など、皆、信用していない。不倫女。他所の家庭に手を出す女。不誠実な女。それが今の私の評価だ。
「人間、面白そうな話に飛びつくもんじゃけえねえ」
「私は面白うないです」
「そりゃそうじゃわ」
そう返してきて、あはは、とママは笑った。なんだか肩の力が抜ける。なんでも言いたくなる。
「きっと、ずっとこのまんまなんじゃろうなあ、って思うて」
私は目を伏せて、そう続けた。
あやかママは落ち着いた声音で、私に語り掛けてくる。
「人の噂も七十五日、って言うじゃん」
「七十五日、経っとるんです……」
「消えんかったんかあ」
苦笑交じりにそう呟くと、またビールに口を付けた。
「ほいで、どうしたいん?」
「私……会社、辞めたい……」
仮にいったんこの噂がなくなっても、またいつか再燃するだろう。もしかしたら私が誰かと結婚するなんてことがこの先にあったとしたら、そのときもまたひそひそと囁かれるのではないだろうか。そんな場所にいつまでも平然としていられるほど、私は強くない。
「辞めりゃあええじゃん」
あやかママはさっくりと軽い口調でそう返してきた。けれど次の瞬間には、人差し指を立てて、手のひらを上にして私を指差した。
「あ、次の就職先とか心配なん?」
「それもあるんですけど……なんか……」
もし今私が辞めたら、今度はなんて噂されるのだろう。そんなことを気にしてしまっている。
ほらやっぱり。知ってて不倫したんでしょ。だからいたたまれなくなったんじゃない? 本当に騙された被害者だっていうのなら、こそこそ逃げるような真似をしなくたっていいんだから。
そんなふうに思われたら。
「でも辞めてしもうたら、逃げたみたいで、なんか……」
「逃げちゃあいけんのん?」
そう私の弱音を遮ると、あやかママは小首を傾げた。
「え?」
私もつられて首を傾げる。それを見たあやかママは続けた。
「ウチじゃったら逃げるかも」
「ほう、ですか」
「人生、楽しゅう生きたいけえね。わざわざ嫌な場所におることないわ!」
そう楽し気な声を上げて、缶ビール片手にケラケラと笑う。やっぱり他人事なんだろうか。私にとっては人生の一大事なんだけど。
「まあ、飲みんちゃい」
「え」
あやかママは、ずっと私たちの間に置かれたままの一本のビールに視線を移して、私に勧める。
「二本持ってくるいうんはね、二人で飲みましょう、いうことなんよ」
「ほうじゃったんですか」
「ほうじゃったんです」
あやかママはしたり顔で頷く。
なので、じゃあ遠慮なく、と私はビール缶を手に取る。いや遠慮もなにも、私が買ってきたものだ。
ステイオンタブに手を掛けて引くと、プシッという音がする。私はあやかママがしていたように、ゴクゴクと飲んでみた。あまりこんな飲み方しないなあ、でもたまにはいいか、だなんて思いながら喉ごしを楽しんでいると。
「まあ、よう考えんちゃい」
私はビール缶から口を離し、あやかママのほうにゆっくりと振り向く。彼女は小さく口の端を上げていた。
「どっちにしろ後悔するんかもしれんけど、人に言われて決めるよりゃあ、自分で決めたほうが後悔は少ないけえね」
「まあ……ほうですよね」
「ほうですよ」
うん、とひとつ首を前に倒すと、あやかママもビールを飲みだした。残り少ないのか、ビール缶の底は、ほぼほぼ真上を向いている。
妖精が現れて問題を解決してくれる、という話のはずだったが、結局のところ、なんの解決策も提示されていない気がする。
まあ仕方ない。妖精じゃなくてホステスさんだし。それになにより、否定せずに話を聞いてくれたことが嬉しかった。不倫と聞いても眉をひそめたりしないし、逃げてもいいって励ましてくれた。それだけで十分じゃないか。
私は手に持ったビール缶を脇に置く。
「あー、なんだかすっきりしました」
それから両手の指を組んで上に腕を伸ばしながらそう吐き出すと、あやかママは口元に笑みを浮かべた。
「ほう?」
「はい、おかげさまで」
私は姿勢を正してから、頷く。妖精が問題を解決してくれるなんて馬鹿げた話に乗って、でも口に出せてすっきりした。すっきりした、のだ。
「ねえ」
ビール缶を脇に置きながら、あやかママが問い掛けてくる。
「本当に?」
「え?」
「本当に、すっきりしたん? そうは見えんのんじゃけど」
その指摘に、ぴくりと私の身体が揺れた。
「ほう……ですか?」
心なしか、声まで震えている。
「ウチの気のせいなんかね?」
あやかママは、こちらをじっとまっすぐに見つめている。なんだろう、なにもかも見透かされているような。そんな、視線。
少ししてあやかママは、ふいっと視線を逸らして小さく笑った。
「まあ、すっきりしたんじゃったら、それでええんじゃけど」
そして足を組んで、その上に肘を置いて、頬杖をついている。
この人は。この人は、すべてを見透かしている。そんな確信にも似た思いが湧きあがる。
隠さずに言ってしまえ、と私の心が囁いている。幸いなことに、周りには誰もいない。
言ってしまえ。この胸の中にあるものをどこかで吐き出さなければ、潰されそうな気がしていた。今、私にその機会が与えられている。
私はゆっくりと口を開く。
「本当は」
あやかママはこちらを振り向く。私の話に耳を傾けてくれている。
これを聞いても、彼女はまだ私を否定しないでいてくれるだろうか。
「本当は、私、おかしいなって、思うとった」




