第20話 絵里 Ⅲ 妖精の待つ公園で、ビールを一缶飲み交わす 1
私は新天地公園の五段しかない階段を上る。手にはコンビニのレジ袋。中身は500mlのビール缶が二本。
それから、チーズ鱈が一袋。あやかママの好物だった。好物で釣ってやろう、という試みだ。
まずは神社にお参り。二礼二拍手一礼。少しだけ丁寧に頭を下げてみる。それから電話ボックス跡に一番近いところのベンチに向かい、そっと腰掛けた。
一息ついて見上げてみれば、『エスケープ』が入っている枯茶色の雑居ビルが目に入った。
たぶん、だけれど、ここであやかママに会った人は何人かいる。そういう人がたまにふらりと『エスケープ』にやってくる。
いつも、「ママはあやかママじゃないの?」という表情をするが、決してそうは口にしない。ゆみちゃんと、あの木佐貫さんという人も、あやかママに会ってやってきたクチなのではないだろうか。しかも二人は、別々にあやかママに会ったような気がする。
なぜお見合いおばさんのようなことをしているのかと、問いたい。
私は少し唇を尖らせる。それなら私の前に現れてくれてもいいのに。
他にも、『エスケープ』にやっては来ないがあやかママに会った人だって、きっといるんだろう。
なのに、どうしても私の呼び出しには応じてくれない。なんだか腹が立ってきた。いるんだったら出てきてくれたっていいじゃないの。
だから私は鋭い声を出して、呼んだ。
「美代子おばさん」
「やめんさいや、その呼び方」
誰もいなかったはずの隣から、そんな抗議の声が飛んできた。
「前に、おばさんってやめえ、言うたじゃろ。美代ちゃんか、お店じゃったらあやかママって呼びんさいって何度言えば」
機関銃のごとくに、そんな文句が私に浴びせられた。
私はそちらに、ゆっくりと振り向く。生前によく着ていた花柄のスーツ。ふわりとカールさせた茶髪。派手な化粧。大きな輪っかのピアス。ピンヒール。流川で生きるホステスにありがちな、透けるように白い肌。
あやかママ。あやかママ以外の何者でもない。
私はただじっと、目を瞬かせて、その姿を眺める。
それに気付いたあやかママは、小首を傾げて口を開いた。
「なによ」
「ほんまにおった」
「おるよー」
あやかママは私がなにも言わないうちから、ガサガサとレジ袋をあさっている。勝手知ったるなんとやら、というやつだ。
「ありゃ、気が利いとるねえ。チーズ鱈が入っとるじゃん。さっすが絵里ちゃん」
嬉しそうにチーズ鱈の袋を取り出すと、いそいそと開けている。そして一本取り出すと、あーんと口に入れ、それからビール缶のタブを開けて、ゴクゴクとビールを飲んだ。
「ええねえ。今度から、チーズ鱈も持ってくるようにお願いしようかなあ」
うんうん、と頷きながらそんなことをつぶやいている。
妖精が、缶ビール片手にチーズ鱈。いや、ない。なさすぎる。
私がどう反応すればいいのかわからずに、ただ呆然とその姿を眺めていると、あやかママは眉根を寄せてこちらを向いた。
「なに。言いたいことがあるんなら、はっきり言いんさい」
「えと……」
「じゃけえ絵里ちゃんの前に出るの、どうしようか思いよったんよねえ。いつまでもウジウジするんもどうかと思うし」
あーん、と口を開けて、次のチーズ鱈を食べている。
それはつまり。
「やっぱり私が来よるの、知っとったんよねっ?」
私は思わず、声を荒らげた。対してあやかママは、のんびりと返事する。
「知っとるよー」
「じゃあ早う出てきてや!」
なんだか腹が立ってきて、怒鳴りつけてしまう。
「私が何回、ここに来たと思うとるんっ?」
「あー、うるさいうるさい」
私側の耳に人差し指を突っ込んで、嫌そうな顔をする。死んだのに、やっぱり生前と変わらない傍若無人さで。なんだか死んだことを忘れてしまいそうになる。
私は妖精を呼び出す方法を知ってからというもの、何度も何度もビールを買って、神社にお参りして、一人ベンチに座って待ち続けた。
ジロジロと、「この人なにやってるんだろう?」という顔で見られたことは一度や二度ではない。待ち合わせのようなのに誰もやって来ず、ヤケになって缶ビールをあおり、しばらくして諦めて去っていく。ものの見事な不審者だ。
だって仕方ない。妖精を呼び出すには手順があった。知ってしまったからには、やるしかない。
そう、私は妖精を呼び出す方法を知っていた。しかも、いつの間にか。
「……ちなみに、妖精を呼び出す方法は、どうやって広めたん?」
「んー……電波?」
そう曖昧に答えて、あやかママは小首を傾げる。そして人差し指を立てて自分のこめかみに当てると、ぐりぐりと動かした。
「なんかこう……念じるとね? 通じるっていうか」
「もうわけがわからんわ……」
私は、はあ、と大きく息を吐いて、額に手を当ててうなだれる。
けれどあやかママは私の様子には構わず、のんびりと続けた。
「無理強いはしよらんよ? 教えるだけ。ほいで来たい人だけ来る。そんな感じ」
周りは、静かだ。この新天地公園には私たちしかおらず、いつもの繁華街の喧騒はない。
そうか、妖精の召喚に成功すると、こんなふうになるのか。
二人きりの、時間と、場所。
私はひとつ息を吐くと、またあやかママのほうに向き直る。
「……でも、会えてよかった」
「ほうなん?」
「会いたかったんよ」
私がそう口にすると、あやかママは小さく笑った。
会いたかった。本当に。誰よりも、心から。まさかこの願いが叶うなんて。奇跡、としか言いようがない。
あやかママは、ビールを一口飲むと、口を開いた。
「絵里ちゃんが店を継ぐ、とか言い出すけえ、なんかわからんことがあっちゃあいけんけえね、まあ会えるようにはしとこうかと思いよったんよ。でもウチがおらんでも立派にやりよるようじゃけえ、出て来んほうがええか思うたんよね」
そう語って、こちらを向いて口を笑みの形にする。
「絵里ちゃんは、もう立派にママじゃわ。ねえ、『かえでママ』?」
その言葉に、今までやってきたことがすべて報われたような気がして、自然と笑みが零れてきた。
ビールをさらにクイッと一口飲むと、あやかママは続けた。
「大学まで出したのに、なにも店を継がんでもええのに」
「経済学部出たし、役に立ってないことはないよ」
「ほうかもしれんけど」
私もレジ袋をガサガサとあさり、ビールを取り出す。そしてタブに手を掛けて開けた。
あやかママはまだブツブツと零している。
「でもこう、普通の会社員とか、そういうのになるんかと思うとったんよ」
「それなりに楽しゅうやっとるよ」
「絵里ちゃんがそう決めたんならええけど」
呆れたような口調でそう返してくる。
私は缶ビールをあやかママの前に差し出した。あやかママは真っ赤な唇の両端を上げて笑うと、持っていたビール缶をこちらに突き出してくる。
「乾杯」
「かんぱーい」
カシッ、と鈍い音がする。うん、やっぱりここにいるのは、あやかママだ。家にいるだらしない人は美代ちゃんで、流川にいるのはあやかママ。
仕事に全振り、というのはその通りで、流川と家とではまるで別人だ。家では食器ひとつ洗わなかったくせに、店ではシャキシャキと動いていたし、家の中ではスッピンに大きな黒縁メガネをして、上下スウェットでウロウロしていたから、姿形も同一人物とは思えないほどだ。
美代ちゃんは流川に出るとき、あやかママに変身するのだ。
「絵里ちゃんも、ずいぶんママっぽくなって」
あやかママはしげしげと私を見て、そんなふうに評価する。
「がんばっとるんよ」
「そうみたいじゃね」
「もう、混乱したりはせんじゃろ」
『かえでママ』の名字は、『江利川』だ。あやかママが頻繁に私のことをお店で「絵里ちゃん」と呼ぶものだから、やむなく名字を『えり』で始まるものにした。
かえで、という名前が源氏名であることはお客様にはバレバレではあるのだろう。でもなんとなく、別に本名があるというのは気まずい感じがするのだ。
だから「絵里ちゃん?」と首を捻るお客様に向けて、「名字が江利川なので」という理由付けをしなければならなくなってしまった。
私はあやかママと美代ちゃんの使い分けを、ほとんど間違ったことがない。本人が、お店と家とで、きちんと自分を切り替えていたからだろうと思う。つまり私はその頃、切り替えができていなかった。お店でも家でも、私は「絵里ちゃん」だった。
けれど今はきっと大丈夫だ。
「若いけえ舐められるし、お店ではしっかりせんとね」
私は胸を張って、そう言う。
「若いけえ舐められるいうのは、ほうじゃろうね」
うんうん、と頷きながらあやかママが同意する。
二十六歳。ママとして、いない年齢ではないが、経験が浅いだけに同業者にも、それからお客様にも舐められやすくはある。だからなるべく大人っぽくなるように、化粧やら衣装やら仕草やらは気を付けているのだ。
「ほいじゃけ今の私は、『かえでママ』」
「ええんじゃないん?」
特に関心はなさそうなそんな返答をされて、私は唇を尖らせる。そんな私を見てあやかママは、ふっ、と笑った。
本当に生きているみたいだ。ここにいるのはあやかママだ。私の大好きな美代ちゃんが変身した、大好きなあやかママだ。
私はあやかママに訊いてみる。
「……ところで、なんで妖精なんて名乗っとるん?」
「妖精じゃけえ」
お前はなにを言っているんだ、とでも言いたげに、あやかママは私に向かって答える。
「妖精?」
「妖精」
もぐもぐと口を動かしながら、そう断言する。どこにそんな妖精がいるのか。
「幽霊じゃん。そろそろ成仏しんさいや」
私の言葉を聞いて、あやかママは少しだけ下を向いて、苦笑いを浮かべた。
あやかママは、この公園で死んだ。あの店が開店してから三ヶ月後のことだった。
ようやく自分の店を持てたと喜んでいたのに、店を閉めて自宅に帰るために公園を突っ切ろうとした途中、くも膜下出血であっけなく。
あやかママは、軽く肩をすくめて答えた。
「成仏は、したんよ。けどそのあと、妖精に生まれ変わったんよ」
「どこからどう見ても妖精には見えんのんじゃけど」
「そんなことはないじゃろ。背中に羽、あるけえね」
「あるんっ?」
私は思わず、あやかママの背中を覗き込んだ。けれど羽なんてなくて、普通にあやかママの背中だ。
「あるんよねえ、これが。隠しとるんよ」
くすくすと笑って、面白そうにそう話す。
「酔ったら出てくるんよ」
「嘘くさい……」
私は額に手を当てて、大きく息を吐いた。
なんにも返せなかった、なにもかも奪ってしまった、美代ちゃん。もし会えたらきっと泣いてしまうと思っていたのだけれど。そういう情緒とは無縁の再会だ。
「ほいで、なんでこんなところにおるん?」
新天地公園。あやかママが亡くなった場所。地縛霊、ということならここから離れられないのだろうか。それならやっぱり幽霊というものなのではないか。
「神社が近いし、店が見えるし、ウチは流川が好きじゃけえね」
けれど悲壮な気配はまるでなく、サラッとそんなふうに返してくる。その様は、幽霊、というものからは程遠いように感じた。
もしもあやかママに会えたら、話したいことがいっぱいあった気がするのに。全部吹き飛ぶ、能天気さだ。
「ここの神社、店のすぐ近くじゃけえ商売繁盛を願って、店に行く前に必ず立ち寄ってお参りしよったんよね。それで神様が妖精にしてくれたんじゃわ」
「はあ……」
まあ、そんなこともあるのかもしれない。なにがあっても驚くことでもない。すでに目の前に信じられない現象が起こっている。
「ほいで妖精になったとして、なんで営業までやりよるん?」
やっぱりあのお店を潰したくないんじゃないだろうか。私が頼りないから、幽霊になってまで客を呼ぼうとしているのだろうか。……いや、妖精だったか。
「営業?」
けれどあやかママは、きょとんとした顔をして私のほうを見た。どうしてそんな、わけがわからない、という表情をするのか。
私は、人差し指を立てて手のひらのほうを上にして、あやかママを指差した。
「営業、しよるじゃろ?」
「しとらんよ。そんな面倒なこと、死んでまでウチがするわけないじゃろ」
ひらひらと顔の前で手を振っている。
そう言われるとそうなんだけれど。でも実際に、あやかママに出会った人が店に来ているわけで。
「でもほら、最近じゃったら、優美ちゃんと木佐貫さんとか」
「木佐貫? ああ、健太くんね。あーあー、あの二人ねー」
苦笑しながらうんうんと頷き、そしてまたクイッとビールを飲んだ。それから、「沁みるわー」と零してから、こちらを振り向いた。
「別に、営業したわけじゃないわ。店はどこかぁ訊かれたけえ、『エスケープ』教えただけ。訊かれんかったら言わんかったわ。まあどうせなら、『エスケープ』に行って欲しい、くらいの気持ちはあったかもしれんけど」
「店に来てくれそうな人に声を掛けたんじゃないん?」
「ええー? そんなんせんよ」
あやかママは面倒そうに、またひらひらと手を振る。心外だ、とでも言いたげだ。
「じゃあなんで、あの二人に声掛けたん?」
「なんか、辛気臭い顔しとったけえ、話を聞いただけ」
「そんな理由?」
「ほうよ。流川は楽しく過ごさんと。あんな顔でウロウロするところじゃあないわ」
そう理由を述べて肩をすくめる。
「ウジウジするんは嫌いよ」
それから人差し指を伸ばしてきて、私のおでこを突いた。
「痛っ」
本当はまったく痛くなかったけれど、そう反応してみる。あはは、とあやかママは笑った。
「絵里ちゃんもよ。いつまでもウジウジと、辛気臭いわ」
私は突かれたおでこを両手で隠して、じっとあやかママを見る。
「だって……」
「だって?」
「あんな急に、死んじゃうから……」
そう口にすると涙が溢れてきそうになって、私は口元をきゅっと結ぶ。たぶん、あやかママは私が泣くのを見たくはないだろうから。




