第21話 絵里 Ⅲ 妖精の待つ公園で、ビールを一缶飲み交わす 2
あやかママはそんな私を見て、はあ、と大きくため息をつく。
「ほいでも、絵里ちゃんが無理して受け継がんだってええんよ」
「私が続けるの、……嫌なん?」
もし会えたら。一番、訊きたかったこと。
もしかしたら迷惑だって感じているかもしれない。余計なことをするなと思われているのかもしれない。だとしたら、手放すことだって覚悟しないといけない。それがどんなにつらくても。
だって『エスケープ』は、『あやかママの店』なのだ。
「あの店は、ウチが開いたお店なんよ」
「うん」
あやかママの言葉に、ぴくりと私の肩が揺れる。
そうだ。あやかママの、一番大切なもの。一番大切な場所。宝物。私が、勝手に受け継いだ。私が、奪い取った。
あやかママがこちらに手を伸ばしてくる。そして。
私の頭の上に、ぽん、と手のひらを乗せた。それは、生前と変わらない温かさを持っていた。
「結論から言うとね、嫌じゃないわ。ありがたいとは思うとる」
「ほんま?」
私はほっと息を吐き出す。それを見て小さく笑うと、あやかママは手を自分の膝の上に戻した。
「ほいでも、絵里ちゃんの人生なんじゃけえ、絵里ちゃんの好きに生きんにゃいけんわ。人の人生受け継いどる場合じゃないわ。ウチは自分一人のために生きたわ。好き勝手生きたけえ、あんまり未練もないんよね」
そう続けると、後ろに手をついて、少し上を見上げる。口角を上げていて、どこか満足そうな表情には見えた。
「でも、幽霊になっとる」
「じゃけえ、妖精なんじゃって」
苦笑しながらあやかママは訂正してくる。
人の人生を受け継いだ、そんな綺麗なものじゃない。私がどうしても手放したくなくて、迷惑かもしれないと思いながら、そこには目をつぶって手に入れたものだ。
「私が好きで受け継ぎたいんじゃけど」
「ほいならええけど」
「ほいでも、あやかママみたいに上手くできとらんけど……」
私がそう弱音を吐くと、あやかママは私の肩をバンバン叩きながら笑った。
「できるわけないじゃろ! 絵里ちゃんは大学時代に、ウチが前に働きよった店でバイトしただけじゃん。『エスケープ』を開店してからはそりゃ、こき使ったけど、そんなに長うはないじゃろ。ウチが何年水商売やっとる思うとるんよ。そんなすぐにできたら、ウチの立場がないわ!」
痛い。叩き過ぎ。あと笑い過ぎ。
私は叩かれた肩を押さえながら、訊いた。
「……何年やったんよ」
「ウチ、十六んときからバイトでやっとるよ。本格的にやり始めたんは十八んとき」
「恐ろしい……捕まるわ」
私は自分に抱き着くようにして、二の腕をわざとらしく擦った。
まさかその頃からビールをグビグビ飲んでいたんだろうか。……飲んでいたんだろうな。
「昔は今より緩かったけえね」
あやかママは、苦笑しながらそう答える。
「樹里ちゃんなんか、十五の頃からやっとるわ。まあ年は誤魔化しとったけど」
「ああー……」
もういろいろと、突っ込みが追いつかない。
樹里ちゃんももう、二十二歳だから今はいいのだけれど。あやかママの『エスケープ』開店が四年前だから、十八歳。……ギリギリだ。
「ま、樹里ちゃんに頼りんさい。あの子はええ子よ。水商売に向いとるわ」
私はその忠告に頷く。樹里ちゃんがいなかったら、『エスケープ』はここまで続いていないだろう。
「うん、人の顔と名前は間違えんし、ボトルも全部覚えとるわ。あの子についとるお客様もたくさんおるし」
「そうじゃろ。あの子もいつか、自分の店を持つんじゃないかね」
「それは……どうじゃろうね」
『エスケープ』の前の店で初めて樹里ちゃんと働くことになったとき、当時ちぃママだったあやかママはきっぱりと指摘した。
『字面が似すぎとるわ。絵里ちゃんは、かえで、ね。売れっ子によくある名前だから』
と勝手に、しかも安易に、源氏名を決められたのだった。でも、なんだか新しい人生を与えられたような気がして、少し嬉しかったのを覚えている。
それは樹里ちゃんも同じだったようで、名前を変えられずに済んだ、と嬉しかったらしい。樹里という名前もあやかママが決めたのだそうだ。
最初は、樹里ちゃんと私は仲が良くなかった。お店ではにこやかに話すけれど、お客様がいなくなったと同時に、二人ともそっぽを向いてしまうような関係だった。
たぶんそれは二人とも、あやかママをお店のママというだけではなく、本当にママのように思っていたから、お母さんを取り合うような姉妹の気分だったのではないか。
あやかママが『エスケープ』を開店したあと、週に二回くらいお店を手伝っている間にも、樹里ちゃんはやっぱり私とは距離を置いていた。
そうこうしているうちの、突然の、あやかママの訃報。
葬儀のときは、いろんな人を呼んだ。あやかママの名刺ホルダーはお客様がほとんどだったけれど、片っ端から連絡した。
そんな薄い関係だからあまり来ないだろうと思っていたら、たくさんの人が来てくれて、用意された葬儀場の部屋に入りきらないくらいだった。そして皆、泣いてくれた。
特に樹里ちゃんは酷くて、棺に縋ってワンワン泣いて、離れようとはしなかった。
棺を炉に入れるときには、樹里ちゃんはもう立てなくなってしまっていた。
私も喪主でなかったら、そうしていただろうと思う。無事に終わらせなければ、と気力だけで立っていたようなものだった。
私は火葬場で火葬を待っている間、椅子に呆然と座り込んでいる樹里ちゃんに告げる。
「樹里ちゃん、『エスケープ』、続けよう」
樹里ちゃんは涙に濡れた顔を上げた。
「はあ? あやかママのおらん『エスケープ』なんか、『エスケープ』じゃないわ。かえでちゃん、バカなんじゃないのっ?」
そう声を荒らげると、またワンワン泣いた。
「ほいでも、あやかママの一番大事なもの、無くしたくないけえ」
樹里ちゃんはその宣言に、声を出すのを止めて、顔を上げる。
しばらくじっと、私の顔を見つめる。どれだけそうしていたか、わからないくらい長い時間だった。
「……うん」
そして樹里ちゃんは、こくりと頷いた。
涙はとめどなく、ぼろぼろと流れ続けていた。けれど掠れた声で、樹里ちゃんはしっかりと発音する。
「ウチも、無くしたくない」
「大学、卒業したら、再開店するけえ」
「うん」
「そうしたら、来て」
「うん」
「あと少しじゃけえ、待っとって」
「うん」
樹里ちゃんは、何度も何度も涙を拭って、そして椅子から立ち上がった。
私たちは、そうしなければ、立ち上がれなかったのだ。
「ありがとう、かえでちゃん」
そう答えると、樹里ちゃんはまた声を上げて泣いた。妹みたいだな、と思った。
◇
あの店を続けているのは、私たち二人の妄執でしかない。
『エスケープ』がなければあのとき、私たちは立ち上がれなかった、それは間違いない。
けれど、もしかしたらあやかママ自身は、そんなことは望んでいないのではないか。そのことが、ずっと心に引っかかってしまっているのだ。
だから訊きたかった。
幽霊でも妖精でも、……もしかしたら私の夢の中でも、こうして訊けたのは幸運でしかない。
嫌じゃない、ありがたい、とあやかママは言ってくれた。
でも、「あやかママのおらん『エスケープ』なんか、『エスケープ』じゃないわ」というのは、まさにその通りで、思うようには店を経営できていない。
再開店当初はそれでも忙しくしていたが、次第に客足は遠のいていった。私と樹里ちゃんだけでは、お客様を繋ぎとめることは難しかった。やはり『あやかママ』の存在は大きかった。
流川は甘くない。小娘二人で乗り切れるような場所ではない。
まして『かえでママ』は経験の浅いママだ。お客様をたくさん抱えているわけでもなく、お客様を引っ張れるような力もない。
それでもどうしても潰したくなくて、美代ちゃんから受け継いだ貯金を崩したりもした。昼間は帳簿を付けてはため息をついた。坊主、つまり客がゼロの日だって何度かあった。そんな日は、樹里ちゃんと二人で営業電話をしまくった。それがなければ坊主の日なんて、もっとたくさんあったに違いない。
「落ち込んどる場合じゃないわ。営業電話も、同伴も、もっと積極的にやっていこう」
「一見さんは慎重にせんといけんけど、有無を言わさずお断りするのはやめたほうがええわ」
と樹里ちゃんと私で励まし合って、ここまで繋いできた。斎藤さんのような常連さんが私たちを支えてくれて、最近ようやく軌道に乗ったようなものなのだ。
「でも……あやかママの目指した店じゃないような気がして……」
勝手に受け継いで。勝手に引っ掻き回して。遺産にまで手を付けて。
やっぱり、『エスケープ』は続けるべきではなかったのではないかと、そういう思いが拭えない。
あやかママは顎に手を当てて少し考えたあと、笑みを浮かべて答えた。
「そこは、自由にやりゃあええよ。ウチみたいにすることはないわ。絵里ちゃんの好きなように経営して、絵里ちゃんの店にするとええわ。潰しても文句は言わんけえ、自分の店を作りんさい」
「自分の店……」
「ほうよ。もう『エスケープ』は、『かえでママの店』よ。ウチが認めてあげるけえ、自信を持つんよ」
そう続けると、また手を伸ばしてきて、私の頭の上に乗せた。
「ほんま、手の掛かる娘じゃわ。いつまでもウジウジと。のんびり死ぬこともできんわ」
そう愚痴りながら、わしゃわしゃと髪を撫でまわした。
娘。書類上は確かに娘だけれど、本当は姪で。あやかママはどう見てもお母さんという人でもなくて、お母さんらしいことをされたこともない。
でも、あやかママは、ママだし。
私は娘で、あやかママはママで。それでいいんじゃないかという気がした。妹みたいな樹里ちゃんも、きっとあやかママにとっては娘みたいなものなんだろう。
あやかママはまた缶ビールに口を付ける。もう無くなってきているのだろう。缶の底は空のほうに向いていた。私も同じように自分のビールを飲み干そうとすると、横から伸びてきた手が缶を奪い取った。
「あー! 私のなのにー!」
「ケチくさいこと言いんさんな。絵里ちゃんは店でもう飲んだじゃろ。そもそも、二本以上いうて言いよるのに、なんで皆、二本しか持って来んのよ」
そんなことをブツブツ零しながら、私のビールに口を付ける。それからなにかに気付いたように、あ、と声を漏らしてこちらを振り向く。
「そういや、健太くんは四本持って来とったわ。今度来たら、サービスしときんさい」
「わかったわかった」
私は答えながら、立ち上がる。
「ビール、買って来ようか?」
「ええわ。今日はお開きにしよ」
そうサクッと断って、またチーズ鱈をつまみにビールを飲んでいる。
まあ、訊きたいことも訊けたし、面倒くさがりな人だから、「ウチのことは放っといて」とか言い出す前に、退散するが吉なのだろう。
とても……とても、名残惜しいけれど。
「また会いに来てもええ?」
「もうええわ。面倒くさい」
ひらひらと手を振りながら、心底面倒そうに口を開く。やっぱり。言うと思った。
「絵里ちゃんも、もうおらんようになった人間に会わんだって、一人でやっていけるんじゃないん?」
「人間じゃないんじゃろ」
そう指摘すると、ああ、と気が付いたようにあやかママは声を出した。
「ほうじゃわ。ウチ、妖精じゃったわ」
そう納得した様子で、缶ビール片手に、あはは、と笑う。私もつられて、笑ってしまう。
「じゃあ、また来るけえね」
「来んでもええわ。早よ帰りんさい」
しっしっ、と追い払うように手の甲を見せてこちらに振る。ひどい。
「あっ、次来るときはサラミ持ってきてや。サラミ」
思いついたように、そんなことを要望してくる。やっぱり来てもいいんじゃないか。
「はいはい。なんか適当に見繕うて持ってくるわ」
「頼むねー」
そう返すと手をひらひらと振る。
夢みたいな時間だったのに、夢じゃないような。
あやかママはやっぱりあやかママのままで。
死んでも、妖精になっても、なんにも変わらなくて、可笑しかった。
「じゃあ、またね」
「はいはい」
あやかママはビール缶に口を付けたまま、こちらのほうは見ずに手を振り続ける。
私はひとつ、小さくため息をつくと、あやかママに背を向け歩き出した。
けれどやっぱり名残惜しくて。離れがたくて。私は新天地公園の階段を下りる直前、振り返る。あやかママはまだベンチに座って、ビールを飲んでいた。
そしてその背中から。
見えた。
羽。
青いような、黒いような、大きな羽。
小さい頃図鑑で見た、カラスアゲハのような羽。
妖精の、羽。
あやかママの背中から、大きく広がっていて。
薄くて、繁華街の明かりが透き通っていて。
羽の向こうの流川のきらびやかな光を映していて。
それはとても幻想的な光景で。
なんだか胸の奥からなにかが溢れてきて、視界がぼやけてしまって、目の端を指先で拭う。
「ほんまに、『夜の蝶』になることないのにね」
まあでも、あやかママらしいかな、という気はした。
美しい羽をはためかせて、悩んでいる人を見つけては呼び出して、そして一緒にビールを飲み交わす。
この新天地公園は、あやかママの新しいお店なのだ。
また話を聞いて欲しいとき、きっと彼女は現れる。
そして、「いらっしゃいませ」と笑って迎えてくれる。
広島の繁華街の片隅で。
彼女は夜の街を彩る、『夜の蝶』になったのだ。
了




