第18話 優美 Ⅲ 流川へ 4
「まあとにかく、というわけで、祝杯を挙げよう」
そう明るい声を出すと、自分のグラスを手に持つ。私も慌ててグラスを手に取った。
「乾杯」
そう言ってグラスを差し出してくるから、私はそれに自分のグラスを当てた。ちん、という心地良い音がする。
「しかし広島の人って、マエケンの健太で通じるよなあ」
「どうですかね。今はもう難しいかも」
「もう別のチームの選手だしね」
「そうですね」
そんなことを話しているうち、課長はハッとしたように顔を上げる。
「あっ、そうだ、連絡先を交換したいんだけど」
「あ、はい。えと、コミュニケーションアプリ、入っとりますよね?」
「入ってるよ」
答えながらポケットからスマホを取り出す。そして表面をなぞってから、少し眉根を寄せた。
「どうやるんだっけ。QRコードを出すんだよね。どこだっけ」
と呟きながら、いろいろつついている様子だ。
「おじさん……」
「うるさいな」
「貸してください」
私は半ば無理矢理スマホを奪い取ると、自分のスマホも取り出して、さっさと登録してしまう。
けれど、やっぱり酔っているのかな、ちょっと強引すぎたかな、とふと思った。
私は課長のスマホを手に持ったまま訊いてみる。
「もしかして、スマホ、見られとうなかったです?」
「いや? なにもやましいことはないから」
「へえ?」
「ホント。どこ見ても大したことはないし。ゲームが入っているくらい?」
「ふうん」
私は、ささっとスマホの表面をなぞる。本当に、あまりアプリが入っていない。基本的なものばかりだ。天気予報、スポーツ速報、カメラ、コミュニケーションアプリ、スケジュール。
私はふと思いついて、気付かれないようにと思いながら手早く画面を操作した。
「はい」
それから課長にスマホを差し出す。
「登録できとるでしょう? それ、私です」
コミュニケーションアプリを開いて、新しく登録されたアイコンを指差す。
「わかった、ありがとう。テストね」
そう言って、なにやら操作している。すると私のスマホがピロン、と鳴った。
見てみれば、「よろしく!」と踊っている猫のスタンプが届いていた。イメージと少し違って、私は小さく笑いながらそれに返す。
今度は課長のスマホがピロン、と鳴った。画面を見て口の端を上げると、課長は「うん」と頷く。
送ったのは、「よろしくお願いします」とお辞儀しているうさぎのスタンプだった。
「あまり、しつこくしないようにはするよ」
そう付け加えながら、スマホをポケットにしまい込む。
どうやら気付かなかったらしい、と私は心の中でほっと胸を撫で下ろす。
スケジュールアプリに私の誕生日を登録したことに、課長が気付くのはいつのことだろうか、と思うと少し、おかしかった。
「あら、気付かずに、ごめんなさいね。無うなっとったね」
すると、そんなふうに謝りながら、かえでママがこちらに歩いてきて、私たちの水割りを作り始める。本当だ、二人とも、もう水割りが無くなりかけていた。
これ、タイミング的に、もしかしたら私たちの話を聞いていて、あえて私たちの前には立たなかったということだろうか。邪魔はしませんよ、みたいな。それは、ありがたいような、恥ずかしいような。
「ほんま、やれんのー」
カウンターの端っこのあたりから、突如そんな大声が聞こえて、かえでママと私たちはそちらに視線を移す。
「帰りとうないわ、ワシャあ仲裁しとうないで」
そんなことを吐き棄てて、斎藤さんという人ががっくりと肩を落としている。
「どうしちゃったんです?」
かえでママが声を張って、そちらにそう問い掛ける。
「息子さんが家出してきとるんだって。結婚したばかりなのに」
樹里ちゃんが斎藤さんを指差して、笑いながらそう返してきた。
「なんでまた」
「息子さんの奥さんがね、総菜とか一切買わんのんだって」
「なんかの、出来合いのものは良うないとか言うて」
「あら、いい奥さんじゃないですか」
なぜか店内の人が、うんうん、と皆頷いている。しかし斎藤さんは、右手をひらひらと振った。
「ほいじゃが、たまにはラーメンとか唐揚げとかハンバーガーとか食べとうなるじゃろ? ほいで買って帰ったら、捨てられたんと」
「あらまあ」
ああー、とこれまた皆が頷いている。
気が付いたら店内にいる人たちが皆、斎藤さんの話に耳を傾けている様子だった。
「ほいで喧嘩よ。それで家出してきとるんじゃが、嫁さんが来るけえワシに帰ってこい言うて、今、連絡があったんじゃ」
斎藤さんは、スマホの画面を前に差し出しながら、そう言った。
声が大きいので、ついつい私も聞いてしまっていた。これはもしかしたら、課長と私の話も全員が聞いていたのかな、と思いつく。少し頭を抱えたくなった。
樹里ちゃんが小首を傾げて斎藤さんに問う。
「ほいじゃあ、帰るん?」
「嫌じゃ! ワシャあ帰らん!」
斎藤さんは、どん、と両手でカウンターの上を叩いた。
「帰らんでもええん?」
「正直、ワシはあの嫁さんが苦手なんじゃ……。なんでも、それは正しい、正しくない、言うてのう。酒なんか許してくれんで。こないだも電話で『もう止めちゃったらどうです?』とか言われてのう」
「なるほど。それはウチも苦手かもー」
樹里ちゃんは大きく何度も頷き、かえでママは苦笑している。
確かに、健康を考えたら止めるべきかもしれなくて、そのお嫁さんという人は心から心配して忠告してくれているのかもしれない。けれど斎藤さんにとっては窮屈なのだろう。
斎藤さんは、腕を組んで不動の姿勢だ。
「帰るほうが正しゅうても、ワシは帰らんで」
「ええよ、ええよ。おりんさい」
きゃはは、と笑いながら、樹里ちゃんが賛同する。
他人事ながら少し不安になってしまう。あとで面倒なことになるんじゃないだろうか。
すると斎藤さんが口を開いた。
「正しさは、時に刃になるけえの」
「斎藤さん、哲学的ぃ」
樹里ちゃんが、おおー、と声を出しながら拍手して、大げさに感心している。斎藤さんは、それに口の端を上げた。
「かえでママは詩的、て言いよったで」
「哲学的でもええですよ」
話を振られたかえでママは小さく笑った。
「ほうよー、最近はなんでもいけん、言うてからー。ウチなんか肩身狭いわ」
肩をすくめながら、樹里ちゃんが愚痴を零し始める。
「血液型の話もご法度じゃし、出身地とかも訊かんほうがええって。これ言うちゃいけん、あれ言うちゃいけん、って考えながら店に出るの、たいぎいわー」
「ええで、この店くらい、緩うやろうや」
斎藤さんがそんなことを提案して、そうだそうだー、と樹里ちゃんが上げた腕を振って同意している。
そのあたりから他のお客さんも、「そういえば、『髪、切った?』って言ったらセクハラなんだと」とか喋りだした。
「まあでも、それで嫌な気分になる方もおってじゃけえねえ」
眉尻を下げて、かえでママがやんわりと窘める。
「かえでママは真面目じゃけえなー」
呆れたように、樹里ちゃんがそう返した。
「でも、かえでママは真面目じゃないと、かえでママじゃないっていうかー」
その言葉に、うんうん、と斎藤さんが頷いている。
確かに樹里ちゃんに比べると、かえでママは真面目な感じがする。やっぱりママだから羽目を外せないのかもしれない。
そして樹里ちゃんは続けた。
「この店は、あやかママの店じゃけど、もう、かえでママの店じゃしねえ」
その発言に、弾かれたように私は顔を上げる。隣で課長もなぜか反応していた。
そんな私たちの動きには気付かない様子で、彼女らの会話は続いている。
「樹里ちゃんは好きにやったらええよ。樹里ちゃんは、そのままのがええわ」
「かえでママ、やっさしー! 大好き!」
そしてかえでママは困ったように笑っていた。
……今、あやかママ、と言ったのだろうか。訊きたいけれど、人の話に口を挟むのもなんだし、名前が同じ別人かもしれないし、わざわざ訊くのも変かな、と考える。
そのとき、カラン、とまたドアベルが鳴り、私はそちらを振り向いた。
なかなか繁盛している様子だ。そろそろカウンターも埋まってきた。残念だけれどお開きの時間が近づいているのかな、とこっそりため息をつく。
今、少し、楽しいのに。もう少しだけ、一緒にいたいのに。
「いらっしゃいませー」
「あれ?」
男の人が二人連れで、扉のところに立っている。そしてなぜか首を傾げていた。
「ええと、なんか雰囲気違う?」
「え?」
かえでママと樹里ちゃんが、顔を見合わせている。
そして男の人のうちの一人が、かえでママに問い掛ける。
「ママはまだ?」
「今は私がママをやらせてもろうとります」
かえでママはなにやら納得したようで、そう答えて頭を下げた。
「そうかあ」
男の人たちは、なにやらぼそぼそと話し合っている。かえでママが、扉のほうに向かって歩いて行く。
「どうなさいます? ほいでもボトルを入れとっちゃっても、前のママのときのボトルじゃったら流しとると思いますよ」
「まあ三年か四年くらい前じゃけえ、そうじゃろうね」
納得した様子で、その男の人たちは頷いた。
「今日は店のボトルで飲まれます?」
「ほうじゃね、そうしてもらえる?」
「ではどうぞ」
そう言って、かえでママは二人を中に促した。
今までの話を総合するに、あやかママとはかえでママの前のママ、ということなのだろうか。私が会ったあやかママと同一人物なのだろうか。そうだとしたら、今はあやかママはどこにいるのだろうか。違う店にいるのなら、新天地公園で訊いたとき、そっちの店を教えてくれればそっちに行ったのに。まあ、この店も居心地がよくて、それはそれでいいのだけれど。
私の疑問は、新しく入って椅子に座った男の人たちが口にした。
「前のママ、どうしたん? 系列でも出したん? それとも辞めたん? オーナーママじゃったように覚えとるんじゃけど」
「もうおらんのですよ」
「え?」
かえでママは、上を指差してにっこりと笑った。男の人たちは顔を見合わせる。
「え、四階?」
「違う違う」
かえでママは、ひらひらと手を振って苦笑する。
「お星さまになったんですよ」
店内がしん、となる。
斎藤さんと樹里ちゃんは知っていたのか、黙って飲み物に口を付けていた。
お星さまになった、つまり、亡くなった? あやかママが?
呆然としている私を他所に、かえでママと男の人たちの会話は続く。
「ああ、ほうねえ……」
「ほいで娘の私が引き継いどります」
「娘さん? こんなに大きい子どもがおったんか!」
「ほうですよー」
「そうは見えんかったけどなー」
いや、仮に前のママが、あのあやかママと同一人物だったとしても、あやかママが亡くなったとは限らない。今の話では、亡くなったのはあやかママだとは確定していない。
前のママがオーナーママだったというなら、今はあやかママがオーナーで経営だけに携わっているだけかもしれない。ママが二人いる店は、ないこともないのだ。それで、かえでママの前のママは、かえでママのお母さんで。その方が亡くなったのかもしれない。
ちょっと強引かもしれないが、考えられなくもない。
だって、あの新天地公園で会ったあやかママは、そんな……幽霊には見えなかった。私のこの肩を叩いて笑っていたあの人は、そんな存在には思えなかった。
幽霊なんかじゃない。だとしたら、なんと表現するのか。
……妖精。
私がそんなことを考えている間に、男の人たちはなにやら話し合っている。
「えーと、なんじゃったかの。たぶん名刺が……」
「なんでそんな昔の名刺を持っているんですか。名刺入れ、パンパンじゃないですか、整理したほうがいいですよ」
「面倒でのう」
そんなことを口にしながら、取り出した名刺を繰っている。
そして一枚の名刺を抜き出した。ピンク色の名刺。
「あったあった。ほうじゃほうじゃ、あやかじゃ。あやかママじゃ」
私はその名前に、思わずそちらに目を向けた。隣の課長も驚いたようにそちらを見ている。
「亡くなったんか。明るうて、ええ人じゃったけどのう」
かえでママは、その会話を聞きながら、悲し気に眉尻を下げつつ、微笑んでいた。




