第17話 優美 Ⅲ 流川へ 3
そっと店のドアを開けると、ドアベルがカランと大きな音を鳴らした。
今日はカウンター内にいたのはかえでママだった。ドアベルに反応して、こちらに顔を向けながら声を出す。
「いらっしゃいませー」
「二人、いいですか?」
「あら! ゆみちゃん、また来てくれたんじゃね」
にこにこと微笑みながら、そう口を開く。覚えてくれていたことにホッとしながら、中に足を踏み入れた。
「覚えとっちゃったんですか」
「女の子は珍しいけえね」
そう答えながら、おしぼりを二つ、保温器の中から取り出している。
「どこでもお好きな席にどうぞ」
店の中には、かえでママしかいなかった。樹里ちゃんも、お客さんもいない。
「えっと、じゃあ、課長……」
席をどこにするか、課長に委ねてみる。すると店の中に歩き出して、そして真ん中より少し奥寄りの席に手を掛けた。
「この辺でいい?」
「あっ、はい」
課長が手を掛けた椅子の右隣に、私も手を掛け、引いて座る。
かえでママは広げたおしぼりを課長の前に差し出して待っていた。課長が受け取ると、今度は私の前に差し出す。
「今日はどうします?」
「ボトル入れに来たんです」
笑いながらそう答えると、かえでママはうふふ、と笑った。
「覚えてくれとっちゃって嬉しいわあ」
そう弾んだ声を出して、棚のほうに目を向ける。
「どれにします?」
「えっと……」
そのときドアベルが鳴り、元気な声が響いた。
「おはよーございまーす!」
樹里ちゃんだった。その後ろには、以前はかえでママと同伴していた男の人がいる。
もしかして、これはあのとき約束していた、「回らない寿司に今度連れて行って」が叶ったということか。
「いらっしゃいませ、斎藤さん。樹里ちゃん、おはよう」
穏やかな声で、かえでママが返している。
斎藤さんという男の人は前のときと同じように、奥の席に座った。どうやら常連さんで、そこが彼の指定席ということだろう。それに合わせてかえでママもそちらに動いた。
そしてカウンター内に入ってきた樹里ちゃんは、肩からバッグを下ろしながら、私のほうに目を向ける。
「いらっしゃいませー、あー、えーと」
樹里ちゃんは私のほうを見て、しばらく唸ってから、ぽんと手を叩いた。
「ゆみちゃんだー、いらっしゃいませー」
そう挨拶して、笑いながら頭を下げる。
すごい。かえでママが私を覚えていたのも驚いたのに、私にほとんどつかなかった樹里ちゃんまで覚えている。
「よく覚えとってですね」
「ウチ、人の顔と名前覚えるの、得意なんじゃー」
誇らしげにそう言いながら、奥の小部屋に入って行き、そしてすぐに出てきた。
それを見てかえでママが私たちの前に戻ってくる。見れば斎藤さんの前にはきちんと水割りがセットされていた。
「決まりました?」
「あっ、えーと」
ぼうっとしていて、なんのボトルを入れるのか決めていなかった。
なんにしよう。こういったところでは、値段表が出ていないことが多い。訊けば答えてくれるはずだが、それはなんとなく気まずい。私の財布に優しそうなのは、ハーパーか、ローゼズか、と悩んでいると。
今まで黙っていた隣の課長が、ふいに口を開いた。
「ボトル、俺が入れます」
「えっ」
驚いてそちらに顔を向ける。かえでママは、さも当然だ、と言わんばかりに課長に向かって訊いた。
「なんにします?」
「ヘネシーで」
棚に並んだボトルを見て課長がそう答えた途端、かえでママは声を張った。
「ヘネシー一本、ありがとうございまーす!」
「ありがとうございまーす!」
それに応えるように、樹里ちゃんも声を張る。
私はあたふたしながら、課長に話し掛けた。
「課長、いいんですか?」
「うん」
「……高くないです?」
かえでママがボトルを準備するために背中を向けた瞬間、こっそりと耳打ちしてみる。ヘネシーなら、二万くらいするんじゃないだろうか。
「ガブガブ飲むならそりゃあ痛いけど」
「私はそんなには」
「飲んでもいいけどね」
そう口にして、課長は頬杖をついて、こちらをじっと見つめてきた。
「え、あの……」
どう反応していいのかわからなくて、私は思わず目を逸らす。
そこにかえでママがやってきて、新しいヘネシーのボトルを目の前に置いた。
「お二人とも、水割りで?」
「あ、はい、私は」
「俺も」
私たちの返事にかえでママは軽く頷き、水割りを作り出す。
それで課長の視線も逸れて、私はこっそりと、ほっと息を吐いた。
二つの水割りがそれぞれのコースターの上に置かれてから、かえでママは課長の前に、両手で名刺を差し出した。
「ご挨拶させてください。ママのかえでです。よろしくお願いします」
課長は少し驚いたように顔を上げて、かえでママの顔を見てから。そして名刺を恐る恐るといった体で受け取っていた。
「……ママ? ええと、ママはかえでさん……?」
名刺に書かれた名前と、かえでママを見比べながら、課長がそんなことを確認している。
なんなんだろう、この反応。まるで、私が初めてこの店に来たときのような、そんな疑問を持っているように見える。まさか。
「ほうですよー。嫌じゃ、ママに見えんですか?」
にこにこしながら、かえでママが返している。
「あ、いえ……」
少し考えるような素振りを見せてから、課長も笑顔になって答えた。
「ママにしてはお若いな、と思いまして」
「あら、お上手」
言われたかえでママは、口元を手で押さえて、ふふ、と笑う。
「ほいじゃあ、私もお名刺いただいても?」
「ああ、はい」
課長は内ポケットに手を入れ、名刺入れを取り出している。中から一枚抜き出すと、それをかえでママに差し出した。
「木佐貫です。よろしく」
課長の名刺を受け取ったかえでママは、あら、と声を上げた。
「課長さん? お若いのに」
「小さい会社ですから」
そんなことを二人でやり取りしている。そして課長は、手のひらでカウンターの上を指した。
「かえでママも、なにか」
「ええですか? じゃあおビールいただきます」
「どうぞ」
冷蔵庫から瓶ビールを取り出して栓を抜くと、かえでママはトン、と課長の前に置いた。流れるように課長はそれを手に取り、かえでママが傾けているグラスに注いでいる。
「では、いただきます」
そう言ってかえでママは課長とグラスを合わせ、そしてこちらにも差し出してきた。私は慌てて自分のグラスを持つと、かえでママと乾杯をする。
かえでママは、くいっとビールを一口飲むと、「美味しい」と口元に弧を描いた。
そこでまた、カラン、とドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませー」
かえでママと樹里ちゃんが同時に動き、新しいお客さんを迎え入れる。
なので私たちの前からかえでママはいなくなった。
「……課長、慣れとりますね」
「うん?」
課長は水割りを飲みながら、首を傾げる。
「私、こういうところって、どうにもあたふたしてしもうて」
苦笑しながらそう話すと、課長は小さく笑った。
「俺がどれだけ部長の愚痴に付き合わされてると思ってる」
「いっつも飲み行くぞ、って言われてますもんね」
「そう。愚痴三昧だよ。今の若いのはー、とか、ワシの若い頃はー、とか」
簡単に想像がつく。あはは、と声を出して笑った。
「でも、昔ワルだった、っていうのは本当かもしれない、と今日思った」
口の端を上げて、課長がそう語った。
今日の部長の怒鳴り声。確かに迫力があった。まさか昔はヤンキーとかだったんだろうか。今はただの中年太りのおじさんにしか見えないのだけれど。
そして部長が今日、そこまで怒った理由はなんだったのだろう。
「あの」
「なに?」
「部長、なにを怒っとっちゃったんですか」
「ああ、あれ? あれは、仕事中の私語は慎め、とかそういう話」
少しの間、次の言葉を待っていたけれど、課長はそれだけしか口にしなかった。
たぶん、私のことだろう。フロアの外で聞いた話の流れ的にも、そうとしか思えない。
「部長に……お礼を言うといてください」
「言わなくていいよ。部長も俺も、結局はなんにもできていないから」
私はそれになんと返せばいいのかわからなくて、自分の水割りを、ぐいっと飲むしかできなかった。
「そうじゃー、これこれ」
樹里ちゃんがふいに声を上げて、後ろの棚の引き出しから、なにやら取り出した。
「忘れとった。書いといてください」
言いながら、なにかをカウンターの上に置いて滑らせる。なにかと思って見てみたら、ボトルの首に掛けるネームタグだった。ペンも一緒にカウンターの上に置かれる。
私は、ボトルは課長が入れたのだから自身で書くべきだろう、と課長のほうにそれらを滑らせる。けれど彼はタグの上に手を置いて、こちらに返してきた。
「悪いけど、元木さん、適当に書いておいてよ」
「えっ、私ですか」
「元木さんのほうが字が綺麗だし」
「じゃあ……」
確かに課長に比べたら、私のほうが字は綺麗かもしれない。私はペンを手に取る。
「木佐貫、でええですか」
「わかればなんでもええんよー」
樹里ちゃんが、そう口を挟んでくる。
「番号も振るけど、パッと見て、わかりやすいほうがええかなー」
「わかりやすい……」
私はそうおうむ返しにする。彼女たちにとってわかりやすいのは、どういう書き方なんだろう。
「木佐貫さんは他にもおるけえ、下のお名前のほうがええかな」
樹里ちゃんが棚のボトルを見つめながら、そんなことを言う。彼女の視線の先を追うと、本当だ。木佐貫、と書かれたタグがあった。しかもヘネシーだ。
樹里ちゃんはこちらを振り向くと、タグを指差して口を開いた。
「ゆみちゃんも飲むんじゃろ? じゃったら、ゆみちゃんのお名前も書いといて欲しいな。わかりやすいけえ」
「じゃあ、優美、って書いておいて」
急に名前を言われて、ドクンと心臓が跳ねた。いや、深い意味などなにもない、話の流れで名前が出てきただけ、というのはわかるのだけれど。
いけない。頬が熱くなってきた。いや、お酒のせいだ、これは。そうに違いない。
「でも、課長のボトルだし……」
そうぼそぼそと言い訳している間に、樹里ちゃんは自分の名刺を課長の前に差し出していた。
「樹里です、よろしくお願いしますー」
「あ、木佐貫です、よろしく」
そう自己紹介し合って、二人は名刺交換をしている。
「美しい夜の蝶は、おビールが大好物なんだー」
笑いながら、樹里ちゃんがそんなことを言っている。
「ああ、どうぞ」
「やったあ」
苦笑しながら課長が返した言葉に、樹里ちゃんは手を合わせて喜んでいる。そしていそいそと冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、課長の前に置いた。
そしてグラスにビールを注がれると、「かんぱーい!」と明るい声でグラスを差し出し、課長と、そして私のグラスに当ててから、一気に飲み干した。
私たちは二人で目を丸くする。
「おいしー!」
「強いねえ」
「ほんと」
あっという間に空いたグラスに、課長はまたビールを注いでいる。
「ええと、こっちがかえでママのでー、こっちがウチのじゃけえね」
私たちの前に二本並んだ瓶ビールを指差しながら、樹里ちゃんが確認する。そして二杯目もぐいっと一気に飲んでみせた。本当に、強い。
「あとで飲むけえね。とっといてよー」
と声を掛けてきたあと、別のお客さんの前に去っていく。明るくてハキハキしていて、かえでママとはまた違うタイプの子だなあ、と思う。
「本当に、夜の蝶って言ってたね」
課長がこちらを見て苦笑する。
「あ、前のときも、あんな感じで言うとりました」
「なるほどね。決まり文句なのかな」
そう返して、くつくつと笑っている。
それから、私の手元を指差した。
「書かないの?」
「あ、すみません」
なんと書けばいいのか迷ってしまって、手が止まったままだった。
「でも、課長のボトルなのに、私の名前を書くのは」
「これからも一緒に飲もうと思って、ボトルを入れたんだけど」
「あ、あの……」
「まあいいよ。俺と一緒じゃないときでも、自由に飲んで」
「でもそれじゃあ」
「ま、とにかく、二人の名前、書いておいてよ。元木さんが嫌だと言うなら、それは俺がそのうち一人で消費するから」
私はその言葉に、少し考えたのち、ペンを置いた。やっぱりちゃんと訊いておかなくちゃ、という気になったのだ。
曖昧なままでは、進んではいけない。どちら側に進むにしても。
「あの……私、その……今まで全然気付かんかったんですけど」
「うん、だろうね。自覚したのはごく最近だから」
「え……」
私はその返答に、課長のほうを振り向いた。彼は軽く肩をすくめる。
「気付いた途端に、会社辞めるって言うから、これはとにかく繋がっておきたいと思って誘った」
そう言って、またこちらをまっすぐに見つめてくる。
ごく最近。ということは。
「……それは、私のあの話を聞いてからということですか」
「うん」
間髪を入れずにそう返してきた。
私はカウンターの上で手を組んで、ぎゅっと握る。握る力が強すぎて、私の手は白くなる。
「わ、私が簡単に騙されるような女だからですか」
確かにその通りかもしれない。簡単に騙されて、そして騙されたと気付いても、気付かないふりをした。愚かで、酷い女なのだろう。
「だから、簡単に落ちるって思っちゃったんですか」
けれどそれは、いくらなんでも侮辱ではないのか。
すうっと頭の上から血が引いていくような感覚がする。
ほんの少しだけれど、誘われて嬉しかった。本当は、私は浮かれていたのだ。その気持ちをどこにやればいいのかわからなくて、途方に暮れる。
「他の男に取られたのが我慢ならなかった」
ふいに、そう言葉が降ってきた。
私はゆっくりと顔を上げ、課長を見つめる。彼はどこまでも真剣な表情をしていて、これはからかおうとしているのではない、とわかった。
「それで自覚した。俺のことが嫌なら、このボトルはあげるよ。一緒に飲まないのなら、俺にとっては意味がない。辞めるんだ、もう会うこともない。気にすることはない」
そうして、ネームタグを指差した。
「だから、それなら自分の名前だけ書けばいいよ。大丈夫、俺は悲しいかな、振られ慣れているんだ」
そうおどけると、笑う。
「それは……ずるいです」
「そう?」
私はペンを再び手に取る。
「……名前、なんでしたっけ」
「……健太」
「漢字は」
「マエケンの、健太」
私はネームタグに、健太、と書き込む。そしてひとつ点を打つと、その隣に、優美、と書いた。そしてそのタグをボトルに掛ける。
私は目を逸らしたまま、口を開く。
「別に、これでどうこういう話じゃあないんですよ」
「うん」
「ただ、また飲みに来てもええかってだけなんですよ」
「うん」
「ヘネシーは高いし。もったいないなと思うて」
「うん、それでいいよ」
課長はそれからひとつ、安心したように大きく息を吐いた。
私はおずおずと顔を上げる。そして、ちら、と課長の顔を見てみた。
「よかった」
そう言って、心底ほっとしたように笑うから、また、私の心臓が跳ねる。
けれど笑顔から一転、これ見よがしに、がっくりとうなだれた。
「というか、俺の名前、知らなかったんだ……」
「いや、なんとなくは」
「なんとなくか……」
「だって、課長、としか呼びませんもん。書類とかでたまに見かけるくらいで」
「眼中になさすぎじゃない?」
「課長だって私のこと、あの話までは意識しとらんかったんですよね?」
「でも名前は知ってた。優美、って漢字で書けるし」
そう喋りながら空中を指差して優美、と書いていく。少し得意げだった。なんだかそれが、こそばゆい。
「なんの意地ですか」
「なんだろうね」
そうして、にやりと口の端を上げる。
「とりあえず、今日の目的は達成したよ」
「はあ……」
「これからも、よろしく」
そう声を掛けてきて、課長は目を細めた。




