第16話 優美 Ⅲ 流川へ 2
私がジョッキの半分まで飲んだところで、課長はすべて飲み干して、店員さんを呼んでいた。
スーツの前は開けてネクタイも少し緩めている。お酒が少し入って、くつろいできた様子だ。
課長は私のジョッキを指差しながら、訊いた。
「遠慮してる?」
「しとりませんよ」
「ならいいけど」
ほどなく二杯目のビールが運ばれてきて、課長はそれに口をつける。
特に会社の話題をすることもない。けれど話題が尽きるようなこともなくて。私は今まで、課長がこんなふうに話がしやすい人だったとは知らなかった。
「課長は、大学から広島だって言うちゃったですよね」
「うん」
その頃には、お互い、かなり口の滑りがよくなっていたように思う。
「なんで地元に帰らんかったんです?」
「ああ、それは、怒らないで聞いてくれよ」
「怒るようなことなんですか」
「まあ、『広島焼き』に怒ってたし」
そう返してきて笑う。やっぱり少し、意地悪な人だ。私が唇を尖らせると、またくつくつと笑う。
そして、ぽつりと話し出した。
「そうだな、……友だちとか……恩師とかがこっちにできたから、というのもあるんだけど」
少し言い淀んだのは、『友だちとか』に、彼女、が入っているからではないかな、という気がした。別に隠さなくったっていいのに、と思う。
課長は続ける。
「俺はね、広島のコンパクトなところが気に入っているんだ」
「コンパクト……」
「うん。なんというかね、大都会でもなく田舎でもない、そういう中途半端さが好きなんだよね」
「はあ……」
中途半端。確かにそれは、人によっては怒る評価なのかもしれない。けれど私も、広島のそういう中途半端さが好きだというのはわかる。
「コンパクトだから、なんでもあるんだ。こういう繁華街やオフィス街や商店街がぎゅっと詰まっていて、歩いて行きたいところにいける。店が少ないわけじゃなくて全国的に有名な店舗もきちんと揃ってる」
私は課長の話に、うんうん、と頷いて同意する。それに安心したように課長はさらに続けた。
「ちょっと郊外に行けば大型店が並んでいる。車で行けるところにスキー場もあってゴルフ場もあって海水浴場もあって観光地もあって、全部日帰りで行ける」
「なるほど」
「あと、プロスポーツがたくさんあるのがいいよね」
「ああ」
「学生時代は友だちの車でいろんなところに行ったよ」
そう言って足を崩して、少し過去を懐かしむような、そんな目をしていた。
学生時代。車。となると。
「『西は山賊、東は伴天連』?」
「そうそう。車の免許を取ったら、まずはそこに行くのがお決まりなんだってね」
伴天連はお化け屋敷のような喫茶店で、山賊は大きな食事処だ。山賊は山口県なのだが、広島から近い場所にある。私もどちらも行った。……当時の彼氏に連れられて、だけど。
「彼女と、行っちゃったんですか」
思わず、するりと口からそんな質問が滑り出た。
少し驚いたように、課長がこちらを振り向く。それから小さく笑った。
「うん、まあ。行ったこともあるよ」
「その人とは……」
「もうずいぶん前に別れてるけど」
「どうして」
「聞くねえ」
そう返して片方の口の端を上げる。酔いが回ってきてしまったのだろうか。確かに突っ込みすぎだ。
警戒、してしまっているのだろうか。私が最近付き合っていた人には、妻がいたから。最初は気付かなかったから。
「まあ、口説こうって男が彼女持ちかどうかは気になるよね」
軽く、課長はそう口にした。本当に軽い口調だった。だから少し、ほっとする。
というか、口説くというのは本気なのだろうか。やっぱりからかわれているのだろうか。私がいちいち、考えすぎなんだろうか。
私がぐちゃぐちゃと考えている間に、課長はさらりと話し始める。
「大学卒業間近に付き合い始めて、五年くらい一緒にいたけど振られてね」
「振られちゃったんですか」
ここまで聞いてしまったのだから、もういいか、という気分になってさらに突っ込んでみる。
すると課長はビールをまた一口飲むと、頬杖をついた。
「その、ちゃった、っていうのも最初は戸惑ったなあ」
「ああ……すみません」
この場合、ちゃった、というのはしてしまった、という意味ではない。敬語のつもりなんだけれど、確かにわかりにくいかもしれない。
「いや、今はもうわかるよ」
課長はひらひらと手を振る。
「振られたのは、きっかけは、誕生日を忘れていたからなんだけど」
「ああ」
「それまでもいろいろ、しでかしていたんだろうとは思うよ」
「へえ……」
「元木さんなら、どうする?」
「えっ」
急にこちらに話を振られて、驚いてそんな声が出た。
「どうする? 二年も連続で誕生日を忘れられていたら」
課長はこちらをじっと見て、私の答えを待っている。課長も酔っているのかな、という気がしたが、あまり顔に出ないのかよくわからない。
私はその質問に、うーん、と考える。
「五年、付き合っとったんですよね」
「うん」
「じゃったら、三年目の頃には、一ヶ月くらい前から催促しとると思います」
私がそう答えると、課長はしばし動きを止め。そして、噴き出した。
「あー、そうなんだ。元木さんはそうかあ。一ヶ月ね」
「あの?」
「ごめんごめん、催促されるほうがいいなあ、と思って。そうか、一ヶ月か」
そう言いながら、肩を震わせて笑っている。そんなにツボに入るようなことを言っただろうか。とてもそうは思えないのだけれど。一ヶ月がどうしてそんなに面白いのか。
やっぱり課長も酔っているに違いない。ジョッキは空になりかけている。
「飲み物、どうします?」
「あー、じゃあ日本酒にしようかな。元木さんは?」
私のジョッキも空になっていた。
「私、チューハイにします」
「じゃあ頼もう。食べ物のほうは?」
「そうですねえ。唐揚げとか串とかいっときます?」
「そうだね」
「あっ、ホルモンの天ぷら忘れとりました」
「やっぱりまたご当地メニューだ」
そんなふうに盛り上がりながら追加注文をして、また二人で笑い合う。そうして楽しいまま、時間は過ぎていった。
楽しいお酒なんて、久しぶりだな、と思った。
◇
「私、ちょっと」
そう断って、バッグを持って席を立つ。
「ああ、うん」
課長は返事しながら、日本酒をちびちびと飲んでいた。
私は個室を出てお手洗いに向かう。うん、フラフラしているようなことはない。あんまり楽しいから、酔いがかなり回っているのかなと心配していた割に、足取りはしっかりしているように思う。いや、足取りを気にするなんて時点で、けっこう酔っているのかもしれない。しっかりしないと。
お手洗いに入って用を足してから、手を洗って鏡に向かった。
自分の頬に手を当てて覗き込む。化粧、崩れているかな。口紅は剥げてきているから、塗り直さなくちゃ。
私はバッグの中から化粧ポーチを取り出す。ポーチの口を開けて口紅を一度手に取ったけれど、すぐに手放した。その前にファンデも塗り直そうかな。それならアイラインも手を入れないと。
とポーチの中をごそごそと探っているうち、あれ? と思う。
私、ちょっと気合を入れすぎじゃない? なんだか少し、意識しすぎじゃない? そういうの、変じゃない? うん、今日は単に送別会なんだし。必死すぎる、なんて思われたら恥ずかしい。自意識過剰なんだ、きっと。だって本当に口説こうとしているのかも、なんだか怪しいし。
それにもし、本気で口説かれたとしても、まだ……誰かとどうこうなるっていうのが、少し、怖い気もする。
さんざん考えた挙句、私は口紅だけ引き直して、お手洗いを出た。
◇
個室に戻ると、課長はすぐさま腰を浮かせた。
「二次会、行きたい店があるんだよね?」
「え、あ、はい」
「じゃあそろそろ行こうか。もう二時間過ぎたし」
もうそんなに経ったのか、と少し驚く。個室だからよくわからなかったが、それなりに賑やかになってきているから、お客さんも入っているのかもしれない。それならもう退店の頃合いだろう。
私は課長について出口のほうに向かう。その間、バッグから財布を取り出した。奢りのつもりかもしれないけれど割り勘にしなくちゃ、と思ってあとをついていくと。
課長はレジの前を通り過ぎた。
「えっ」
「払っておいたから」
「ええっ」
レジの近くにいた店員さんが、「ありがとうございましたー」とにこやかに私たちを見送る。支払いを済ませたことは間違いないらしい。
私は慌てて店を出て行く課長の背中を追う。追いついた私は、横に並んで焦りつつ声を掛けた。
「あの、半分払います」
「いいよ、送別会だし」
「でも」
「ちゃんと下心はあるから、いいよ」
そう返してきて笑う。それで私はなにも言えなくなった。
どこまで本気なのだろうか。わからない。
「あの、ごちそうさまでした」
頭を下げながらそう礼を述べると、課長は左手を軽く上げた。その手をそのまま動かして、ゆったりと前を指差す。
「行きたい店って、新天地公園の近くなんだよね?」
「あ、はい。真ん前のビルで」
「ふうん」
それで会話は終わって、なんとなく気まずくなった。
下心はある、ってそれをそのまま受け取ったら、つまり私はその誘いに乗っているということなんだろうか。いやでも、これは送別会だということだし、そこは甘えてもいいんじゃないだろうか。だったら、二次会は私の行きたい店なのだし、次はちゃんと払わなくちゃ、と思う。
課長の下心に付き合う気がないのなら、そうするべきだ。
けれど、付き合う気、ないのだろうか。自分の心のことなのに、よくわからない。
だって正直なところ、この送別会に誘われるまで、まったくそんな気はなかった。男性として意識したことも、なかった。こんなに急速に湧き上がってきた話に、どう対応すればいいのかもわかっていない、というのが現状だ。
もし本当に課長に下心があるというのなら、それはいつから?
そう考えているうち、ひとつ、思いついた。
……まさか、私の不倫話から……?
その可能性に気付いて、ぞっとする。まさか、他の男に簡単に騙された女だから、簡単にヤれるって思われた? それならちょっと、つまみ食いしてしまおう、って? 誘ってみたら、二人きりの飲み会に簡単に乗ってきたって思われてる?
「あー!」
ふいにこちらに掛けられた声に思考を中断させられて、顔を上げる。
「木佐貫さーん。おはよーございまーす」
夜だというのにおはようと挨拶しながら、真っ赤なスーツの派手めなお姉さんがこちらに手をひらひらと振った。
「ああ、紗耶香ちゃん。今から出勤?」
紗耶香ちゃん? 私は思わず、課長の横顔を見上げて固まってしまった。
課長はそのお姉さんににこやかに対応している。お姉さんは、どこからどう見てもホステスさん、という人だった。
お姉さんはにこにことしながら、課長に話しかけてくる。
「うん、そう。どしたん、可愛い子連れてからー」
「ちょっとね」
可愛い子、は状況を考えれば私のことなのだろうが、とりあえず女連れには皆にそう言っているという感じがひしひしとした。
「うち、来るん?」
「今日はちょっと。また今度」
「なんじゃあ。ほいじゃあまた今度ね。待っとるけえね」
そう残念そうに話すと、また手を振りながら立ち去っていく。課長も軽く手を振り返していた。
……なんだか、ずいぶん気安い間柄、という感じがする。
「……『夜の蝶』のお知り合い、多いいんですか」
「えっ? 多くはないよ。紗耶香ちゃんは部長がよく行く店の子」
私の問い掛けに焦ったように課長が返す。まるで弁解を聞いているみたいだ。
「へえ」
紗耶香ちゃん、か。親し気に。私に下心があるって言ったくせに。なんだかむかむかする。
いや、むかむかするのはお門違いというものか。課長と私は付き合っているわけでもなんでもないのだし。
「いや、本当に。単なる店の子だから」
さらに重ねられた弁解に、私はこう返した。
「別に疑っとりませんし、仮に疑われても困らんでしょう」
どうして私の声には棘が含まれているのだろう。もっと穏やかに返したいのに。
すると課長は口元に拳をやって、密やかに口を開いた。
「……妬いてる?」
バッと顔を見ると口元が隠れてはいるが、少し、にやついている感じがした。ムカつく。
「妬いとりませんっ。冗談言わんといてくださいっ」
「そんな全力で否定しなくても……」
「妬いとりませんからっ」
「それは残念」
本当に残念に思っているのかどうかはわからないけれど、課長は大仰に肩を落としてみせた。
それから、二人して気を取り直して歩き出す。いろいろごちゃごちゃと考えていたはずなのに、今のやり取りで全部吹っ飛んでしまったような気がする。
まあいい。いろんなことはきっと、なるようになる。と、酔った頭で考える。
課長は気にしているのかいないのか、妬いているかどうかにはそれ以上、特に言及することはなかった。
「それにしても、『夜の蝶』って言い回し、よく知ってたね」
隣を歩く課長が、少し首を傾げてそう問う。
「ほうですか? けっこう知られとると思いますけど」
「いや、若い子が使うのはちょっと珍しいかな」
「私が若いかどうかはともかく。今から行く店の若い子も言うとりましたよ。自分のこと、『夜の蝶』って」
「へえ、どんな店だろ」
「普通のスタンドと思いますよ」
と会話している間に、その枯茶色のビルに到着した。
「ここです。『エスケープ』」
私はビル入り口の案内パネルを指差しながら、そう言った。
「え?」
なぜか課長は、少し眉根を寄せる。
おかしいだろうか。確かに『エスケープ』は女の子が接客する店で、私が行くような店ではないかもしれない。
けれどパネルだけではそんなことはわからないはずだ。
「もしかして、来たことあります?」
「いや? ないよ」
それならどうしてそんな不審そうな表情をしているのだろう。顎に手をやって、なにかを思い出そうとしているような顔をしているのだろう。
「前に来たとき、次はボトル入れますね、って言うたんです。じゃけえ来ておきたい思うて」
「来たことあるんだ?」
「はい、いいお店でしたよ」
「……へえ、いいお店だったんだ」
「女の子の店ですけど」
「ああ、うん」
「まずいです?」
店を変えたほうがいいのだろうか。まさかこんな反応が返ってくるとは思っていなかった。
「いや、ここ、聞いたことがあるなって」
なるほど。それで。私はひとつ頷く。
「ほうなんですか。私はまだ一回しか来たことがないんですけど、有名なんですね。そういやあ、情報サイトに載っとるって聞きました」
「ふうん。じゃ、行こうか」
私たちはエレベーターに乗り込む。私は三階のボタンを押した。




