最終話 大賢者の明日
夏が過ぎた。
朝の空気に、少しだけ冷たさが混じるようになった。
北の山を覆っていた濃い緑も、ところどころ色を変え始めている。
村の畑では、収穫の準備が進んでいた。
麦。
野菜。
そして、今年は芋もよく育っている。
アルヴェインは畑の端に立ち、土の具合を確かめていた。
「……悪くないな」
しゃがみ込み、土を手に取る。
指の間から、さらさらと土が落ちていく。
かつて。
世界中の魔法使いたちが恐れ、敬った大賢者が。
今では、土の具合を気にしている。
アルヴェインは少し笑った。
「これでいい」
◇
昼過ぎ。
村の入口に、一台の馬車が止まった。
「こんにちは!」
聞き慣れた声。
エレナだった。
「また来たのか」
「約束しましたから」
エレナは馬車から降りる。
王女としてではない。
王宮魔導研究所の職員としてでもない。
ここへ来る時の彼女は、いつも一人の魔法使いだった。
「研究はどうだ?」
「順調です」
「そうか」
「でも、まだ分からないことばかりです」
「それでいい」
エレナは笑った。
「アルヴェインさんらしいですね」
彼女は北の山を見る。
そこには、もう目立った異変はない。
七色の封縛も静かに力を保っている。
「古代龍は?」
「眠っている」
「封印は?」
「今のところ問題ない」
「じゃあ……」
エレナが畑を見る。
アルヴェインは何も言わない。
エレナは嫌な予感がした。
「……まさか」
アルヴェインが畑の隅を指差す。
「そこに鍬がある」
「やっぱり!」
◇
夕方まで。
エレナは畑を手伝った。
土を掘り。
芋を掘り。
収穫した作物を運ぶ。
「王女様にこんなことをさせていいんですか?」
村人が笑う。
「本人がやると言った」
「アルヴェインさんにやらされたんです!」
「同じことだ」
「違います!」
村に、小さな笑い声が広がる。
けれど。
それは以前のような大きな騒ぎではなかった。
ただ。
いつもの一日。
畑仕事をする人がいて。
宿兼酒場で食事をする人がいて。
夕方になれば、それぞれの家へ帰る。
そんな穏やかな時間だった。
◇
夜。
エレナはアルヴェインの家の前に座っていた。
「アルヴェインさん」
「何だ?」
「私、また来てもいいですか?」
「ああ」
「来年も?」
「ああ」
「その次も?」
「畑がある限りな」
エレナは笑う。
「じゃあ、ずっと来られますね」
「そうなるな」
少しの沈黙。
「先生も、ここへ来ていたらよかったのに」
リディアのことだった。
アルヴェインは夜空を見上げる。
「そうだな」
それ以上は言わない。
エレナも、それ以上聞かなかった。
ただ。
二人で静かに夜空を見ていた。
◇
翌朝。
エレナが王都へ戻る日。
村の入口で、アルヴェインが見送る。
「また来ます」
「ああ」
「次はもっと魔法について教えてください」
「自分で考えろ」
「そればっかりですね」
「魔法使いなんだからな」
エレナは笑った。
「分かりました」
馬車が動き始める。
エレナは振り返る。
「アルヴェインさん!」
「何だ?」
「お元気で!」
「ああ」
馬車が遠ざかっていく。
アルヴェインは、その姿が見えなくなるまで立っていた。
◇
数日後。
北の空から、巨大な黒い影が現れた。
村人たちが空を見上げる。
「来たぞ」
アルヴェインが言う。
黒龍グラディオンが、村の外へ降り立った。
「久しいな、アルヴェイン」
「久しぶりでもないだろ」
「細かいことを言うな」
グラディオンは村を見渡す。
「変わらんな」
「ああ」
「封印も?」
「安定している」
「そうか」
グラディオンは満足そうに頷く。
そして。
畑を見る。
「……」
アルヴェインが気づく。
「芋か?」
「うむ」
グラディオンは堂々と言った。
「この村は芋がうまい」
アルヴェインは苦笑する。
「それで?」
グラディオンは翼を広げる。
「収穫祭にでも顔を出す」
「最初からそれが目的だったんじゃないのか?」
「違う」
「本当に?」
「……少しだけだ」
アルヴェインが笑った。
「なら、芋を残しておく」
「頼んだぞ」
グラディオンは空へ舞い上がる。
「またな、アルヴェイン!」
「ああ」
黒龍は北の空へ消えていった。
◇
そして。
収穫祭の日。
村は朝から静かな活気に包まれていた。
採れたばかりの麦。
野菜。
そして、山のような芋。
宿兼酒場では料理の準備が進められている。
村人たちがテーブルを並べる。
子供たちが走り回る。
それでも、王都の祭りのような派手さはない。
小さな村の。
小さな収穫祭だった。
アルヴェインは少し離れたところから、その様子を眺めていた。
「アルヴェインさん!」
ミレアが呼ぶ。
「もう始まるよ」
「ああ」
その時だった。
――ゴォォォ……。
空から風が降りてきた。
村人たちが空を見る。
「……まさか」
黒い影が太陽を覆う。
大きな翼。
黒い鱗。
グラディオンだった。
村の外へ着地した黒龍は、ゆっくりと頭を下げる。
「約束通り来たぞ」
アルヴェインが笑う。
「本当に来たな」
「俺は約束を守る龍だ」
「芋の約束だろ」
「村との約束だ」
グラディオンは堂々と言い切った。
だが。
その視線は、すでに芋料理の並ぶテーブルへ向いている。
「……」
「……」
アルヴェインとミレアが顔を見合わせる。
「やっぱり芋だね」
「そうだな」
◇
最初、村人たちは少し緊張していた。
何しろ。
目の前にいるのは黒龍だ。
かつて古代龍との戦いでアルヴェインたちと共に戦ったとはいえ。
普通なら、気軽に食卓へ招ける相手ではない。
すると。
宿兼酒場の主人が大皿を持ってきた。
「グラディオンさん」
「何だ?」
「芋、焼けましたよ」
「おお!」
黒龍の目が輝いた。
村人たちから、小さな笑い声が起きる。
「そんなに好きなのか」
誰かが尋ねる。
「好きという言葉では足りん」
グラディオンは胸を張る。
「この村の芋は格別だ」
「去年も食べてない?」
「だから知っている」
グラディオンは焼き芋を一つ口にする。
「……うむ」
満足そうに目を細める。
「やはり、うまい」
村人たちの緊張が少しずつ解けていく。
誰かが笑う。
誰かが芋をもう一つ差し出す。
「これも食べてみな」
「もらおう」
いつの間にか。
黒龍は村の収穫祭の客の一人になっていた。
◇
アルヴェインは少し離れた場所から眺めていた。
「楽しそうだね」
ミレアが隣に立つ。
「ああ」
「グラディオン、また来るかな?」
「芋がある限り来るだろ」
「じゃあ毎年だね」
「そうなるな」
グラディオンがこちらを見る。
「アルヴェイン!」
「何だ?」
「お前も食え!」
「俺は後でいい」
「冷めるぞ」
「芋は逃げない」
「逃げるぞ。食べなければ誰かに食われる」
「……それは困るな」
アルヴェインは笑い、宿兼酒場へ歩いていく。
◇
夕方。
収穫祭が終わる。
グラディオンは満足そうだった。
「良い祭りだった」
「芋しか食べてなかっただろ」
「十分だ」
「そうか」
「また来る」
「今度は収穫祭じゃなくてもいいぞ」
グラディオンが少し驚いた顔をする。
「……そうか」
「ああ」
「では、また来よう」
「好きにしろ」
グラディオンは笑う。
やがて翼を広げる。
「ではな、アルヴェイン」
「ああ」
「村の者たちにも伝えておけ」
「何を?」
「来年も芋を頼む」
「自分で育てろ」
「それも悪くない」
グラディオンは笑いながら空へ飛び立った。
黒い影が、秋の空へ消えていく。
◇
夜。
祭りの後の村は静かだった。
宿兼酒場からも、もう声は聞こえない。
アルヴェインは家の前に座っている。
北の山が月明かりに照らされている。
七色の封縛は静かに輝いていた。
古代龍は眠っている。
エドガーは王都で国を治めている。
エレナは魔法を学び続けている。
グラディオンは北の山へ帰った。
そして。
アルヴェインは、この村にいる。
かつて。
世界を救った。
魔王を倒した。
戦争を終わらせた。
国王に引退を告げた。
名声も。
地位も。
すべて捨てた。
そして。
荒れ地を買い。
畑を作った。
最初は。
ただ静かに生きたかった。
けれど。
いつの間にか。
守るものが増えていた。
麦。
畑。
村。
そこで暮らす人々。
そして。
遠く離れた場所で生きる、かつての仲間たち。
アルヴェインは空を見上げる。
「……悪くないな」
静かな声だった。
大賢者。
英雄。
魔王を倒した男。
かつて、そう呼ばれた。
けれど。
今のアルヴェインに、その名前は必要なかった。
ただの村人。
畑を耕し。
麦を育て。
時々、黒龍に芋を食わせる。
それでいい。
それがいい。
秋の風が吹く。
麦畑が静かに揺れる。
アルヴェインは立ち上がった。
明日は。
また畑仕事だ。
新しい麦を植える。
土を耕す。
季節が巡る。
来年になれば。
また収穫がある。
そして。
きっと。
黒龍が芋を食べにやって来る。
そんな未来を。
アルヴェインは、もう恐れなかった。
世界を救う必要はない。
英雄である必要もない。
ただ。
自分が守りたいと思った場所で。
大切な人たちが、それぞれの明日を生きている。
それだけで。
十分だった。
アルヴェインは最後に、北の山を見る。
そして。
静かに笑った。
――世界を救った大賢者の物語は、ここで終わる。
けれど。
アルヴェインの明日は、終わらない。
明日になれば。
また朝が来る。
鍬を持つ。
畑へ向かう。
土を耕す。
麦が育つ。
季節が巡る。
その先にあるのは。
もう英雄の物語ではない。
一人の男が、自分で選んだ場所で生きていく。
ただ、それだけの。
穏やかな人生だった。
――そして。
新しい朝が。
静かに、始まろうとしていた。
――完――




