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名も知られぬ大賢者は畑を作って余生を過ごす  作者: まーサンタ
第五部 大賢者、もう一度だけ

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最終話 大賢者の明日


 夏が過ぎた。


 朝の空気に、少しだけ冷たさが混じるようになった。


 北の山を覆っていた濃い緑も、ところどころ色を変え始めている。


 村の畑では、収穫の準備が進んでいた。


 麦。


 野菜。


 そして、今年は芋もよく育っている。


 アルヴェインは畑の端に立ち、土の具合を確かめていた。


「……悪くないな」


 しゃがみ込み、土を手に取る。


 指の間から、さらさらと土が落ちていく。


 かつて。


 世界中の魔法使いたちが恐れ、敬った大賢者が。


 今では、土の具合を気にしている。


 アルヴェインは少し笑った。


「これでいい」


     ◇


 昼過ぎ。


 村の入口に、一台の馬車が止まった。


「こんにちは!」


 聞き慣れた声。


 エレナだった。


「また来たのか」


「約束しましたから」


 エレナは馬車から降りる。


 王女としてではない。


 王宮魔導研究所の職員としてでもない。


 ここへ来る時の彼女は、いつも一人の魔法使いだった。


「研究はどうだ?」


「順調です」


「そうか」


「でも、まだ分からないことばかりです」


「それでいい」


 エレナは笑った。


「アルヴェインさんらしいですね」


 彼女は北の山を見る。


 そこには、もう目立った異変はない。


 七色の封縛も静かに力を保っている。


「古代龍は?」


「眠っている」


「封印は?」


「今のところ問題ない」


「じゃあ……」


 エレナが畑を見る。


 アルヴェインは何も言わない。


 エレナは嫌な予感がした。


「……まさか」


 アルヴェインが畑の隅を指差す。


「そこに鍬がある」


「やっぱり!」


     ◇


 夕方まで。


 エレナは畑を手伝った。


 土を掘り。


 芋を掘り。


 収穫した作物を運ぶ。


「王女様にこんなことをさせていいんですか?」


 村人が笑う。


「本人がやると言った」


「アルヴェインさんにやらされたんです!」


「同じことだ」


「違います!」


 村に、小さな笑い声が広がる。


 けれど。


 それは以前のような大きな騒ぎではなかった。


 ただ。


 いつもの一日。


 畑仕事をする人がいて。


 宿兼酒場で食事をする人がいて。


 夕方になれば、それぞれの家へ帰る。


 そんな穏やかな時間だった。


     ◇


 夜。


 エレナはアルヴェインの家の前に座っていた。


「アルヴェインさん」


「何だ?」


「私、また来てもいいですか?」


「ああ」


「来年も?」


「ああ」


「その次も?」


「畑がある限りな」


 エレナは笑う。


「じゃあ、ずっと来られますね」


「そうなるな」


 少しの沈黙。


「先生も、ここへ来ていたらよかったのに」


 リディアのことだった。


 アルヴェインは夜空を見上げる。


「そうだな」


 それ以上は言わない。


 エレナも、それ以上聞かなかった。


 ただ。


 二人で静かに夜空を見ていた。


     ◇


 翌朝。


 エレナが王都へ戻る日。


 村の入口で、アルヴェインが見送る。


「また来ます」


「ああ」


「次はもっと魔法について教えてください」


「自分で考えろ」


「そればっかりですね」


「魔法使いなんだからな」


 エレナは笑った。


「分かりました」


 馬車が動き始める。


 エレナは振り返る。


「アルヴェインさん!」


「何だ?」


「お元気で!」


「ああ」


 馬車が遠ざかっていく。


 アルヴェインは、その姿が見えなくなるまで立っていた。


     ◇


 数日後。


 北の空から、巨大な黒い影が現れた。


 村人たちが空を見上げる。


「来たぞ」


 アルヴェインが言う。


 黒龍グラディオンが、村の外へ降り立った。


「久しいな、アルヴェイン」


「久しぶりでもないだろ」


「細かいことを言うな」


 グラディオンは村を見渡す。


「変わらんな」


「ああ」


「封印も?」


「安定している」


「そうか」


 グラディオンは満足そうに頷く。


 そして。


 畑を見る。


「……」


 アルヴェインが気づく。


「芋か?」


「うむ」


 グラディオンは堂々と言った。


「この村は芋がうまい」


 アルヴェインは苦笑する。


「それで?」


 グラディオンは翼を広げる。


「収穫祭にでも顔を出す」


「最初からそれが目的だったんじゃないのか?」


「違う」


「本当に?」


「……少しだけだ」


 アルヴェインが笑った。


「なら、芋を残しておく」


「頼んだぞ」


 グラディオンは空へ舞い上がる。


「またな、アルヴェイン!」


「ああ」


 黒龍は北の空へ消えていった。


     ◇


 そして。


 収穫祭の日。


 村は朝から静かな活気に包まれていた。


 採れたばかりの麦。


 野菜。


 そして、山のような芋。


 宿兼酒場では料理の準備が進められている。


 村人たちがテーブルを並べる。


 子供たちが走り回る。


 それでも、王都の祭りのような派手さはない。


 小さな村の。


 小さな収穫祭だった。


 アルヴェインは少し離れたところから、その様子を眺めていた。


「アルヴェインさん!」


 ミレアが呼ぶ。


「もう始まるよ」


「ああ」


 その時だった。


 ――ゴォォォ……。


 空から風が降りてきた。


 村人たちが空を見る。


「……まさか」


 黒い影が太陽を覆う。


 大きな翼。


 黒い鱗。


 グラディオンだった。


 村の外へ着地した黒龍は、ゆっくりと頭を下げる。


「約束通り来たぞ」


 アルヴェインが笑う。


「本当に来たな」


「俺は約束を守る龍だ」


「芋の約束だろ」


「村との約束だ」


 グラディオンは堂々と言い切った。


 だが。


 その視線は、すでに芋料理の並ぶテーブルへ向いている。


「……」


「……」


 アルヴェインとミレアが顔を見合わせる。


「やっぱり芋だね」


「そうだな」


     ◇


 最初、村人たちは少し緊張していた。


 何しろ。


 目の前にいるのは黒龍だ。


 かつて古代龍との戦いでアルヴェインたちと共に戦ったとはいえ。


 普通なら、気軽に食卓へ招ける相手ではない。


 すると。


 宿兼酒場の主人が大皿を持ってきた。


「グラディオンさん」


「何だ?」


「芋、焼けましたよ」


「おお!」


 黒龍の目が輝いた。


 村人たちから、小さな笑い声が起きる。


「そんなに好きなのか」


 誰かが尋ねる。


「好きという言葉では足りん」


 グラディオンは胸を張る。


「この村の芋は格別だ」


「去年も食べてない?」


「だから知っている」


 グラディオンは焼き芋を一つ口にする。


「……うむ」


 満足そうに目を細める。


「やはり、うまい」


 村人たちの緊張が少しずつ解けていく。


 誰かが笑う。


 誰かが芋をもう一つ差し出す。


「これも食べてみな」


「もらおう」


 いつの間にか。


 黒龍は村の収穫祭の客の一人になっていた。


     ◇


 アルヴェインは少し離れた場所から眺めていた。


「楽しそうだね」


 ミレアが隣に立つ。


「ああ」


「グラディオン、また来るかな?」


「芋がある限り来るだろ」


「じゃあ毎年だね」


「そうなるな」


 グラディオンがこちらを見る。


「アルヴェイン!」


「何だ?」


「お前も食え!」


「俺は後でいい」


「冷めるぞ」


「芋は逃げない」


「逃げるぞ。食べなければ誰かに食われる」


「……それは困るな」


 アルヴェインは笑い、宿兼酒場へ歩いていく。


     ◇


 夕方。


 収穫祭が終わる。


 グラディオンは満足そうだった。


「良い祭りだった」


「芋しか食べてなかっただろ」


「十分だ」


「そうか」


「また来る」


「今度は収穫祭じゃなくてもいいぞ」


 グラディオンが少し驚いた顔をする。


「……そうか」


「ああ」


「では、また来よう」


「好きにしろ」


 グラディオンは笑う。


 やがて翼を広げる。


「ではな、アルヴェイン」


「ああ」


「村の者たちにも伝えておけ」


「何を?」


「来年も芋を頼む」


「自分で育てろ」


「それも悪くない」


 グラディオンは笑いながら空へ飛び立った。


 黒い影が、秋の空へ消えていく。


     ◇


 夜。


 祭りの後の村は静かだった。


 宿兼酒場からも、もう声は聞こえない。


 アルヴェインは家の前に座っている。


 北の山が月明かりに照らされている。


 七色の封縛は静かに輝いていた。


 古代龍は眠っている。


 エドガーは王都で国を治めている。


 エレナは魔法を学び続けている。


 グラディオンは北の山へ帰った。


 そして。


 アルヴェインは、この村にいる。


 かつて。


 世界を救った。


 魔王を倒した。


 戦争を終わらせた。


 国王に引退を告げた。


 名声も。


 地位も。


 すべて捨てた。


 そして。


 荒れ地を買い。


 畑を作った。


 最初は。


 ただ静かに生きたかった。


 けれど。


 いつの間にか。


 守るものが増えていた。


 麦。


 畑。


 村。


 そこで暮らす人々。


 そして。


 遠く離れた場所で生きる、かつての仲間たち。


 アルヴェインは空を見上げる。


「……悪くないな」


 静かな声だった。


 大賢者。


 英雄。


 魔王を倒した男。


 かつて、そう呼ばれた。


 けれど。


 今のアルヴェインに、その名前は必要なかった。


 ただの村人。


 畑を耕し。


 麦を育て。


 時々、黒龍に芋を食わせる。


 それでいい。


 それがいい。


 秋の風が吹く。


 麦畑が静かに揺れる。


 アルヴェインは立ち上がった。


 明日は。


 また畑仕事だ。


 新しい麦を植える。


 土を耕す。


 季節が巡る。


 来年になれば。


 また収穫がある。


 そして。


 きっと。


 黒龍が芋を食べにやって来る。


 そんな未来を。


 アルヴェインは、もう恐れなかった。


 世界を救う必要はない。


 英雄である必要もない。


 ただ。


 自分が守りたいと思った場所で。


 大切な人たちが、それぞれの明日を生きている。


 それだけで。


 十分だった。


 アルヴェインは最後に、北の山を見る。


 そして。


 静かに笑った。


 ――世界を救った大賢者の物語は、ここで終わる。


 けれど。


 アルヴェインの明日は、終わらない。


 明日になれば。


 また朝が来る。


 鍬を持つ。


 畑へ向かう。


 土を耕す。


 麦が育つ。


 季節が巡る。


 その先にあるのは。


 もう英雄の物語ではない。


 一人の男が、自分で選んだ場所で生きていく。


 ただ、それだけの。


 穏やかな人生だった。


 ――そして。


 新しい朝が。


 静かに、始まろうとしていた。


――完――

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