第四十三話 師の残したもの
朝。
村の畑に、まだ朝露が残っていた。
「……やっぱり曲がってる」
エレナは昨日、自分が作った畝を見つめていた。
鍬を持ったまま、首を傾げる。
「どうしてこうなるんだろう」
「力を入れすぎている」
背後から声がした。
「わっ!」
振り返ると、アルヴェインが立っていた。
「いつからいたんですか?」
「今来たところだ」
「本当ですか?」
「本当だ」
アルヴェインは畝を見る。
「昨日よりはましだ」
「本当?」
「ああ」
エレナの顔が明るくなる。
「やった」
「だが、まだ曲がってる」
「……」
エレナは少し頬を膨らませた。
「褒めるなら最後まで褒めてください」
「事実を言っただけだ」
「そういうところですよ」
アルヴェインは笑った。
「今日はどうする?」
「もちろん畑です」
エレナは鍬を握る。
「王女としてではなく、研究者としても、ちゃんと役に立ちたいので」
「研究者なら、畑の土も研究対象だ」
「それはもう調べています」
「なら話が早い」
◇
昼前。
宿兼酒場の一角に、エレナが大量の書類を広げていた。
王宮魔導研究所から持ってきた古い資料。
その中には、何度も読み返された研究記録がある。
「これが……」
エレナは一冊の古い魔導書を開く。
表紙には、かすれた文字で名前が記されていた。
――リディア。
かつてアルヴェインと共に魔王軍と戦った魔法使い。
そして今のエレナの師。
「先生……」
エレナはページをめくった。
そこには、七色の封縛についての記録が残されていた。
アルヴェインが向かいの席に座る。
「それを持ってきたのか」
「はい」
「まだ残っていたんだな」
「王宮魔導研究所で保管されていました」
エレナは一枚の紙を差し出した。
「先生が若い頃に書いたものです」
アルヴェインが目を通す。
「……なるほど」
「何か分かりますか?」
「リディアらしい」
「それだけですか?」
「いや」
アルヴェインは紙を指でなぞる。
「ここまで調べていたとは思わなかった」
「先生は、七色の封縛についてずっと研究していたんです」
「そうだったな」
◇
エレナは別のページを開いた。
「七色の封縛は、単純な封印魔法じゃありません」
「そうだ」
「火、水、風、土、光、闇……六つの属性を互いに連結させて、その中心に術者の魔力を通す」
「そこまでは分かっているな」
「問題は、ここです」
エレナが術式の一部を指差す。
「属性同士をつないでいる接続部分」
アルヴェインが目を細める。
「……そうか」
「ここが少しずつ劣化している」
「古代龍の力で?」
「それだけじゃありません」
エレナは首を横に振る。
「十九年間、ずっと魔力を受け続けたことで、術式そのものが摩耗しているんです」
アルヴェインは黙って術式を見る。
「封印が壊れているんじゃない」
エレナが続ける。
「七つの属性をつないでいる部分が、少しずつ弱くなっているんです」
「……なるほど」
アルヴェインは頷いた。
「そこなら修復できる可能性がある」
「本当ですか?」
「理論上はな」
エレナの目が輝く。
「どうすれば?」
「自分で考えろ」
「え?」
「研究者なんだろう?」
「それはそうですけど……」
「答えを教えたら研究にならない」
エレナは唇を尖らせる。
「先生も同じことを言います」
「リディアならそう言うだろうな」
◇
午後。
エレナは一人で術式を書き直していた。
紙の上に魔法陣を描く。
属性同士の接続を一つ変更する。
「……違う」
消す。
もう一度書く。
「これも違う」
消す。
また書く。
アルヴェインは少し離れたところで畑仕事をしていた。
「アルヴェインさん」
「何だ?」
「この接続を二重にしたらどうでしょう?」
「魔力が逆流する」
「じゃあ、三重に……」
「もっと悪い」
「……」
エレナは頭を抱える。
「難しい」
「だから七色の封縛なんだ」
「先生も、これを完成できなかったんですよね」
「俺も完成させられなかった」
アルヴェインはそう言った。
「七色の封縛は、あの時点では未完成だった」
「でも、古代龍を封じた」
「ああ」
「じゃあ……成功したんじゃないですか?」
「違う」
アルヴェインは北の山を見る。
「封じることができただけだ」
「……」
「倒せなかったから、封じた」
その言葉には、十九年前の悔しさが残っていた。
◇
夕方。
村の井戸から声が上がった。
「水が濁ってるぞ!」
村人が叫ぶ。
アルヴェインとエレナが駆けつける。
井戸の水が、薄く黒く濁っていた。
「魔力が混ざっている」
エレナが水を調べる。
「北の山から地下を通って流れてきています」
「やっぱりか」
アルヴェインは周囲を見る。
「このままだと畑にも入る」
「どうします?」
「水路を変える」
「魔法で?」
「一部はな」
アルヴェインは村人たちを見る。
「みんな、手を貸してくれ」
「何をすればいい?」
「北側の水路を掘り直す」
「分かった!」
村人たちが動き始める。
エレナも鍬を手にした。
「私もやります」
「王女様にそんなことを――」
村人が戸惑う。
エレナは笑った。
「ここでは関係ないんですよね」
アルヴェインを見る。
「ああ」
エレナは鍬を握る。
「じゃあ、やります」
◇
日が沈む頃。
水路の流れが変わった。
アルヴェインが最後に魔法を使う。
淡い風が起こり、濁った水を別の水路へ押し流していく。
「これでいい」
村人たちから安堵の声が上がった。
エレナは汗を拭った。
「大きな魔法を使わなくても、解決できるんですね」
「そういうことだ」
「昔なら?」
「昔の俺なら、井戸ごと浄化していたかもしれない」
「……」
「今なら、人ができることは人に任せる」
アルヴェインは静かに言った。
「魔法は、最後でいい」
エレナはその言葉を覚えておこうと思った。
◇
夜。
エレナは宿の部屋に戻った。
疲れていた。
それでも、リディアの研究ノートを開く。
最後の方のページは、文字が少なくなっていた。
そして。
一番最後のページ。
そこに、一文だけ書かれていた。
『魔法は、一人で完成させるものではない。』
「……」
エレナはその言葉をじっと見つめた。
「先生……」
今まで、自分は師匠の研究を追いかけてきた。
師匠が見つけた答え。
師匠が残した理論。
そして、師匠が知っている大賢者アルヴェイン。
それらを追いかけていれば、一人前の魔法使いになれると思っていた。
だが。
「私自身の魔法……」
エレナは呟く。
紙を一枚取り出す。
七色の封縛の術式を、自分なりに書き直す。
一つ。
二つ。
三つ。
何度も書き直す。
◇
同じ頃。
アルヴェインは畑にいた。
月明かりの下で、麦を確認している。
風が吹く。
麦が揺れる。
北の山を見る。
「……」
七色の光が、かすかに揺らいでいる。
「まだ持つ」
アルヴェインは呟く。
だが、その声には確信がなかった。
そこへガルドがやって来た。
「まだ起きているのか」
「ああ」
「エレナは?」
「研究している」
「リディアの弟子らしいな」
アルヴェインは少し笑う。
「よく似ている」
「リディアに?」
「ああ」
「それは厄介だな」
「どういう意味だ?」
「お前も昔、リディアには散々振り回されただろう」
アルヴェインは苦笑した。
「……そうだったな」
◇
その頃。
エレナは完成した術式を見つめていた。
「……これなら」
まだ完璧ではない。
だが。
七つの属性をつなぐ部分に、新しい補助術式を加えている。
これなら封印の劣化を少しだけ遅らせられるかもしれない。
エレナは立ち上がった。
「明日、アルヴェインさんに見てもらおう」
そして窓の外を見る。
北の山。
七色の光。
その奥から。
――グオオオオ……。
低い咆哮が響いた。
エレナは息を呑む。
だが、逃げなかった。
手元の術式を握りしめる。
「……私にも、できる」
それは、師の言葉を借りただけではない。
初めて自分自身で見つけた、小さな答えだった。
そして北の山では。
古代龍の封印が、また一つ。
小さく揺らいだ。




