第四十二話 英雄を知る者
朝。
村の宿兼酒場には、見慣れない少女がいた。
年齢は十九歳。
王宮魔導研究所の職員であり、王女でもある。
名は――
エレナ・アストリア。
王都では、彼女の姿を知らない者は少ない。
しかし今のエレナは、王女らしい豪華な服ではなく、旅装束に身を包んでいた。
その理由は一つ。
会いたい人がいたからだ。
「……本当に、ここにいるのね」
窓から外を見る。
畑の中に、一人の老人がいた。
鍬を手にして、土を耕している。
アルヴェイン。
かつて世界を救った大賢者。
そして、エレナの師――リディアが、若い頃に共に戦った人物。
「先生が話していた人……」
エレナは小さく呟いた。
◇
「おはようございます」
エレナが畑へ向かう。
アルヴェインが振り返った。
「おはよう」
「アルヴェインさんですね?」
「ああ」
それだけ。
アルヴェインはまた畑へ視線を戻した。
エレナは少し拍子抜けした。
「……私のこと、ご存じですか?」
「王都から来た研究者だろう?」
「はい」
「なら、土を見てくれ」
「土?」
「昨日の魔力変動で、畑の一部が弱っている」
アルヴェインは畑の端を指差す。
「そこを調べてくれ」
「分かりました」
エレナはしゃがみ込んだ。
土に触れる。
確かに、微弱な魔力が残っている。
「……地下から流れてきていますね」
「そうだ」
「七色の封縛が影響している?」
「正確には、封印の劣化による魔力漏れだ」
エレナの目が輝く。
「やっぱり……!」
「何がだ?」
「七色の封縛を、実際に見られるなんて!」
アルヴェインは少し困った顔をする。
「研究者か」
「王宮魔導研究所の職員です」
「そうか」
「それと――」
エレナは少し胸を張る。
「王女です」
「そうか」
「……」
「それがどうした?」
エレナは固まった。
「いえ……」
「畑では関係ない」
「そうですか……」
アルヴェインは畑の端に置かれた鍬を指差した。
「そこに鍬がある」
「はい」
「畝を作ってくれ」
「……え?」
「畝」
エレナは鍬を見る。
そしてアルヴェインを見る。
「私、王女なんですけど」
「知っている」
「……」
「だから?」
「普通は王女に畑仕事はさせないと思います」
「ここでは関係ない」
アルヴェインは淡々と言った。
「土を耕せるなら耕してくれ」
「……」
エレナは鍬を手に取った。
「分かりました」
そして。
「どうやって使うんですか?」
「そこからか」
◇
ザクッ。
「こうですか?」
「違う」
ザクッ。
「こう?」
「腕だけで振るな」
「はい」
「腰を使え」
「こう……?」
「そうだ」
ザクッ。
土がきれいに割れた。
「できました!」
「まだ曲がってる」
「……」
エレナは畝を見る。
確かに、見事なほど曲がっていた。
「もう一度やります」
「ああ」
アルヴェインは別の場所へ向かう。
エレナは鍬を握り直した。
十九歳の王女。
王宮では誰も彼女に鍬を渡したりはしない。
だが、この村では違った。
肩書きではなく、目の前にいる一人の人間として扱われている。
「……なんだか、不思議」
エレナは呟きながら、もう一度土を耕した。
◇
少し離れたところで、ミレアがその様子を見ていた。
「アルじいさん」
「何だ?」
「あの人、王女様なんでしょ?」
「ああ」
「なのに畑仕事してる」
「本人がやりたいと言ったからな」
「アルじいさんがやらせたんじゃなくて?」
「鍬を渡しただけだ」
ミレアは笑った。
「それがアルじいさんらしいね」
「そうか?」
「うん」
◇
昼。
宿兼酒場。
エレナは泥のついた手を洗いながら、席についた。
「疲れました……」
「鍬は重いからな」
アルヴェインが普通に答える。
「王都では、誰も私に畑仕事なんてさせません」
「だろうな」
「でも……嫌じゃありません」
「そうか」
「むしろ楽しいです」
アルヴェインがエレナを見る。
「変わってるな」
「先生にもよく言われます」
「先生?」
エレナの表情が少し変わった。
「リディア先生です」
アルヴェインの手が止まった。
「……リディア」
「ご存じですよね」
「ああ」
「先生から、あなたの話を聞きました」
アルヴェインは黙った。
「私の魔法の師匠です」
「そうか」
「昔、先生はあなたと一緒に戦ったんですよね?」
アルヴェインは酒を一口飲んだ。
「ああ」
「魔王軍と」
「ああ」
「古代龍とも」
「……ああ」
エレナの目が真剣になる。
「先生は、あなたのことを『自分が出会った中で最も危険なほど優しい魔法使い』だと言っていました」
「……リディアらしいな」
「どういう意味ですか?」
「褒めているのか、悪口なのか分からない」
アルヴェインは笑った。
◇
午後。
北の山へ向かう。
アルヴェイン。
ガルド。
エレナ。
カイルとリン。
空には黒龍グラディオン。
「アルヴェイン!」
上空から声が響く。
「何だ?」
「封印の魔力がまた変化した!」
「分かった」
山の麓。
古い岩壁に手を触れる。
七色の光が浮かび上がる。
エレナは息を呑んだ。
「これが……」
「七色の封縛だ」
「先生が話していたもの……」
エレナは魔法陣を見つめる。
「リディア先生は、この術式が未完成だったと言っていました」
「その通りだ」
「でも、これほどの魔法を……」
「当時はこれしかなかった」
アルヴェインは封印を見つめる。
「古代龍を倒せなかったからな」
◇
その瞬間。
――ゴゴゴゴゴ……。
地面が揺れた。
エレナがよろめく。
アルヴェインが支える。
「大丈夫か?」
「はい……」
七色の封印が激しく揺らぐ。
アルヴェインの顔から笑みが消える。
「……内側から押されている」
「古代龍が?」
ガルドが尋ねる。
「ああ」
空からグラディオンが叫ぶ。
「まだ目覚めてはいない!」
そして、一拍。
「だが、俺たちの存在には気づいたぞ!」
エレナが息を呑む。
「先生は……」
「リディアか?」
「はい」
エレナは山を見る。
「先生も、ここに来るべきでしょうか」
アルヴェインは首を横に振った。
「必要なら俺から頼む」
「でも――」
「リディアには、リディアの人生がある」
アルヴェインは静かに言う。
「昔の仲間だからといって、昔と同じ場所へ戻る必要はない」
エレナは黙った。
◇
村へ戻る道。
エレナが尋ねる。
「アルヴェインさん」
「何だ?」
「先生は、昔のあなたのことをよく話します」
「そうか」
「でも、あなたはあまり話さない」
「ああ」
「なぜですか?」
アルヴェインはしばらく歩く。
「昔のことを話せば、昔の自分に戻りそうだからだ」
「……」
「俺はもう、あの頃の俺じゃない」
「でも、魔法は使える」
「そうだな」
「古代龍と戦える」
「分からない」
「え?」
「今の俺に、昔と同じことができるかは分からない」
アルヴェインは村を見る。
「でも、今の俺には守りたいものがある」
◇
村へ戻る。
エレナが畑を見る。
朝、自分が作った畝は、少しだけ曲がっていた。
「……」
エレナは鍬を拾う。
「アルヴェインさん」
「何だ?」
「明日も畑を手伝っていいですか?」
「好きにしろ」
「王女なのに?」
「ここでは関係ない」
エレナが笑う。
「分かりました」
◇
夜。
宿兼酒場の一室。
エレナは王都へ送る報告書を書いていた。
筆を止める。
そして、一行を書く。
『大賢者アルヴェインは健在。現在、北方の村で農民として暮らしている』
少し考える。
さらに続ける。
『七色の封縛について、本人への協力要請が必要』
そして最後に。
『ただし、本人を英雄として扱うことは逆効果と思われる』
エレナは筆を置いた。
窓の外を見る。
北の山。
そこには、かすかな七色の光が浮かんでいる。
「先生……」
エレナは小さく呟いた。
「あなたが話していた人は、思っていたよりずっと普通の人でした」
少し笑う。
「でも……」
北の山を見つめる。
「やっぱり、すごい人なんですね」
◇
その頃。
アルヴェインは畑にいた。
月明かりの中、麦を確認している。
風が吹く。
麦が揺れる。
アルヴェインは北の山を見る。
そこには、かつて仲間たちと封じた古代龍がいる。
そして今。
かつての仲間・リディアの弟子が、自分のもとへやって来た。
過去は、少しずつ現在へ戻ってきている。
「……リディアの弟子か」
アルヴェインは小さく笑う。
「よく似てるな」
だが、すぐに畑へ視線を戻す。
「まあいい」
鍬を肩に担ぐ。
「明日の畑が先だ」
英雄だった男は。
今日もまた、静かな村へ戻っていった。




