第四十話 七色の封縛、再び
朝。
村は、いつもより静かだった。
昨夜、北の山から響いた咆哮。
その余韻が、まだ人々の胸に残っている。
ミレアは畑の前で立ち止まった。
「……あれ?」
麦の一角が、茶色く変色している。
昨日までは、確かに元気だった。
「アルじいさん!」
ミレアの声に、アルヴェインがやってくる。
しゃがみ込み、麦の根元を調べる。
「水不足じゃない」
「病気?」
「違う」
アルヴェインは土に手を置いた。
冷たい。
そして、わずかに震えている。
「……魔力だ」
「魔力?」
「ああ。地下から漏れている」
アルヴェインは北の山を見る。
「封印の影響だな」
◇
村人たちが集まった。
ガルドが状況を説明する。
「北の山の異変によって、地下の魔力が村まで流れてきている」
「このままじゃ、畑は?」
村人が尋ねる。
「分からない」
アルヴェインが答える。
「だから、今のうちに手を打つ」
アルヴェインは畑を見渡した。
「まず水路を変える」
「水路?」
「ああ。地下から上がってくる魔力の流れと、水の流れを切り離す」
ノアが頷く。
「俺たちがやろう」
「頼む」
アルヴェインは別の村人を見る。
「枯れ始めた麦は分けてくれ。まだ生きているものまで処分する必要はない」
「分かった」
「家畜は一時的に宿の裏へ」
エマが言う。
「薬や水も移しておくわ」
「頼む」
ガルドが周囲を見渡す。
「皆、聞いたな。できることから始めるぞ」
村人たちが一斉に動き出した。
アルヴェインはその様子を見て、ほんの少し笑った。
「……いい村になったな」
◇
昼。
カイルとリンは、村の北側に立っていた。
「ここから先は俺たちが見張ります」
カイルが言う。
アルヴェインは頷く。
「無理に魔物を追うな」
「はい」
「異変を見つけたら、まず村へ知らせろ」
「分かりました」
リンが笑う。
「ずいぶん素直になりましたね」
「俺だって学ぶんだよ」
「前なら絶対に北へ行ってた」
「……否定できない」
アルヴェインが笑った。
「それでいい」
「え?」
「戦うことだけが強さじゃない」
カイルは北の山を見る。
「守ることも、ですか?」
「ああ」
「覚えておきます」
二人は見張りへ戻った。
◇
その頃。
グラディオンは北の山へ向かっていた。
「待て」
アルヴェインが呼ぶ。
「何だ?」
「無茶はするな」
グラディオンが振り返る。
「誰に言っている?」
「お前にだ」
「俺は黒龍だぞ」
「昔はな」
「今もだ!」
グラディオンが不満そうに翼を広げる。
アルヴェインは笑った。
「昔とは違う」
「何がだ?」
「お前も年を取った」
「……」
グラディオンが黙る。
「アルヴェイン」
「なんだ?」
「今のは聞かなかったことにしてやる」
「助かる」
グラディオンは大きく羽ばたいた。
黒い翼が空を覆う。
「少し見てくる」
「ああ」
グラディオンは北の山へ飛んでいった。
◇
昼を過ぎた頃。
空が突然、暗くなった。
「……?」
ミレアが空を見る。
雲ではない。
北の山から、巨大な魔力が噴き上がっている。
七色の光が山頂付近に浮かんだ。
「アルじいさん!」
アルヴェインが振り返る。
その瞬間。
――ドンッ!
大地が揺れた。
山から轟音が響く。
村人たちが倒れそうになる。
「全員、落ち着け!」
ガルドが叫ぶ。
アルヴェインは北を見つめていた。
見えている。
かつて自分が作った魔法陣。
七つの属性が絡み合い、巨大な封印を形成している。
だが。
その一部が砕けている。
「……まずい」
「アルヴェイン」
ガルドが近づく。
「封印が?」
「ああ」
「直せるのか?」
アルヴェインはしばらく黙った。
「完全には無理だ」
「なぜ?」
「七色の封縛は、もともと未完成だった」
ガルドが目を見開く。
「それを昔、古代龍に使ったのか」
「他に方法がなかった」
アルヴェインは北を見る。
「倒せなかったからな」
◇
その時だった。
東側の畑が大きく揺れた。
「危ない!」
地面が崩れる。
畑の端が沈み始める。
「麦が!」
村人が叫ぶ。
アルヴェインが走る。
杖を取り出す。
「――土よ、支えろ!」
魔力が地面へ流れ込む。
土が持ち上がる。
崩れかけた畑が止まる。
しかし地下から、さらに大きな力が押し上げてくる。
「……っ!」
アルヴェインの額に汗が浮かぶ。
魔力を追加する。
それでも足りない。
「アルじいさん!」
ミレアが叫ぶ。
「下がっていろ!」
アルヴェインは杖を握り直した。
そして。
「……七色の封縛」
七つの光が、アルヴェインの周囲に浮かび上がった。
赤。
青。
緑。
茶。
白。
黒。
そして、それらをつなぐ光。
七つの属性が一つの術式へと組み上がっていく。
「何……これ……」
ミレアが呟く。
アルヴェインは術式を畑へ広げた。
古代龍を封じた時とは違う。
今回は小さい。
村へ流れ込む魔力だけを押し返す。
「――封じろ!」
七色の光が大地を覆った。
地面の揺れが止まる。
崩れていた畑が固定される。
枯れかけていた麦の周囲から、黒い魔力が消えていく。
「……止まった」
誰かが呟いた。
アルヴェインは杖を握ったまま、ゆっくりと息を吐く。
「ふう……」
ミレアが駆け寄る。
「大丈夫?」
「ああ」
「今の……昔の魔法?」
「そうだ」
「でも、あの山に使ったものとは違うよね」
「同じ術を、小さく組み直した」
アルヴェインは畑を見る。
「今の俺に必要なのは、山を封じることじゃない」
そして麦を見た。
「ここを守ることだ」
◇
しかし。
七色の光が消えると、アルヴェインは膝をついた。
「アルじいさん!」
「大丈夫だ」
ミレアが支えようとする。
「少し魔力を使っただけだ」
村人たちが集まってくる。
「もう大丈夫なのか?」
「畑は?」
アルヴェインは周囲を見る。
「完全じゃない」
皆が不安そうな顔をする。
「でも、まだ生きている」
アルヴェインは立ち上がった。
「なら、直せる」
村人たちは頷いた。
誰も魔法だけに頼ろうとはしなかった。
ノアが鍬を持つ。
「じゃあ、俺たちは畑を直す」
エマが言う。
「水路も見直しましょう」
ミレアも頷く。
「私もやる」
トーマも小さな鍬を持った。
「お前は無理するな」
「やる!」
アルヴェインが笑う。
「分かった。じゃあ、そこを頼む」
◇
夕方。
北の空から、黒い影が戻ってきた。
グラディオンだった。
大きな翼を畳み、村の外へ降りる。
「アルヴェイン」
「ああ」
「見てきた」
「どうだった?」
グラディオンの表情が険しい。
「封印は、かなり弱っている」
「そうか」
「あと、そう長くは持たぬ」
アルヴェインは黙った。
「何か見たのか?」
「ああ」
グラディオンは北を見る。
「まだ姿は見えぬ」
「だが?」
「気配は、昔より強い」
アルヴェインは目を閉じた。
あの日。
自分たちが倒せなかった古代龍。
未完成の術にすべてを託した。
それから十九年。
封印は長い年月を耐えた。
だが、限界が近づいている。
「……七色の封縛を、もう一度使うのか?」
グラディオンが尋ねた。
「分からない」
「昔より魔法は完成したのではないのか?」
「完成した部分もある」
「ならば」
「でも、同じ術を使うとは限らない」
アルヴェインは村を見る。
「昔は、古代龍を封じるためだった」
そして、畑を見る。
「今は、この村を守るためだ」
グラディオンはしばらく黙っていた。
「変わったな、アルヴェイン」
「そうか?」
「ああ」
グラディオンは笑った。
「昔のお前なら、すぐ山へ向かっていた」
「……そうだな」
「今は?」
アルヴェインは答えた。
「まず、ここを守る」
◇
夜。
村は静かだった。
宿兼酒場にはまだ明かりが灯っている。
今日の騒ぎで疲れた村人たちが、遅い夕食を取っている。
畑では、今日も麦が風に揺れていた。
アルヴェインはその麦を眺める。
「……」
かつては世界を救うために戦った。
国を守るため。
人々を守るため。
仲間を守るため。
そして今。
自分が守りたいのは、目の前にある小さな村。
小さな畑。
そこで笑う人々。
「俺はもう、世界を救うためには戦わない」
アルヴェインは静かに呟く。
北の山を見る。
「でも――」
杖を握る。
「この村を守るためなら、戦う」
その瞬間。
北の山の奥で、七色の光が大きく揺らいだ。
地鳴りが響く。
グラディオンが空を見上げる。
アルヴェインも北を見た。
まだ、古代龍は姿を現していない。
しかし。
長い眠りから目覚めようとしている。
かつて世界を脅かした古代の存在が。
そして今度は――
世界ではなく、一つの小さな村を揺らそうとしていた。




