第三十九話 七色の封縛
朝。
村の畑に、細い亀裂が走っていた。
「……昨日は、こんなのなかったよね?」
ミレアがしゃがみ込み、土を見つめる。
「ああ」
アルヴェインも同じように地面へ手を置いた。
冷たい。
土の中から、わずかに風が吹き上がっている。
自然の風ではない。
地下深く。
何か大きなものが動いている。
「アルじいさん?」
「……近づいているな」
「何が?」
アルヴェインは答えなかった。
ただ、亀裂を見つめていた。
◇
昼前。
村の北側に、グラディオンが姿を現した。
黒い翼を広げ、ゆっくりと地面へ降り立つ。
「久しいな、アルヴェイン」
「昨日会ったばかりだろ」
「竜にとって一日は短い」
「便利な言い訳だな」
グラディオンが鼻を鳴らした。
「相変わらず口が減らぬ」
ミレアは二人を見比べる。
「本当に昔から知り合いなんだね」
「ああ」
グラディオンが答える。
「昔、こいつと共に戦った」
その言葉に、アルヴェインの表情がわずかに曇った。
「……その話は、まだいい」
グラディオンは何も言わなかった。
そして北の山を見る。
「封印が弱まっている」
アルヴェインの目が鋭くなる。
「やはりそうか」
「昨日より近い」
「分かるのか?」
「竜だからな」
「便利な言葉だな」
「二度も言うな」
グラディオンが不満そうに唸る。
◇
その日の午後。
アルヴェイン、ガルド、グラディオンの三人は、村から少し離れた北側の山道にいた。
ガルドが周囲を見渡す。
「ここまで来ていいのか?」
「ああ」
アルヴェインが答える。
「村から離れすぎなければ問題ない」
岩肌に、古い傷跡が残っていた。
アルヴェインが手を伸ばす。
指先が岩に触れた瞬間――。
淡い光が浮かんだ。
幾重にも重なった魔法陣。
古い。
そして、複雑だった。
ガルドが息を呑む。
「これは……」
「封印の痕跡だ」
「お前がやったのか?」
アルヴェインはしばらく黙っていた。
「そうだ」
グラディオンが低い声で続ける。
「正確には、俺たち全員でやった」
アルヴェインが頷く。
「そうだったな」
◇
遠い昔。
まだアルヴェインが四十九歳だった頃。
魔王との最終決戦を目前に控え、世界は戦火に包まれていた。
その時。
魔王軍は、かつて封印された古代龍の存在に目をつけた。
それを自分たちの戦力として利用するため、封印を解いたのだ。
山を覆うほどの巨体。
空を埋め尽くす翼。
炎を吐けば森が消え、尾が大地を薙げば山肌が崩れる。
魔王軍ですら制御できないほどの力だった。
「……あれを放置すれば、魔王軍どころの話ではない」
当時のアルヴェインが言った。
仲間たちが頷く。
そして彼らは、黒龍グラディオンに協力を求めた。
「俺たちだけでは、あれを止められない」
アルヴェインが言う。
グラディオンは巨大な翼を広げた。
「面白い」
それが、彼らの共闘の始まりだった。
◇
だが。
討伐は失敗した。
何度攻撃しても。
何度魔法を重ねても。
古代龍は倒れなかった。
グラディオンでさえ傷を負った。
仲間たちも限界に近づいていた。
そしてアルヴェインは、最後の手段を選んだ。
「……討伐できないなら、封じる」
「できるのか?」
仲間が尋ねる。
アルヴェインは答えた。
「分からない」
「分からない?」
「完成していない術だからな」
アルヴェインが長年研究していた術。
火。
水。
風。
土。
光。
闇。
そして、それらをつなぐ魔力。
複数の属性を一つの術式へ融合させる、未完成の封印魔術。
アルヴェインはそれを、静かに口にした。
「――七色の封縛」
七つの光が、戦場を包んだ。
赤。
青。
緑。
茶。
白。
黒。
そして、それらすべてをつなぐ最後の輝き。
七つの力が絡み合い、巨大な封印となって古代龍を包み込んでいく。
「ぐおおおおおおおおっ!」
古代龍が咆哮する。
大地が揺れる。
空が震える。
それでもアルヴェインは術を止めなかった。
「まだだ……!」
魔力が削られていく。
術式が崩れかける。
未完成だった。
少しでも制御を間違えれば、封印そのものが暴走する。
「アルヴェイン!」
グラディオンが叫ぶ。
「耐えろ!」
「分かっている!」
七つの属性が重なった。
そして――。
古代龍の姿が、光の奥へ消えていった。
完全に倒したわけではない。
消滅させたわけでもない。
ただ。
封じ込めた。
◇
現在。
アルヴェインは岩肌から手を離した。
「……あれが、七色の封縛だ」
ガルドが魔法陣を見る。
「未完成だったのか」
「ああ」
「それで、あれを封じた?」
「それしかなかった」
グラディオンが言った。
「俺たちは倒せなかった」
アルヴェインも頷く。
「だから封じた」
「そして今、その封印が弱まっている」
「そういうことだ」
しばらく沈黙が続いた。
ガルドが尋ねる。
「古代龍が目覚めたら……どうなる?」
アルヴェインは北の山を見る。
「分からない」
そして少し間を置いて、
「だが、昔より状況は悪い」
と答えた。
「なぜだ?」
「今は戦争じゃない」
アルヴェインは村を見る。
「ここには、戦うために生きている人間はいない」
畑。
家。
宿兼酒場。
そこで暮らす人々。
「だから、できるだけ戦わせたくない」
◇
その頃。
村では、井戸の水が濁っていた。
「昨日まで普通だったのに……」
エマが水を確認する。
「地下が揺れているせいかもしれない」
ノアが言った。
さらに畑の端では、土が崩れている。
ミレアたちは村人と一緒に土を戻していた。
「こっち、持って!」
「うん!」
トーマも小さな籠を抱えて走る。
誰かが命令したわけではない。
誰か一人に任せたわけでもない。
村人たちが、自分たちで動いている。
そこへアルヴェインたちが戻ってきた。
「アルじいさん!」
ミレアが駆け寄る。
「山、どうだった?」
「少し悪い知らせだ」
「……やっぱり?」
「ああ」
アルヴェインは村人たちを見る。
「だが、今すぐ逃げる必要はない」
村人たちが顔を見合わせる。
「今まで通り、できることをする」
「畑も?」
「畑もだ」
◇
夜。
突然、大地が大きく揺れた。
「きゃっ!」
家々が揺れる。
宿兼酒場の食器が床へ落ちる。
「みんな、外へ!」
ガルドが叫ぶ。
村人たちが避難する。
アルヴェインは北側へ走った。
東の畑。
地面が大きく崩れ始めている。
「アルじいさん!」
ミレアが叫ぶ。
「下がれ!」
アルヴェインが杖を取り出す。
そして地面へ突き立てた。
「――土よ、支えろ」
魔力が広がる。
土が持ち上がる。
崩れかけた畑が、ゆっくりと固定されていく。
だが。
それだけでは足りない。
アルヴェインの額に汗が浮かぶ。
「もう少し……!」
土の奥から、さらに大きな振動。
アルヴェインは魔力を追加する。
そしてようやく。
崩壊が止まった。
「……ふう」
アルヴェインが息を吐く。
ミレアが駆け寄る。
「大丈夫?」
「ああ」
「今の魔法……」
「畑を守っただけだ」
「でも、すごかった」
アルヴェインは倒れた麦を見る。
「まだ全部は守れてない」
村人たちが集まってくる。
そして誰からともなく、倒れた麦を起こし始めた。
アルヴェインも鍬を手に取る。
「よし」
「アルじいさん、魔法で全部直さないの?」
ミレアが聞く。
アルヴェインは笑った。
「魔法で守るところと、自分たちで守るところがある」
「……そっか」
◇
深夜。
村の外。
アルヴェイン、ガルド、グラディオンが北の山を見ていた。
再び地鳴りが響く。
――ドン。
グラディオンが低く唸る。
「封印が揺らいだ」
「ああ」
アルヴェインは目を閉じた。
遠い昔。
仲間たちと共に立った戦場。
燃える大地。
傷ついたグラディオン。
そして、自分が完成していなかった術にすべてを賭けた瞬間。
「七色の封縛……」
アルヴェインが呟く。
未完成だった。
だからこそ、あの古代龍を倒せなかった。
だからこそ、封じることしかできなかった。
「もう一度、あれを使うつもりか?」
グラディオンが尋ねる。
アルヴェインはすぐには答えなかった。
村を見る。
宿兼酒場の明かり。
眠っている子供たち。
畑。
今日、皆で直した麦。
「……まだ決めていない」
アルヴェインは答えた。
「昔と同じやり方をするつもりはない」
「そうか」
グラディオンが北を見る。
「だが、あれは待ってはくれぬぞ」
「分かっている」
アルヴェインの目が、静かに北を見据える。
「今度は――」
そこで言葉を止めた。
山の奥から。
巨大な咆哮が響いた。
空気が震える。
村の犬たちが一斉に吠えた。
グラディオンの翼が大きく開く。
「……目覚め始めたな」
アルヴェインは杖を握り直した。
しかし、まだ抜かない。
まだ戦わない。
今度は一人ではない。
かつて世界を救うために使った魔法を。
今度は、目の前にある小さな暮らしを守るために使う。
北の山の奥。
長い年月を閉じ込めていた封印が――
七色の光をわずかに揺らしていた。




