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名も知られぬ大賢者は畑を作って余生を過ごす  作者: まーサンタ
第四部 大賢者、畑を守る

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第三十八話 黒い翼


 朝。


 村の東側にある畑では、いつものように人々が働いていた。


「アルじいさん、こっちの麦はもう大丈夫そう」


 ミレアが声をかける。


「ああ。根も傷んでいない」


 アルヴェインは土を確認しながら答えた。


 昨日、魔物に荒らされた畑。


 村人たちは一晩かけて、できるところまで修復していた。


「よかった」


 ミレアが笑う。


 その時だった。


 突然、畑に影が落ちた。


「……?」


 ミレアが空を見上げる。


 アルヴェインも顔を上げた。


 太陽が隠れている。


 いや。


 太陽を隠しているものがいる。


「何、あれ……」


 巨大な翼。


 黒い鱗。


 長い尾。


 空を覆うほどの巨体が、北の山からゆっくりと飛んできた。


「竜……?」


 ミレアの声が震える。


 村人たちが次々と空を見上げる。


 誰も動けない。


 巨大な竜は村の上空を一周すると、そのまま北側へ向かった。


 ほんの一瞬。


 アルヴェインと竜の目が合った。


 金色の瞳。


 その瞬間、アルヴェインの表情が変わった。


「……グラディオン」


     ◇


 宿兼酒場。


 村人たちが集まっていた。


「竜が出たぞ!」


「北の山だ!」


「黒い竜だった!」


「村を襲うんじゃないのか?」


 不安が広がる。


 ガルドも険しい顔をしている。


「アルヴェイン」


「ああ」


「知っているのか?」


「昔、一度会ったことがある」


「それだけか?」


「それ以上は、今はいいだろう」


 ガルドはアルヴェインの顔を見る。


 昔のことを知る自分だからこそ、その言葉の裏にあるものが分かる。


「……そうか」


 ミレアが聞く。


「アルじいさん、本当に知ってるの?」


「ああ」


「どんな竜?」


「気難しい」


「それだけ?」


「食い意地も張っている」


「……竜なのに?」


「竜だからだ」


 ミレアが首を傾げた。


     ◇


 昼前。


 カイルとリンが北側から戻ってきた。


「アルヴェインさん!」


「どうした?」


「北の山に竜がいます!」


「知っている」


「知ってるって……」


 カイルが目を丸くする。


「討伐隊を呼んだほうがいいんじゃないですか?」


「必要ない」


「でも竜ですよ!」


 アルヴェインはカイルを見る。


「だから何だ?」


「村を襲われたら大変です!」


「まだ襲われていない」


「でも!」


「カイル」


 アルヴェインの声は静かだった。


「まだ何もしていない相手を、こちらから倒しに行く理由はない」


 カイルは黙った。


 リンがアルヴェインを見る。


「……あの竜が何をするのか、分かっているんですね」


「ある程度はな」


「どうして?」


「昔から、あいつは分かりやすい」


「そうなんですか?」


「腹が減っている時は、特にな」


 リンは苦笑した。


「竜のことをそんなふうに言う人、初めて見ました」


「俺も昔は、もっと恐ろしい存在だと思っていた」


 アルヴェインは北を見る。


「まあ、実際に恐ろしいがな」


     ◇


 昼過ぎ。


 再び巨大な羽音が響いた。


 ――バサァァァッ!


「来た!」


 村人たちが一斉に空を見る。


 黒い竜が降下してくる。


 地面が震えた。


 砂埃が舞う。


 竜は村の北側。


 昨日まで魔物を追い返すために作った土壁の向こうへ着地した。


「グルルル……」


 村人たちは凍りつく。


 カイルが剣に手をかける。


「抜くな」


 アルヴェインが言った。


「でも……!」


「大丈夫だ」


 アルヴェインは一人で竜へ近づいた。


 竜もアルヴェインを見る。


 そして。


 巨大な頭を少し下げた。


「久しいな、アルヴェイン」


 低く響く声。


 村人たちが固まった。


「……喋った?」


 ミレアが呟く。


 アルヴェインはため息をついた。


「久しいな、グラディオン」


「相変わらずつまらぬ返しをする」


「相変わらず馴れ馴れしいな」


「何を今さら」


 グラディオンは大きな鼻息を吐いた。


「お前とは昔からそうだろう」


 アルヴェインは少し笑った。


「まあな」


     ◇


 グラディオンは村を見渡した。


「随分と小さな場所に住んでいるな」


「悪かったな」


「別に悪いとは言っておらぬ」


 グラディオンは畑を見る。


 その視線が、ある場所で止まった。


「……あれは?」


「何だ?」


「芋だ」


 アルヴェインが眉をひそめる。


「そうだな」


「食っていいか?」


「駄目だ」


「なぜだ」


「村人の畑だからだ」


「昔はお前が許可してくれたではないか」


「昔は俺の畑じゃなかった」


「?」


「ここは村の畑だ」


 グラディオンはしばらく考えた。


「ならば、村人に頼めばいいのか」


「そういうことだ」


 グラディオンが村人を見る。


 誰も動かない。


 やがて、ミレアが恐る恐る手を挙げた。


「……少しなら」


「よい」


 グラディオンは満足そうに頷いた。


 そして畑から芋を一つ掘り出した。


「おい」


 アルヴェインが呆れる。


「それはまだ育てている途中だ」


「む」


 グラディオンが芋を見る。


「では、もっと待つ」


「そうしてくれ」


 村人たちの間から、緊張が少しずつ解けていく。


 カイルが小声でリンに言った。


「……竜って、こんな感じなのか?」


「知らないわよ」


     ◇


 夕方。


 村の外れ。


 グラディオンは大きな身体を横たえていた。


 トーマが少し離れたところから見ている。


「……」


 じっと竜を見る。


 グラディオンが片目を開けた。


「何だ、小僧」


「……触っていい?」


「好きにせよ」


 トーマが恐る恐る近づく。


 そして翼に触れた。


「わあ……」


「どうだ」


「ふわふわ!」


 グラディオンの眉間に皺が寄る。


「竜の鱗をふわふわと呼ぶな」


「でも、ちょっとふわふわしてる」


「……」


 グラディオンは何も言い返せなかった。


 ミレアが笑う。


「トーマ、すごいね」


「怖くないよ」


「私はちょっと怖いけど」


「お前は小心者だな」


 グラディオンが言う。


「竜に言われたくない!」


 ミレアが言い返す。


 村人たちから笑い声が起こった。


 アルヴェインは少し離れた場所から、その光景を見ていた。


 かつて戦場で向き合った竜。


 今は子供に翼を触られている。


「……時代が変わったな」


 アルヴェインが呟く。


     ◇


 夜。


 村の明かりが少なくなった。


 グラディオンは村の外れで北を向いていた。


 アルヴェインが隣へ歩いていく。


「久しぶりだな」


「ああ」


 グラディオンが答える。


「お前がこんな場所で畑を耕しているとはな」


「俺もそう思う」


「世界を救った大賢者が、麦の出来を気にしている」


「その呼び方はやめろ」


「なぜだ?」


「もう昔の話だ」


 グラディオンはアルヴェインを見る。


「お前は変わったな」


「そうか?」


「昔のお前なら、あの山を一人で吹き飛ばしていた」


「……」


「今は畑を守っている」


 アルヴェインは村を見る。


「それでいいんだ」


「なぜ戦わぬ?」


 アルヴェインは少し黙った。


「戦争は終わった」


「それでも世界は争う」


「知っている」


「ならば――」


「もう、世界全部を背負うつもりはない」


 グラディオンは黙った。


 アルヴェインは続ける。


「ここには、俺が守りたいものがある」


「畑か?」


「畑もだ」


 アルヴェインは村を見る。


「家も、人も、あいつらの明日も」


 グラディオンはしばらく黙っていた。


 そして低く言った。


「そうか」


     ◇


「だがな、アルヴェイン」


 グラディオンの声が変わった。


 軽さが消えている。


「俺がここへ来た理由は、芋ではない」


 アルヴェインが北を見る。


「……やっぱりか」


「北の山から、何かが動いた」


「何だ?」


「分からぬ」


「お前でも?」


「俺だからこそ分かる」


 グラディオンは翼をわずかに動かした。


「俺も、あれから逃げてきた」


 アルヴェインの目が細くなる。


「お前が?」


「ああ」


 北の山。


 その奥。


 そこには、グラディオンほどの存在さえ警戒する何かがいる。


「魔物たちは、俺を恐れて逃げたのではない」


 グラディオンは言った。


「俺もまた、あれを恐れている」


 風が止まった。


 アルヴェインは何も言わない。


 ただ、北の山を見つめる。


「……そうか」


「久しぶりに会ったというのに、嫌な話だな」


「お互い様だ」


 グラディオンが笑うように喉を鳴らした。


「相変わらずだな、アルヴェイン」


「お前もな」


     ◇


 翌朝。


 畑の端にグラディオンが座っていた。


 村人たちはまだ少し緊張している。


 だが、昨日ほどではない。


 トーマがグラディオンの翼を撫でている。


「ねえ、グラディオン」


「何だ」


「また来る?」


「芋がうまければな」


「じゃあ、今度もっと大きいのあげる!」


「期待しておこう」


 アルヴェインはその会話を聞きながら、畑を耕していた。


 ふと、北を見る。


 グラディオンも同時に北を見た。


 二人の視線が重なる。


「……あれが来る」


 グラディオンが呟く。


「ああ」


 アルヴェインも答えた。


 黒竜は敵ではなかった。


 むしろ、かつて戦場を共にした者に近い存在だった。


 だが。


 そのグラディオンですら恐れる何かが、北の山にいる。


 アルヴェインは鍬を握り直した。


「まだ畑を守らないとな」


「お前は本当にそればかりだな」


「大事なことだからな」


 黒い翼の向こう。


 北の山では、再び地鳴りが響いた。


 大地の奥で。


 何かが、目を覚まそうとしていた。

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