第三十七話 山から来たもの
朝。
ミレアは畑へ向かう途中で、足を止めた。
「……あれ?」
昨日まで村の北側にいた、傷ついた魔物の姿がない。
柵の近く。
いつもガルと少し距離を取って座っていた場所も、空になっている。
「アルじいさん!」
畑で鍬を持っていたアルヴェインが振り返る。
「どうした?」
「あの魔物がいないの」
「そうか」
「北へ帰ったのかな?」
「見てみよう」
二人は柵の外へ出た。
ガルもついてくる。
地面には、魔物の足跡が残っていた。
アルヴェインはしゃがみ込む。
「……北じゃないな」
「え?」
「西へ向かっている」
足跡は村の西側へ続いている。
そして、その先で南へ曲がっていた。
「どうして?」
「分からない」
アルヴェインは足跡を見つめる。
「ただ……」
「ただ?」
「北を避けている」
ガルが北の森を見た。
アルヴェインも同じ方向を見る。
「……何かいるな」
◇
昼前。
カイルとリンが北側の森から戻ってきた。
「アルヴェインさん」
カイルの顔は真剣だった。
「森の中で、倒れた木を見つけました」
「どのくらい?」
「十本以上です」
リンが続ける。
「自然に倒れた感じじゃありません」
「見せてくれ」
三人は北側へ向かった。
森の中。
太い木が何本も倒れていた。
根元から折れているものもあれば、途中から引き裂かれたようになっているものもある。
アルヴェインは一本の木に近づいた。
幹に深い傷が刻まれている。
「……」
指先で傷をなぞる。
「爪?」
カイルが聞く。
「似ている」
「なら、魔物ですか?」
「分からない」
アルヴェインは傷の幅を見る。
「ただ、普通の魔物じゃない」
リンが周囲を見回した。
「この大きさの傷をつけられる生き物って……」
「少なくとも、村の近くにいるような魔物じゃないな」
アルヴェインは立ち上がった。
「戻ろう」
「調べないんですか?」
カイルが驚く。
「これ以上は危険だ」
「でも原因が――」
「原因を知るために怪我をする必要はない」
アルヴェインは静かに言った。
「今は村を守ることが先だ」
カイルは不満そうだったが、頷いた。
◇
午後。
村人の畑で、また騒ぎが起きた。
「アルヴェインさん!」
村人の一人が走ってくる。
「畑が変なんだ!」
「魔物か?」
「違う!」
アルヴェインが畑へ向かう。
麦畑の一部が倒れている。
しかし、荒らされた跡はない。
土も掘り返されていない。
まるで、下から何かに押されたように、麦だけが揺れていた。
「……」
アルヴェインはしゃがむ。
土に手を置く。
目を閉じる。
わずかに振動が伝わってくる。
「……地下を何かが通った」
「地下?」
ミレアが驚く。
「ああ」
アルヴェインは立ち上がる。
「かなり大きい」
村人たちの顔が強張った。
「地面の下を、そんなものが……?」
「今はもう遠ざかっている」
「じゃあ、大丈夫なのか?」
「分からない」
アルヴェインは北を見る。
「ただ、北から来ていることだけは確かだ」
◇
「だったら、やっぱり北へ行きましょう!」
カイルが言った。
村の広場。
集まった村人たちの前で、カイルは剣の柄に手を置いている。
「原因を突き止めないと、このまま魔物が流れてくるだけです!」
「カイル」
アルヴェインが呼ぶ。
「はい」
「行かない」
「でも!」
「今、北へ行けば村が手薄になる」
「俺とリンだけでも――」
「駄目だ」
アルヴェインの声は穏やかだった。
だが、迷いがない。
「村を守ることが目的だ」
「……」
「原因を探すことが目的になったら、本末転倒だ」
カイルは黙った。
リンが横から言う。
「カイル」
「分かってる」
「本当に?」
「……分かってるよ」
カイルは剣から手を離した。
「俺は、まだ焦ってるみたいです」
アルヴェインは少し笑った。
「焦るのは悪いことじゃない」
「え?」
「焦っていると分かれば、止まれる」
カイルはその言葉を聞いて、少しだけ表情を和らげた。
◇
夕方。
ガルが突然立ち止まった。
「……?」
ミレアが不思議そうに見る。
「どうしたの、ガル?」
ガルは村の北側にいる。
だが、森ではない。
さらにその向こう。
山の頂上付近を見つめていた。
「ガル?」
アルヴェインが呼ぶ。
いつもならすぐに振り返る。
しかし今日は違った。
「……」
朱色の瞳が、じっと山を見ている。
低く唸る。
「グルル……」
アルヴェインが近づいた。
「何か見えるのか?」
ガルは答えない。
「お前も知っているのか?」
ガルの耳が動いた。
アルヴェインはその反応を見逃さなかった。
「……そうか」
ガルが知っている。
いや。
正確には、知っているのではない。
感じ取っている。
その存在の気配を。
◇
夜。
村は宿兼酒場を中心に、早めに戸締まりを始めていた。
見張りも二人一組で立っている。
アルヴェインは家の外に出ていた。
ガルが隣にいる。
その時だった。
――ズン。
「……!」
地面が揺れた。
村人たちが一斉に外へ出る。
「地震か?」
「違う!」
ガルが北を向いて唸る。
続いて。
――ズズン。
今度はさらに大きく揺れた。
北の山から、石が転がり落ちてくる。
「山が……!」
誰かが叫ぶ。
アルヴェインは目を凝らした。
山の斜面。
月明かりの中。
何か巨大なものが動いている。
木々が倒れる。
岩が崩れる。
そして一瞬だけ。
巨大な影が月明かりに浮かび上がった。
「……!」
ミレアが息を呑む。
「何、あれ……」
影の頭部。
そこから伸びる、二本の巨大な角。
しかし次の瞬間には、影は森の向こうへ消えた。
「見えた?」
カイルがリンに尋ねる。
「一瞬だけ」
「何だった?」
「分からない」
アルヴェインは答えなかった。
ただ、影が消えた山を見つめている。
「アルじいさん?」
ミレアが声をかける。
「……まだ分からない」
いつもの答え。
だが。
ガルドだけは、アルヴェインの顔を見ていた。
その表情を。
昔の戦場を知る者にしか分からない、ほんのわずかな変化を。
◇
深夜。
村は静かになった。
アルヴェインは一人、家の外に立っていた。
北の山を見る。
「……」
記憶の奥から、古い光景が蘇る。
燃える大地。
崩れる城壁。
空を覆う黒い影。
仲間たちの声。
そして。
巨大な存在と向き合った、あの日。
アルヴェインは目を閉じる。
記憶はすぐに消えた。
「……まだ眠っていると思っていた」
誰に言うでもなく呟く。
背後でガルが立ち上がった。
「わふ……」
「そうだな」
アルヴェインはガルを見る。
「お前も感じたか」
ガルは北を見た。
アルヴェインも振り返る。
山は暗闇に沈んでいる。
しかし、その奥に何かがいる。
それだけは分かる。
アルヴェインは村を見る。
宿兼酒場の明かり。
村人たちの家。
そして、畑。
昨日までなら、それを守れば十分だった。
だが。
「ここまで来るなら……」
アルヴェインの目が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「畑だけじゃ済まないか」
風が吹いた。
麦が静かに揺れる。
アルヴェインはその場から動かなかった。
まだ杖は取らない。
まだ戦わない。
けれど、かつて世界を救った男だけが知っている。
あの山にいるものが、ただの魔物ではないことを。
そして――。
それが村へ近づいていることを。




