第三十六話 畑を守る仲間たち
翌朝。
村の東側にある畑には、朝早くから人が集まっていた。
昨日、魔物に荒らされた畑。
倒れた麦。
掘り返された土。
踏み荒らされた畝。
そこを、村人たちが一つずつ元に戻している。
「こっちの麦、まだ根が生きてるぞ!」
「じゃあ、起こしてやろう」
「水を少しだけ持ってきてくれ!」
あちこちから声が飛ぶ。
その中で、一番泥だらけになっているのがアルヴェインだった。
「アルじいさん、そこはもういいんじゃない?」
ミレアが声をかける。
「いや。ここは土が固くなってる」
アルヴェインは鍬を入れる。
「根が呼吸できない」
「そんなことまで分かるの?」
「土を触れば分かる」
「すごい……」
ミレアが感心する。
しかしアルヴェインは、特別なことをしたつもりはなかった。
「農夫なら、このくらいは分かる」
その少し離れた場所で、トーマが昨日の土壁を眺めていた。
「アルじいちゃん」
「ん?」
「これ、本当に魔法?」
「ああ」
「じゃあ、これがあればもう大丈夫?」
アルヴェインは土壁を見る。
昨日、自分が作った防壁。
魔物を追い返すには十分だった。
しかし――。
「いや」
アルヴェインは首を振った。
「これだけじゃ村は守れない」
「どうして?」
「魔法は便利だが、全部を任せるものじゃないからな」
トーマは少し考えた。
「じゃあ、どうするの?」
アルヴェインは周囲を見る。
鍬を持つ村人。
壊れた柵を直すノア。
薬草を整理するエマ。
子供たちをまとめるミレア。
そして村長として皆に指示を出すガルド。
「みんなで守る」
アルヴェインは言った。
◇
昼前。
村の広場に人が集まった。
ガルドが口を開く。
「昨日のことを考えれば、しばらく警戒を強める必要がある」
村人たちが頷く。
「まず、北側の柵を強くする」
ノアが手を上げる。
「金具なら俺が作る」
「頼む」
「それから?」
「夜の見張りだ」
ガルドが続ける。
「一人で見張らず、二人以上で交代する」
「俺もやる!」
トーマが手を挙げる。
「お前は夜更かし禁止だ」
「えー!」
村人たちから笑いが起こる。
「子供は大人が守る」
ガルドはそう言ってから、アルヴェインを見る。
「それでいいか?」
「十分だ」
アルヴェインは頷いた。
「それと、宿兼酒場を避難場所にする」
宿の主人が頷く。
「地下の貯蔵庫も片づけておく」
「水と食料も必要ね」
エマが言う。
「薬もまとめておくわ」
「頼む」
アルヴェインは村人たちを見渡した。
誰もが自分にできることを考えている。
昔なら。
自分一人が魔法を使えば済んだ。
今は違う。
ここには、ここで暮らす人たちがいる。
それぞれの手がある。
それぞれの知恵がある。
それぞれの守りたいものがある。
◇
午後。
北側の柵では、ノアが金具を取り付けていた。
「これでいい」
太い金具を木杭に打ち込む。
アルヴェインが横から見る。
「少し重いな」
「壊されないことを優先した」
「なるほど」
「お前なら魔法で直せるんだろ?」
「まあな」
ノアは鼻を鳴らした。
「だが、俺は鍛冶屋だ。自分で直せるものは自分で直す」
アルヴェインが笑う。
「いい考えだ」
「お前に言われると妙な感じだな」
◇
その頃。
カイルはアルヴェインの後を歩いていた。
「アルヴェインさん」
「なんだ?」
「魔法を教えてください」
「まだ早い」
即答だった。
「またですか?」
「ああ」
「どうしてです?」
アルヴェインは歩きながら答える。
「お前は魔法を覚える前に、周りを見ることを覚えたほうがいい」
「周り?」
「昨日、魔物を見た瞬間に剣を抜いたな」
「……はい」
「それが悪いとは言わない」
アルヴェインは立ち止まる。
「だが、昨日の魔物は村を襲うつもりだったか?」
「……違いました」
「そうだ」
「でも、魔物ですよ」
「だから?」
「敵かもしれない」
「かもしれない、だ」
アルヴェインはカイルを見る。
「戦う前に、それを確かめる」
「……」
「それができるようになったら、魔法を教えてやる」
カイルはしばらく考えた。
「分かりました」
「本当に?」
「はい」
リンが後ろからやってきた。
「珍しく素直ね」
「俺だって学ぶんだよ」
「昨日よりは成長したかな」
「昨日と比べるなよ」
二人のやり取りを見て、アルヴェインは笑った。
◇
夕方。
畑の端で、リンが昨日の土壁を見ていた。
「……」
指で土を触る。
「すごく硬い」
アルヴェインが振り返る。
「そうか?」
「普通の土魔法じゃないですよね」
「土魔法だ」
「そういう意味じゃなくて」
リンはアルヴェインを見る。
「魔力の消費が、ほとんど感じられませんでした」
「土がそこにあったからな」
「……」
リンが黙る。
「そういう問題じゃないと思います」
アルヴェインは笑った。
「まあ、細かいことは気にするな」
「気になります」
「そうか」
リンはそれ以上追及しなかった。
ただ。
この老人が、見せている力だけが全てではないことを、改めて感じていた。
◇
夕暮れ。
ミレアが畑でアルヴェインの隣に座った。
「ねえ、アルじいさん」
「なんだ?」
「本当に魔法を使うのが嫌なの?」
「嫌いじゃない」
「じゃあ、どうして使わないの?」
アルヴェインは少し考えた。
「便利すぎるからだ」
「便利すぎる?」
「ああ」
アルヴェインは土を握る。
「魔法なら、土を耕すのも、水を運ぶのも、家を直すのも一瞬だ」
「それなら便利じゃない」
「だから困る」
「どうして?」
「自分の手でやらなくなるからな」
ミレアは黙っている。
「土を耕せば、土の状態が分かる」
アルヴェインは続ける。
「水を運べば、どれくらい必要か分かる」
「……」
「人と一緒に働けば、誰が何を得意としているかも分かる」
アルヴェインは村を見る。
「魔法ですべて終わらせたら、そういうものを見落とす」
ミレアは少し笑った。
「だから畑仕事のほうが難しいんだ」
「そういうことだ」
◇
その日の夕方。
北側の見張りから声が上がった。
「何かいる!」
村人たちが一斉に振り返る。
アルヴェインも立ち上がった。
ガルが走る。
柵の向こう。
森の影に、一匹の獣がいた。
「……!」
昨日、傷を治した魔物だった。
「また来たの?」
ミレアが驚く。
魔物は村へ入ってこない。
柵の外から北を見ている。
「グルル……」
低い唸り。
ガルも同じ方向を見る。
「わふ……」
アルヴェインが近づく。
「どうした?」
魔物は振り返った。
そして北を向く。
また唸る。
「……警告しているのか」
リンが呟く。
「何に対して?」
カイルが聞く。
アルヴェインは北を見る。
「分からない」
だが、魔物の様子から何かを感じ取っていた。
「ただ」
アルヴェインは村人たちを見る。
「こいつは、俺たちに何かを知らせようとしている」
誰も魔物を追い払わなかった。
しばらくすると、魔物は森の中へ消えていった。
◇
夜。
村の北側。
アルヴェインとガルが並んで立っている。
少し離れた場所には、あの魔物の姿もあった。
北の山から、また低い地鳴りが響く。
「……近いな」
「わふ」
アルヴェインは村を振り返る。
宿兼酒場には明かりが灯っている。
誰かが見張りをしている。
別の家では、明日の食事の準備をしている。
畑では、今日直した麦が風に揺れている。
アルヴェインは小さく笑った。
「一人で守る必要はない、か」
ガルが尻尾を振る。
「わふ」
「そうだな」
アルヴェインは北を向いた。
かつては、一人で世界を守ろうとした。
今は違う。
鍛冶師がいる。
薬師がいる。
村長がいる。
若い冒険者たちがいる。
そして、畑で働く村人たちがいる。
守る力は、一人だけのものではない。
「明日も忙しくなりそうだ」
アルヴェインは空を見上げた。
北の山には、黒い雲がかかっている。
その向こうで何かが動いている。
それでも今夜、アルヴェインは杖を手に取らなかった。
代わりに、明日の朝に使う鍬を家の壁に立てかけた。
大賢者が守る村は、少しずつ「大賢者だけの村」ではなくなっていた。
そこには、守る者たちが増えていた。




