第三十五話 麦を守る魔法
夜明け前。
村はまだ眠っていた。
宿兼酒場の明かりも消え、家々の窓も暗い。
ただ、村の北側にいるガルだけが起きていた。
「……」
灰色の毛が風に揺れる。
朱色の瞳が、暗い森を見つめていた。
何かがいる。
昨日までとは違う。
近い。
そして――数が多い。
「グルル……」
ガルが低く唸った。
◇
「火事だ!」
村に叫び声が響いた。
「畑が!」
アルヴェインは飛び起きた。
家の外へ出る。
東の空が、わずかに明るくなっている。
その向こう。
村人たちの畑から煙が上がっていた。
「……東の畑か」
アルヴェインは走り出した。
ガルも続く。
「アルじいさん!」
途中でミレアが駆けてくる。
「何があったの?」
「分からん。畑へ行く」
「私も!」
「無理するな」
「嫌!」
ミレアはそのままついてきた。
◇
村の東側。
麦畑の一部が荒らされていた。
土が掘り返され、麦が倒れている。
さらに、畑の端では火が燃えていた。
「水を!」
村人たちが桶を持って走る。
アルヴェインは周囲を見る。
畑を荒らしたのは、昨日の魔物とは違う。
大きな足跡。
爪の跡。
そして焦げた地面。
「……三匹」
アルヴェインが呟く。
「何が?」
ミレアが聞く。
「魔物だ」
北側から入り、畑を横切って南へ抜けている。
しかし、途中で何度も方向を変えている。
「逃げてる」
アルヴェインは北を見る。
昨日までの推測が、確信へ変わった。
魔物たちは村を狙っているのではない。
何かに追われ、逃げ場を求めている。
そして、その途中で村の畑を荒らしている。
「アルヴェインさん!」
カイルが駆けてきた。
剣を抜いている。
「魔物がまだ近くにいます!」
「何匹だ?」
「分かりません!」
リンも続く。
「北側から何体か来ています」
村人たちの顔が青ざめる。
「こっちへ来るのか?」
「畑だけじゃない。家まで来たら……」
ざわめきが広がる。
アルヴェインは静かに周囲を見た。
畑。
家。
宿兼酒場。
人々。
そして、泣きそうな顔をしているトーマ。
「アルじいちゃん……」
「大丈夫だ」
アルヴェインは答えた。
「ここは俺が守る」
◇
森から、魔物が飛び出した。
一匹。
二匹。
三匹。
さらに奥から、別の影が現れる。
「来た!」
カイルが剣を構える。
「待て」
アルヴェインが手を上げた。
「でも!」
「村人を下がらせろ」
カイルは一瞬迷った。
しかし、すぐに頷く。
「分かりました!」
「リン」
「はい」
「子供たちを宿兼酒場へ」
「任せて」
リンがミレアを見る。
「ミレア、トーマをお願い」
「うん!」
「行くよ!」
ミレアがトーマの手を取る。
「でもアルじいちゃんは?」
トーマが振り返る。
アルヴェインは笑った。
「畑を守ってくる」
「……うん!」
トーマは頷いた。
◇
魔物が畑へ踏み込んだ。
麦が倒れる。
土がえぐれる。
村人たちから悲鳴が上がる。
アルヴェインは立っていた。
手には何も持っていない。
杖もない。
剣もない。
ただ、魔物を見ている。
「……なるほど」
魔物たちは興奮している。
だが、殺意は村人へ向いていない。
北を何度も振り返っている。
「お前たちも怖いんだな」
一匹の魔物が唸る。
アルヴェインは目を閉じた。
ほんの一瞬。
昔の感覚が戻る。
魔力。
大地。
風。
火。
水。
かつてなら、この程度の魔物を一瞬で消し飛ばすこともできた。
だが。
「……違うな」
アルヴェインは目を開いた。
「お前たちを倒す必要はない」
守るべきなのは、魔物ではない。
この畑だ。
村人たちが一年かけて育ててきた麦。
食卓へ並ぶ野菜。
冬を越すための食料。
それを守る。
アルヴェインは右手を地面へ向けた。
「なら――」
小さく息を吐く。
「これくらいなら、使ってもいいだろう」
◇
アルヴェインの足元から、淡い光が広がった。
「……え?」
遠くから見ていたガルドが息を呑む。
地面がわずかに震える。
だが、爆発は起きない。
炎も噴き上がらない。
空も割れない。
ただ――。
畑の土が静かに盛り上がった。
魔物たちの前に、土の壁が伸びていく。
一本。
二本。
三本。
畑を囲うように、低い土壁が瞬く間に完成する。
「……!」
村人たちが言葉を失う。
魔物たちは土壁に遮られ、進む方向を失った。
アルヴェインは指を動かす。
土壁の間に細い道が開く。
その先は、村の外。
「こっちだ」
魔物たちは戸惑いながらも、その道へ進んでいく。
アルヴェインは攻撃しない。
追い払うだけだった。
最後の一匹が村の外へ出る。
そこで魔法が消えた。
静寂が戻る。
◇
「……今の」
ミレアが呟いた。
宿兼酒場から様子を見ていた。
トーマも目を丸くしている。
「アルじいちゃんが魔法を使った……」
リンは黙っていた。
カイルも同じだった。
やがてカイルが言う。
「……すごい」
リンが小さく頷く。
「でも」
「え?」
「攻撃魔法じゃない」
リンは土壁を見る。
「魔物を傷つけていない」
カイルも気づいた。
「追い払っただけ……」
「うん」
それが、今のアルヴェインだった。
◇
村人たちが畑へ集まってくる。
「すごい……」
「土の壁が……」
「一瞬で作ったぞ」
アルヴェインは畑を見回した。
倒れた麦。
荒れた土。
踏み荒らされた畝。
「……結構やられたな」
村人の一人が苦笑する。
「まあ、これくらいなら直せる」
「そうだな」
アルヴェインはしゃがみ込み、倒れた麦を起こす。
ミレアも隣に座る。
「魔法を使ったのに、結局これやるんだ」
「当然だ」
「魔法で直せないの?」
アルヴェインは少し考える。
「直せる」
「じゃあ――」
「でも、自分で直したほうが早い」
「……本当に?」
「それに」
アルヴェインは倒れた麦を土に戻す。
「育つかどうかは、魔法じゃ決められないからな」
ミレアは黙った。
そして、笑った。
「じゃあ、私もやる」
「頼む」
◇
昼頃。
畑の修復が始まった。
村人たちが土を戻す。
ノアは壊れた柵を直す。
エマは怪我をした村人の手当てをする。
カイルとリンは周囲を警戒する。
トーマも小さな手で土を集めている。
ガルは村の北側を見張っていた。
誰も大賢者としてアルヴェインを称えなかった。
誰も英雄として崇めなかった。
ただ。
畑を守ってくれた一人の村人として、そこにいた。
アルヴェインは倒れた麦を起こしながら、ふと空を見上げた。
「……セレナ」
遠い昔。
彼女が言った言葉を思い出す。
――いつか戦わなくていい日が来たら、何をしたい?
アルヴェインは小さく笑った。
「こういうことだったのかもしれないな」
そして、再び土に手を伸ばした。
世界を救う魔法ではない。
敵を滅ぼす魔法でもない。
ただ。
一本の麦を守るための魔法。
それが今のアルヴェインにとって、初めて使うべきだった魔法なのかもしれなかった。
その日の夕方。
村の畑には、小さな土の壁が残っていた。
大賢者の力を示すには、あまりにも小さな魔法。
けれどアルヴェインは、その壁を見ながら満足そうに頷いた。
「……これなら、次は少し安心だな」
ガルが隣で尻尾を振る。
「わふ」
村を守るための戦いが、始まった。
けれどそれは、かつてのような戦争ではなかった。
畑を守るための、小さな戦いだった。




