第三十四話 大賢者は魔法を使わない
翌朝。
村は、いつもより早く目を覚ました。
昨夜の咆哮を聞いた者は多かった。
宿兼酒場でも、朝からその話でもちきりだった。
「北の山から聞こえたんだろ?」
「かなり大きかったぞ」
「竜じゃないのか?」
「そんなものが近くにいたら、今頃村なんて残ってないだろ」
様々な声が飛び交う。
アルヴェインは、その様子を少し離れたところから見ていた。
隣にはガルがいる。
「ずいぶん賑やかだな」
「わふ」
「まあ、朝から酒を飲むよりはいいか」
ガルが首を傾げた。
「……お前は飲まないから分からないか」
「わふ」
アルヴェインは笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
北。
昨夜の咆哮。
そして、村へ逃げてきた魔物。
偶然ではない。
何かが近づいている。
◇
「アルじいさん!」
ミレアが走ってくる。
「みんな、村の広場に集まってるよ」
「そうか」
「何をするの?」
「確認だ」
「戦う準備?」
「違う」
「じゃあ?」
アルヴェインは歩きながら答えた。
「逃げる準備だ」
ミレアが目を丸くする。
「逃げるの?」
「必要ならな」
「でも、村を捨てるってこと?」
「違う」
アルヴェインは足を止める。
「逃げる場所を決めておくということだ」
「……ああ」
「戦いになった時、一番危ないのは、何も決めていないことだからな」
ミレアは頷いた。
「分かった」
◇
村の広場。
ガルドが村人たちを集めていた。
「昨日のこともある。しばらくは警戒を強める」
村人たちが頷く。
アルヴェインが前へ出る。
「まず、子供と老人を避難させる場所を決める」
村人が尋ねる。
「どこへ?」
「宿兼酒場だ」
皆がそちらを見る。
「石造りで比較的丈夫だ。それに食料もある」
宿の主人が頷く。
「地下の貯蔵庫も使える」
「なら、そこを第一避難場所にする」
アルヴェインは続ける。
「家畜は南側へ移す」
「畑は?」
別の村人が聞いた。
アルヴェインは少し考えた。
「できるだけ守る」
「できるだけ?」
「全部を守ろうとすると、人が危なくなる」
その言葉に、村人たちが黙る。
「人を最優先にする」
アルヴェインの声は穏やかだった。
「畑は、あとから直せる」
◇
「でも、アルじいさん」
ミレアが口を開く。
「昨日、畑を守るって言ってなかった?」
「言った」
「なのに?」
「だからこそだ」
アルヴェインは笑う。
「畑を守るために、人を危険にさらしたら意味がない」
ミレアは少し考える。
「……そっか」
「畑はまた作れる」
アルヴェインは土を見る。
「人は、そう簡単には戻らない」
ミレアは黙って頷いた。
◇
その後。
村人たちはそれぞれ準備を始めた。
ガルドは避難場所を確認する。
宿の主人は地下の貯蔵庫を整理する。
エマは薬草と包帯をまとめる。
ノアは農具や金具を確認する。
ミレアは子供たちを集める。
トーマも忙しそうに走り回っている。
「俺も何かする!」
「じゃあ、これを運んで」
ミレアが小さな木箱を渡す。
「任せて!」
トーマが走っていく。
その様子を見ながら、アルヴェインは小さく笑った。
「みんな、ずいぶん動くようになったな」
ガルドが隣に立つ。
「お前が教えたんだろう」
「俺は何もしてない」
「いや」
ガルドは村人たちを見る。
「お前が最初に動いたから、皆が動くようになった」
アルヴェインは返事をしなかった。
◇
昼過ぎ。
村の北側。
カイルとリンが戻ってきた。
「北の森を少し調べてきました」
リンが報告する。
「どうだった?」
ガルドが尋ねる。
「魔物の足跡が大量にあります」
「村へ向かっているのか?」
「違います」
リンは首を振った。
「全部、南へ向かっています」
アルヴェインが頷く。
「やはりな」
カイルが拳を握る。
「北にいる何かが魔物を追い立てている」
「ああ」
「なら、やっぱり俺たちが北へ――」
「行かない」
アルヴェインが遮った。
「でも!」
「カイル」
アルヴェインは静かに言った。
「お前は村を守れ」
「……俺が?」
「そうだ」
カイルは戸惑う。
「北へ行って敵を倒すより、ここにいる人を守るほうが大事だ」
カイルはしばらく黙っていた。
そして、剣の柄から手を離した。
「分かりました」
リンが少し笑う。
「珍しく素直ね」
「俺だって学ぶさ」
◇
夕方。
アルヴェインは一人、畑にいた。
麦の穂を確認する。
土を握る。
水分を見る。
「……大丈夫だな」
そこへミレアが来た。
「アルじいさん」
「ん?」
「本当に魔法を使わないの?」
アルヴェインは土を払った。
「ああ」
「どうして?」
「必要がないからだ」
「でも、魔物が来たら?」
「その時に考える」
「昔みたいに、すごい魔法を使えばすぐ終わるんじゃない?」
アルヴェインは少しだけ黙った。
「そうかもしれない」
「じゃあ……」
「でも」
アルヴェインは麦を見る。
「魔法を使えば全部解決する、という考え方を俺はもうやめたんだ」
「どういうこと?」
「昔は、力があるなら使うべきだと思っていた」
風が吹く。
麦が揺れる。
「今は違う」
「何が違うの?」
「力があるから使うんじゃない」
アルヴェインはミレアを見る。
「守りたいものがあって、それ以外に方法がない時に使う」
ミレアは黙って聞いていた。
「だから今は使わない」
「……分かった」
ミレアは頷いた。
◇
その夜。
村は静かだった。
宿兼酒場の明かりだけが、遅くまで残っている。
アルヴェインは家の外に座っていた。
ガルが隣に伏せている。
「ガル」
「わふ」
「もし何か来ても、無茶するなよ」
ガルが顔を上げる。
「お前は賢いから分かるだろ」
「わふ」
「村の人たちを優先する」
「わふ」
「それから、ミレアとトーマを頼む」
ガルは静かに頷くように頭を下げた。
アルヴェインは笑う。
「頼もしいな」
その時。
北の森から。
鳥が一斉に飛び立った。
「……」
アルヴェインが立ち上がる。
ガルも立った。
遠くで、何かが木を倒す音。
一本。
また一本。
そして――。
地面が、わずかに揺れた。
アルヴェインは北を見る。
「……近づいてきたな」
それでも。
杖を取らない。
剣も抜かない。
ただ、畑と村を見渡す。
「まだだ」
静かな声だった。
「まだ、魔法を使う時じゃない」
その夜。
村の北側では、何かがゆっくりと近づいていた。
そしてアルヴェインは、初めてではなく、今の自分として――
戦わずに守る方法を考え続けていた。




