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名も知られぬ大賢者は畑を作って余生を過ごす  作者: まーサンタ
第四部 大賢者、畑を守る

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第三十三話 逃げてきたもの



 朝。


 アルヴェインは村の北側にある柵の前にいた。


「……ここだな」


 昨日の夜、直すと決めた場所だった。


 古い木杭を抜き、新しい杭を打ち込む。


 その横では、ミレアが木材を運んでいる。


「アルじいさん、これでいい?」


「ああ。そこへ置いてくれ」


「はい」


 少し離れたところでは、トーマも小さな木片を運んでいた。


「俺も手伝う!」


「無理はするなよ」


「大丈夫!」


 そしてガルは、柵の外側をゆっくり歩いている。


 いつも通りの光景だった。


 だが。


「……」


 アルヴェインの手が止まった。


 地面を見る。


「どうしたの?」


 ミレアが尋ねる。


「足跡だ」


「魔物?」


「ああ」


 土の上に、新しい足跡が残っている。


 昨日まではなかった。


 しかも一つではない。


「こっちから来てる」


 アルヴェインは北の森を見る。


「そして……」


 足跡を追う。


「村へ向かってる」


 ミレアの表情が少し硬くなる。


「やっぱり、魔物が来るの?」


「まだ分からない」


 アルヴェインは立ち上がった。


「ただ、昨日より近い」


     ◇


 昼前。


 宿兼酒場では、村人たちが昼食をとっていた。


 その中に、見慣れた二人の姿があった。


「もう一杯!」


 カイルが杯を掲げる。


「朝から飲みすぎ」


 リンが呆れた顔で言う。


「腹が減ってるんだよ」


「それを飲みすぎって言ってるの」


「まあまあ」


 宿の主人が料理を置く。


「北の街道を調べるんだろ?」


「そうです!」


 カイルが胸を張る。


「俺たちが魔物の動きを調べて、村に危険がないようにします!」


 リンは小さくため息をついた。


「まだ何も分かってないけどね」


「だから調べるんだろ」


「あなたが先に突っ込まないようにするのも仕事だけど」


「俺はそんなに無茶しない!」


「昨日、森の奥へ一人で行こうとしたのは誰?」


「……俺」


 宿の主人が笑った。


 その時だった。


「外!」


 村人の一人が叫んだ。


 酒場の空気が一変した。


     ◇


 村の北側。


 ガルが低く唸っていた。


「グルル……」


 その視線の先。


 森の木々が揺れた。


「何だ?」


 村人たちが距離を取る。


 木々の間から、一匹の魔物が姿を現した。


 狼に似ている。


 だが普通の狼よりも一回り大きい。


 体には傷がいくつもある。


 片足を引きずっていた。


「魔物だ!」


 誰かが叫ぶ。


 カイルが剣を抜いた。


「アルヴェインさん、下がって!」


 カイルが前へ出る。


「待て」


 アルヴェインの声が飛ぶ。


「でも!」


「待て」


 アルヴェインは魔物から目を離さない。


 魔物もアルヴェインを見ている。


 牙を剥いている。


 しかし、攻撃してこない。


「……」


 アルヴェインはゆっくり一歩前へ出た。


 ガルが横へ並ぶ。


 朱色の瞳が魔物を見つめる。


「ガル、動くな」


「わふ」


 ガルは止まった。


 アルヴェインは魔物の傷を見る。


 肩。


 背中。


 後ろ脚。


「……これは」


 カイルが尋ねる。


「何です?」


「爪の跡だ」


「魔物同士の喧嘩ですか?」


「違う」


 アルヴェインは傷をよく見る。


「火傷もある」


 リンが目を細めた。


「火傷……?」


「ああ」


 アルヴェインは北を見る。


 そして魔物を見る。


「こいつは戦ってきたんじゃない」


「じゃあ?」


 ミレアが尋ねる。


 アルヴェインは静かに言った。


「逃げてきたんだ」


     ◇


「逃げてきた?」


 カイルが聞き返す。


「ああ」


「何から?」


「それは分からない」


 アルヴェインは魔物から目を離さない。


「でも、こいつは村を襲うために来たわけじゃない」


「どうして分かるんです?」


 リンが尋ねる。


「目を見れば分かる」


 魔物は怯えていた。


 村人たちではない。


 何か別のものを恐れている。


 その視線は何度も北へ向いていた。


「……」


 リンも気づいた。


「北を気にしていますね」


「ああ」


 アルヴェインは頷く。


「こいつだけじゃない」


 地面を見る。


 そこには複数の足跡があった。


「昨日から増えている足跡も、全部同じだ」


「南へ向かってる」


 ミレアが呟く。


「そういうことだ」


 アルヴェインは北の森を見る。


「魔物たちは村へ来ているんじゃない」


「……」


「北から逃げて、南へ流れている」


     ◇


 カイルが剣を握り直した。


「なら、その北にいる奴を倒せばいい」


 アルヴェインが振り返る。


「行かない」


「え?」


「北へは行かない」


「でも、このままじゃ危険でしょう?」


「ああ」


「なら!」


「だから村を守る」


 アルヴェインの声は穏やかだった。


 しかし、はっきりしていた。


「俺はもう戦わない」


 カイルが言葉を失う。


 リンはアルヴェインを見つめていた。


「……戦わない、ですか」


「ああ」


「それでも村を守る?」


「もちろん」


「どうやって?」


「考える」


 アルヴェインは魔物へ近づく。


 魔物が身を引く。


「大丈夫だ」


 アルヴェインが静かに声をかける。


「ここでは誰もお前を追わない」


 魔物は警戒しながらも、逃げなかった。


     ◇


 エマが呼ばれた。


「かなり傷が深いわね」


 薬師のエマは魔物の傷を確認する。


「これなら薬草で抑えられる」


「頼めるか?」


 アルヴェインが尋ねる。


「もちろん」


 エマは魔物を見た。


「でも、魔物を治療するなんて初めてよ」


「怪我をしているなら治す」


 アルヴェインは淡々と言った。


「それだけだ」


 エマは少し笑った。


「あなたらしいわね」


 魔物の傷に薬草を当てる。


 魔物は暴れなかった。


 ガルも少し離れた場所で見ている。


 やがて、トーマがガルの隣に座った。


「ガル」


「わふ」


「あいつ、怖くないのかな」


 ガルは魔物を見る。


 そして、ゆっくり尻尾を振った。


「仲間?」


「わふ」


「ガルも魔獣なのにね」


「……」


 ガルがトーマを見る。


「でも、アルじいちゃんがいいって言うなら、仲間なのかな」


 アルヴェインはその言葉を聞いて、少しだけ笑った。


「そうだな」


     ◇


 夕方。


 傷ついた魔物は村の外れで休んでいた。


 村人たちも少しずつ警戒を解いている。


 だが、アルヴェインだけは北の森を見ていた。


 カイルが近づく。


「アルヴェインさん」


「ん?」


「本当に北へ行かないんですか?」


「ああ」


「怖くないんですか?」


 アルヴェインは少し考えた。


「怖いかどうかは分からない」


「……」


「ただ」


 北を見る。


「俺には、ここで守るものがある」


 カイルは黙った。


「昔の俺なら、何も考えずに北へ行っていただろう」


「昔の……」


 カイルは言葉を止める。


 アルヴェインはそれ以上説明しなかった。


「今は違う」


 そう言って村を見る。


 畑。


 家。


 宿兼酒場。


 そこから聞こえる人々の声。


 そして、ミレアやトーマの姿。


「俺はここを守る」


     ◇


 その夜。


 傷ついた魔物が突然立ち上がった。


「……?」


 ガルも同時に顔を上げる。


 二匹が、同じ方向を見る。


 北。


 森の奥。


 魔物の身体が震えている。


「どうした?」


 アルヴェインが近づく。


 次の瞬間。


 ――グオオオオオ……。


 遠くから、低い咆哮が響いた。


 地面がわずかに震える。


 村の家々が静かに揺れた。


 犬たちが一斉に吠える。


 ミレアが家から飛び出してくる。


「アルじいさん!」


 アルヴェインは北を見ていた。


 表情から、いつもの穏やかさが少し消えている。


「……来たか」


「何が?」


 アルヴェインは答えない。


 ただ、北の森を見つめている。


 そして静かに言った。


「この魔物を、ここまで追い込んだものだ」


 ガルが低く唸る。


 アルヴェインは村を振り返った。


「明日から、村の守りを少し強くする」


「戦うの?」


 ミレアが尋ねる。


「いや」


 アルヴェインは首を振った。


「守るだけだ」


 その言葉とは裏腹に。


 北の山では、何か巨大なものが動き始めていた。


 村の静かな夜は、もう長くは続かない。


 それでもアルヴェインは、魔法を使わなかった。


 ただ一人の農夫として。


 明日の朝、何をすべきかを考えていた。

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