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名も知られぬ大賢者は畑を作って余生を過ごす  作者: まーサンタ
第四部 大賢者、畑を守る

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第三十二話 北から来る影



 朝。


 村の宿兼酒場には、いつもより早く人の声が響いていた。


 昨夜泊まった旅人たちが、出発の準備をしている。


「北の街道は、しばらく避けたほうがいいですよ」


 商人の男が、酒場の主人にそう話していた。


「そんなにひどいのか?」


「魔物が増えています」


 朝食をとっていた村人たちが、手を止める。


「どんな魔物だ?」


「狼型の魔物、大型の角獣。それに……見たことのない黒い獣も」


「黒い獣?」


「ああ」


 商人は頷いた。


「妙なんです」


「何が?」


「魔物同士が争わない」


 酒場の空気が静かになる。


「普段なら縄張りを巡って争うはずの魔物まで、同じ方向へ進んでいるんです」


「どっちへ?」


「南です」


 その言葉を、入口近くで聞いていたアルヴェインが振り返った。


「……南か」


 ミレアが隣を見る。


「アルじいさん?」


「いや」


 アルヴェインは首を振った。


「ちょっと気になっただけだ」


 商人はアルヴェインに気づいた。


「あなたも北へ行くんですか?」


「いや。俺は畑があるからな」


「畑?」


「ああ」


 アルヴェインは真顔で答える。


「今から北へ行ったら、今日の水やりができない」


 酒場の何人かが笑った。


 商人も苦笑する。


「それは……大事ですね」


「大事だ」


 アルヴェインはそう言って、酒場を出た。


     ◇


 村の北側。


 アルヴェインは道端にしゃがみ込んだ。


 土の上に、いくつもの足跡が残っている。


「……狼型が三頭」


 指で一つをなぞる。


「こっちは角獣」


 少し離れた場所には、別の足跡。


「そして……」


 アルヴェインの指が止まった。


 黒い土のような跡。


 形だけなら獣の足跡に見える。


 しかし、少し違う。


「これは……」


 ミレアが横から覗き込む。


「何?」


「足跡だ」


「それは見れば分かるよ」


「なら、話は早い」


「もう……」


 ミレアが呆れる。


 アルヴェインは足跡の向きを確認した。


「この魔物たちは、村へ向かってるわけじゃない」


「え?」


「南へ進んでいる」


「じゃあ、村は大丈夫なの?」


「今のところはな」


 アルヴェインは北を見る。


「でも……」


「でも?」


「何かから逃げている」


 ミレアの顔から笑みが消えた。


「魔物が?」


「ああ」


「何から?」


「それはまだ分からない」


 アルヴェインは立ち上がった。


「ただ」


 北の山を見る。


「魔物が一斉に逃げるほどの何かが、北にいる可能性はある」


     ◇


 その日の昼。


 ガルがいつものように畑の周囲を歩いていた。


 しかし、北側の森へ続く道の前で足を止める。


「わふ……」


 耳が立つ。


 鼻を動かす。


 森の奥をじっと見つめる。


「ガル?」


 アルヴェインが呼ぶ。


 ガルは振り返らない。


 いつもなら、アルヴェインの声を聞けばすぐに戻ってくる。


 だが今日は違った。


「……」


 低い唸り声。


 アルヴェインはガルの隣まで歩いた。


「お前でも嫌か」


「……わふ」


 ガルは森の奥から目を離さない。


 アルヴェインは何も言わなかった。


 ただ、同じ方向を見る。


「そうか」


 しばらくして、アルヴェインはガルの頭を撫でた。


「なら、今日は入らなくていい」


 ガルがアルヴェインを見る。


「ここにいろ」


「わふ」


     ◇


 夕方。


 村人たちが集められた。


 アルヴェインは大げさな話をするつもりはなかった。


「念のため、しばらく夜は一人で出歩かないようにしてくれ」


「魔物が来るのか?」


 村人が尋ねる。


「まだ分からない」


「なら、どうして?」


「何も起きないなら、それが一番いい」


 アルヴェインは淡々と続ける。


「そのための準備だ」


 ガルドも頷く。


「家畜は早めに小屋へ入れるようにしよう」


「分かった」


「子供たちも、森には近づけない」


 ミレアが頷く。


「トーマにも言っておく」


「俺、聞こえてるよ!」


 後ろから声がした。


 トーマが不満そうな顔で立っている。


「森なんか行かないよ」


「本当か?」


「本当!」


「ならいい」


 トーマが少し考える。


「武器は?」


「武器?」


「魔物が来たら戦うんでしょ?」


 アルヴェインは近くに立てかけてあった鍬を見る。


「これがある」


 トーマが鍬を見る。


「……それ、武器じゃないよ」


「畑では立派な武器だ」


「そうかなあ」


 ミレアが吹き出した。


「アルじいさんらしい」


 村人たちにも笑いが広がる。


 不安に包まれかけていた空気が、少しだけ和らいだ。


     ◇


 夜。


 村長の家。


 ガルドが酒杯を置いた。


「北に何かいると思うか?」


 向かいに座ったアルヴェインは、しばらく黙っていた。


「いると思う」


「何か分かるか?」


「まだ分からない」


「魔王軍の残党?」


「可能性はある」


 アルヴェインは窓の外を見る。


 暗闇の向こう。


 北の山は見えない。


「ただ、魔王軍だけなら……少し妙だ」


「何が?」


「魔物の動きだ」


 アルヴェインは静かに言った。


「魔物が何かに追われている」


 ガルドは黙った。


「それほどのものが、北にいるということか」


「そうかもしれない」


「お前なら、調べに行くかと思った」


 アルヴェインは苦笑した。


「昔の俺ならな」


「今は?」


「行かない」


「……そうか」


「俺はもう戦わない」


 その言葉は静かだった。


 しかし、迷いはなかった。


「ここを離れるつもりもない」


 ガルドはアルヴェインの顔を見た。


「畑のためか?」


「それもある」


「それも?」


 アルヴェインは少しだけ笑った。


「ここには、畑以外にも守りたいものが増えたからな」


 ガルドは何も言わなかった。


 ただ、酒を一口飲んだ。


     ◇


 深夜。


 村は眠っていた。


 宿兼酒場の明かりも消えている。


 家々の窓も暗い。


 風だけが静かに吹いている。


 その時。


 北の山から。


 ――ゴゴゴゴゴ……。


 低い地鳴りが響いた。


 村の犬たちが一斉に吠える。


「……」


 ガルが目を開いた。


 身体を起こす。


 朱色の瞳が北を向く。


 家の中では、アルヴェインも目を覚ましていた。


「……今のは」


 外へ出る。


 ガルが立っている。


「何だ?」


「わふ……」


 北の山。


 そこから黒い鳥の群れが、一斉に空へ飛び立った。


 月明かりの中を、何百羽もの鳥が逃げるように飛んでいく。


 アルヴェインは、それを黙って見ていた。


 やがて、小さく息を吐く。


「……これは」


 長い戦いを生き抜いた者だけが知っている感覚。


 何かが動いた。


 何かが、眠りから目を覚ました。


 アルヴェインはガルを見る。


「ミレアたちを起こすな」


「わふ」


「今はまだ大丈夫だ」


 そして、少し考える。


「明日の朝になったら、村の北側の柵を直すか」


 ガルが首を傾げる。


「何だ?」


「壊れかけてるだろ」


「わふ」


「魔物が来るかもしれないなら、直しておいたほうがいい」


 アルヴェインは家へ戻っていく。


 かつてなら。


 この地鳴りを聞いた瞬間、剣を取り、仲間を集め、世界の危機へ向かっていた。


 けれど今は違う。


 アルヴェインが最初に考えたのは――


 村の北側の柵を直すことだった。


     ◇


 同じ頃。


 北の森。


 一匹の黒い獣が木々の間を歩いていた。


 その目は南の村を見つめている。


 さらに奥。


 複数の影が動いた。


 魔物たちだった。


 その中に、一人の人影が立っている。


「……あの男が、この村にいる」


 低い声が響く。


「大賢者アルヴェイン」


 男は、北の山を振り返った。


「ならば、もうすぐ始まる」


 森の奥で、無数の瞳が光った。


 しかし。


 その頃の村では。


 アルヴェインが明日の畑仕事を考えていた。


「……水路も見ておくか」


 小さく呟く。


 世界のどこかで、大きな異変が始まろうとしている。


 それでも。


 アルヴェインにとって明日の朝一番に大切なのは――


 畑だった。

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