第三十一話 「畑に来た客人」
ラウルが村を去ってから、数日が過ぎた。
村は、いつもの日常を取り戻していた。
朝になれば鶏が鳴く。
村人たちはそれぞれの畑へ向かい、宿兼酒場では朝食をとる旅人の声が聞こえる。
アルヴェインも、いつものように畑にいた。
「……よし」
鍬を土へ入れる。
ゆっくりと土を返し、畝を整えていく。
少し離れたところでは、ガルが伏せていた。
朱色の瞳だけが、周囲を静かに見張っている。
「ガル」
「……」
「寝てるのか?」
「わふ」
「そうか」
アルヴェインは笑った。
「なら、頼んだぞ」
ガルは再び目を閉じた。
穏やかな朝だった。
何も起こらない。
それが、この村では一番ありがたいことだった。
◇
「アルじいさん!」
昼前。
ミレアが畑へ駆けてきた。
「ん?」
「村の入口に人が来てるよ」
「人?」
「旅人みたい。三人いる」
アルヴェインは鍬を止めた。
「怪我は?」
「見たところ大丈夫」
「なら、客だな」
「それだけ?」
「それだけだろ」
ミレアは呆れたように息を吐いた。
「最近、アルじいさんって何が起きても落ち着いてるよね」
「慌てても土は耕せないからな」
「そういう問題?」
「そういう問題だ」
アルヴェインは鍬を立てかけた。
「見に行くか」
「うん」
ガルも立ち上がる。
「お前も来るのか?」
「わふ」
「じゃあ頼む」
三人は村の入口へ向かった。
◇
村の入口には、三人の旅人がいた。
一人は四十代ほどの商人。
残りの二人は若い護衛だった。
村長のガルドが応対している。
「この村には宿兼酒場がある。そこで休むといい」
「助かります」
商人が頭を下げる。
「北の街道から来たんですが、少し困ったことがありまして」
「何があった?」
「魔物です」
ガルドの表情が変わった。
「魔物?」
「はい」
商人は周囲を気にしながら続ける。
「北へ向かう街道で、最近になって魔物が増えているんです」
ミレアがアルヴェインを見る。
アルヴェインは黙っていた。
「どんな魔物だ?」
商人に尋ねる。
「狼型の魔物、大型の角獣。それから……黒い獣です」
「黒い獣?」
「ええ。ただ、遠くから見ただけなので、詳しいことは分かりません」
アルヴェインは少し考える。
「魔物は、どちらへ向かっていた?」
「南です」
アルヴェインの目が細くなる。
「……南か」
「この村の方向ですか?」
ミレアが尋ねる。
「今の話だけなら、そうなるな」
アルヴェインは淡々と答えた。
しかし、その声には先ほどまでとは違う響きがあった。
◇
旅人たちは、村の宿兼酒場へ案内された。
昼時ということもあり、中には数人の村人がいた。
「北の街道で魔物が増えてるらしいぞ」
「本当か?」
「さっきの商人が言ってた」
そんな声が聞こえてくる。
アルヴェインは酒場の入口から中を見た。
「情報が早いな」
隣にいたガルドが笑う。
「この村では、宿兼酒場が一番情報の集まる場所だからな」
「便利だ」
「お前も酒を飲みに来るだろう」
「たまにな」
「たまに、か?」
「畑が忙しい」
「酒より畑か」
「当たり前だ」
アルヴェインは真顔で答えた。
◇
夕方。
旅人たちは宿の部屋へ入った。
アルヴェインは畑へ戻っていた。
だが、いつものように土だけを見ているわけではなかった。
「……」
北の方角を見る。
ガルも同じ方向を見ていた。
「何か感じるか?」
「……」
ガルの耳が動く。
そして、小さく唸った。
「まだ遠いか」
「わふ」
「そうか」
アルヴェインは鍬を握り直した。
「なら、今日は帰るぞ」
◇
夜。
アルヴェインはガルドの家を訪ねた。
「入るぞ」
「珍しいな」
ガルドが振り返る。
「昼間の旅人の話だ」
「やはり気になるか」
「ああ」
アルヴェインは椅子に座った。
「魔物の動きが南へ向かっている」
「この村へ来る可能性は?」
「ある」
「魔王軍の残党か?」
アルヴェインは少し黙った。
「まだ分からない」
「そうか」
「ただ……」
アルヴェインは窓の外を見る。
「嫌な感じがする」
ガルドは静かに頷いた。
「村として備えておこう」
「ああ」
「武器を出すか?」
「いや」
アルヴェインは首を振った。
「まずは戸締まりだ」
「戸締まり?」
「それと、夜は一人で出歩かないようにする」
ガルドが少し笑う。
「ずいぶん現実的だな」
「昔からそうだ」
「お前が言うと妙に説得力がある」
「農夫だからな」
ガルドはそれ以上言わなかった。
◇
翌朝。
村人たちが集められた。
アルヴェインは畑仕事の手を止め、皆に話す。
「念のため、しばらく夜は一人で出歩かないようにしてくれ」
「魔物が来るのか?」
村人が尋ねる。
「まだ分からない」
「じゃあ、どうして?」
「何も起きないなら、それが一番いい」
アルヴェインは穏やかに答える。
「そのための準備だ」
村人たちは顔を見合わせた。
「分かった」
「家畜も早めに小屋へ入れるか」
「ああ」
村人たちが動き始める。
ミレアがアルヴェインを見る。
「アルじいさん」
「ん?」
「本当に来るのかな」
「分からん」
「怖くない?」
アルヴェインは少し考えた。
「怖いかどうかより、畑が荒らされるほうが困る」
「そこ?」
「大事なことだぞ」
ミレアは思わず笑った。
「もう、アルじいさんらしいなあ」
◇
その日の夕方。
ガルは村の外れにいた。
風が草原を渡っていく。
鳥の声。
木々のざわめき。
遠くから聞こえる川の音。
いつもの村の音。
しかし。
「……」
ガルの耳が動いた。
何かがいる。
森の奥。
木々の間。
姿は見えない。
ガルは低く唸った。
「……わふ」
その頃。
アルヴェインは畑で鍬を片付けていた。
ふと、手を止める。
「……ガルか」
遠くから聞こえた声。
アルヴェインは森を見る。
そして、静かに呟いた。
「まだだ」
鍬を肩に担ぐ。
「まだ、俺の出番じゃない」
家へ向かって歩き出す。
◇
森の奥。
一匹の黒い獣が、木々の間を歩いていた。
その目は、南にある村を見つめている。
さらに奥。
複数の影が動いた。
魔物たちだった。
その中に、人の姿が一つ。
「……あの男が、この村にいる」
低い声が森に響く。
「大賢者アルヴェイン」
その名を口にした男は、ゆっくりと笑った。
「まだ、終わってはいない」
森の奥で、いくつもの瞳が光る。
しかし村では。
アルヴェインが夕食の準備をしていた。
「ガル」
「わふ」
「明日は水路を見ておくか」
ガルが尻尾を振る。
世界のどこかで、何かが動き始めている。
それでも今夜。
アルヴェインにとって一番大切なのは――
明日の畑だった。




