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名も知られぬ大賢者は畑を作って余生を過ごす  作者: まーサンタ
第三部 忘れられた大賢者

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第三十話 「……まだ生きていたのか」



 朝の空気は、少し冷たかった。


 アルヴェインは畑に出ていた。


 鍬を土へ入れ、ゆっくりと畝を整えていく。


「……もう少しだな」


 芽を出したばかりの作物を眺める。


 以前なら、一瞬の魔法で土を整え、水を引き、作物を育てることさえできただろう。


 けれど、今はしない。


 急がない。


 今日できることを、今日やる。


 それがアルヴェインの今の暮らしだった。


 少し離れた場所では、ガルが村の入口を見張っている。


 灰色の体毛。


 朱色の瞳。


 村の人々も、今ではすっかりその存在に慣れていた。


「わふ」


 ガルが顔を上げた。


「どうした?」


 アルヴェインも村の入口を見る。


 遠くから、馬車の音が近づいていた。


「……客か」


     ◇


「アルじいさん!」


 ミレアが走ってきた。


「村の入口に馬車が来てるよ!」


「馬車?」


「うん。王都の紋章がついてるみたい」


 アルヴェインは少しだけ眉を上げた。


「王都か……」


 ガルが低く唸る。


「大丈夫だ」


 アルヴェインが声をかける。


 ガルはすぐに警戒を解いた。


「行ってみるか」


「うん」


 アルヴェインとミレアは村の入口へ向かった。


     ◇


 そこには、一台の立派な馬車が止まっていた。


 村人たちが少し離れた場所から見守っている。


 やがて馬車の扉が開いた。


 一人の老人が降りてくる。


 七十歳。


 白髪。


 深く刻まれた皺。


 そして腰には一本の剣。


 その姿を見た瞬間。


 アルヴェインの足が止まった。


「……」


 老人もアルヴェインを見る。


 互いに何も言わない。


 長い沈黙。


 やがて老人が歩き出した。


 一歩。


 また一歩。


 そしてアルヴェインの前で立ち止まった。


「……まだ生きていたのか」


 アルヴェインは、ほんの少し笑った。


「お前こそな」


「俺は七十だぞ」


「俺は六十八だ」


「二歳しか違わん」


「十分だろ」


 老人が苦笑する。


「……相変わらずだな」


「お互い様だ」


 その会話を聞きながら、ミレアは二人を交互に見た。


 明らかに、ただの初対面ではない。


「アルじいさん」


「ん?」


「この人……」


「昔の知り合いだ」


「そうなんだ」


 ミレアは老人を見る。


 それから、丁寧に頭を下げた。


「私はミレア・フォルンです。アルじいさんには、いつもお世話になってます」


 老人は少し驚いた顔をした。


 そして笑う。


「そうか」


 一拍置いて、老人も名乗った。


「俺はラウル・ディーンだ」


「ラウルさんですね」


「ああ」


「よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 ミレアが顔を上げる。


 アルヴェインは何も言わず、二人のやり取りを見ていた。


     ◇


 しばらくすると、村長のガルドもやって来た。


「……やはり来たか」


 ガルドが言う。


 ラウルが振り返る。


「お前が村長か」


「ガルド・フォルンだ」


「そうか」


 二人は短く言葉を交わした。


 ガルドは、ラウルの顔を見ていた。


 そして、その後ろにいるアルヴェインを見る。


 何も言わない。


 アルヴェインも何も言わない。


 長い付き合いだからこそ分かることがある。


 ガルドは、それ以上踏み込まなかった。


「ラウルさんは、アルヴェインの昔の知り合いなんだな」


「ああ」


 ラウルが答える。


「ずいぶん昔からのな」


「そうか」


 ガルドは頷いた。


「なら、ゆっくりしていくといい」


「助かる」


     ◇


 昼。


 アルヴェインはラウルを家へ招いた。


「酒でも飲むか?」


「もちろんだ」


「昼間からか?」


「久しぶりに会ったんだぞ」


「……仕方ないな」


 二人は酒杯を交わした。


 しばらく無言だった。


 昔からの仲間。


 言葉がなくても、妙な気まずさはない。


 やがてラウルが口を開いた。


「本当に畑をやってるんだな」


「ああ」


「似合わんな」


「そうか?」


「もっとこう……」


 ラウルが言葉を探す。


「何か大きなことをしていると思っていた」


 アルヴェインは笑った。


「もう十分だ」


 その言葉に、ラウルの表情が変わった。


「……そうか」


「ああ」


「そうだな」


     ◇


 ラウルは懐から小さな水晶を取り出した。


 透明な石。


 内部には、ごく薄い魔力が残っている。


 アルヴェインが目を細めた。


「……まだ持っていたのか」


「ああ」


「記憶写しの水晶か」


「最後の戦いの前にな」


 ラウルが魔力を流す。


 水晶が淡く輝いた。


 空中に、ぼんやりと四人の姿が浮かび上がる。


 若いアルヴェイン。


 ラウル。


 リディア。


 そしてセレナ。


 四人とも、まだ若い。


 戦争が終わる前。


 未来が続いていると信じていた頃。


 セレナが笑っている。


 アルヴェインも笑っている。


 ラウルは、その光景をじっと見つめた。


「……懐かしいな」


「ああ」


 アルヴェインの声は静かだった。


「四人でいた最後の記録だ」


 水晶の中で、セレナが笑っている。


 アルヴェインは、その姿をしばらく見ていた。


「……セレナ」


 ラウルが小さく呟いた。


 水晶の光が消える。


     ◇


「アル」


「なんだ?」


「後悔してないか?」


 アルヴェインは酒杯を見つめた。


「何を?」


「全部だ」


 ラウルは続ける。


「王都を離れたこと」


「……」


「大賢者の地位を捨てたこと」


「……」


「俺たちと別れたこと」


 アルヴェインはしばらく黙っていた。


「後悔してないと言えば、嘘になる」


 ラウルは何も言わない。


「セレナのことだって、忘れたことはない」


 アルヴェインは窓の外を見る。


 畑ではミレアとトーマが何かをしていた。


 ガルが二人の近くに座っている。


「でも」


 アルヴェインは続けた。


「今の暮らしを捨てるつもりもない」


「そうか」


「ああ」


 ラウルは酒を一口飲んだ。


「なら、それでいい」


     ◇


 夕方。


 ラウルが帰る時間になった。


 馬車の前で、二人は向かい合う。


「また来る」


「畑を手伝うなら歓迎するぞ」


「俺を誰だと思ってる」


「昔の知り合い」


「……それしか言わないな」


「十分だろ」


 二人は笑った。


 ラウルが馬車へ乗り込む。


 そして、振り返った。


「アル」


「ん?」


「お前は、もう逃げなくてもいいんじゃないか?」


 アルヴェインは答えなかった。


 ラウルも、それ以上は言わない。


「じゃあな」


「ああ」


 馬車が動き出した。


 村の外へ向かっていく。


     ◇


 その夜。


 ガルドがアルヴェインの家を訪ねた。


「帰ったか」


「ああ」


「ラウルという男」


「昔の仲間だ」


 ガルドは頷いた。


「そうか」


「それだけか?」


「それ以上聞く必要はないだろう」


 アルヴェインは少し笑った。


「お前は本当に察しがいいな」


「長く生きているだけだ」


 二人はしばらく黙っていた。


「アルヴェイン」


「なんだ?」


「昔のことが戻ってきても」


 ガルドは静かに言った。


「ここは変わらん」


 アルヴェインが顔を上げる。


「……ありがとう」


「礼を言うほどのことじゃない」


 ガルドは立ち上がった。


「明日も畑だろう?」


「ああ」


「なら、もう寝ろ」


「そうする」


     ◇


 夜。


 アルヴェインは一人で畑に出た。


 月明かりが、畝を照らしている。


 ガルが隣に座る。


「……今日は騒がしかったな」


「わふ」


「昔の知り合いが来ただけなのにな」


 アルヴェインは空を見上げる。


「セレナ」


 返事はない。


 それでも、あの日の言葉は今も残っている。


――戦わなくていい日が来たら、何をしたい?


 アルヴェインは畑を見る。


 小さな芽。


 まだ収穫には遠い。


 それでも確かに、そこには命がある。


「……見つけたよ」


 アルヴェインは小さく呟いた。


「俺がしたかったこと」


 土を耕す。


 種をまく。


 芽が出るのを待つ。


 誰かと食卓を囲む。


 そんな何気ない日々。


 それが、かつて世界を救った男にとって、一番遠くにあったものだった。


     ◇


 一方。


 王都へ向かう馬車の中。


 ラウルは窓の外を眺めていた。


 懐には、あの小さな水晶。


 もう一度取り出す。


 淡い魔力を込める。


 四人の若き日の姿が浮かび上がった。


 ラウルは黙って見つめる。


 セレナが笑っている。


 あの頃は。


 四人とも、戦争が終わった後の人生があると思っていた。


 ラウルは水晶の光を消した。


「……あいつは、ようやく見つけたんだな」


 誰にも聞こえない声で呟く。


 そして。


 その手の中の水晶を、大切に懐へしまった。


 辺境の小さな畑では。


 アルヴェインが明日の仕事を考えていた。


 世界を救った大賢者の物語は、とうに終わった。


 けれど。


 名も知られぬ大賢者の物語は、まだ終わっていない。

第三部 忘れられた大賢者 完

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