第三話 最初の一畝
翌朝。
アルヴェインが目を覚ますと、窓の外は薄い霧に包まれていた。
「……少し冷えるな」
薪をくべ、湯を沸かす。
簡単な朝食を済ませると、昨日買った鍬を手に取った。
外へ出る。
朝露に濡れた草が、靴の先を冷たくした。
目の前には、昨日までの荒れ地。
その中に、八歩分だけ土が露出している。
「こうして見ると……」
アルヴェインは腕を組んだ。
「やはり小さいな」
昨日の自分の仕事を眺める。
世界を救った大賢者が、一日かけて作った畑。
たった八歩。
――などと本人は考えない。
今のアルヴェインにとっては、ただの八歩だった。
昨日より八歩分、土が見える。
それだけで十分だった。
「続きをやるか」
アルヴェインは鍬を握った。
◇
午前中は、ひたすら石を拾った。
土を掘れば石。
少し深く掘っても石。
場所を変えても石。
「……」
アルヴェインは無言になった。
両手には土がつき、腰は少し痛い。
「これは……思ったより大変だな」
かつて魔法を使っていた頃なら、土の中にある石など一瞬で取り除けた。
だが、今は魔法を使わない。
自分で掘る。
自分で拾う。
それでいいと思っていた。
「急ぐ必要はない」
そう呟いて、また鍬を振る。
ガツン。
「……またか」
石を拾い、籠に入れる。
その時だった。
「アルじいさーん!」
遠くから声が聞こえた。
振り返ると、ミレアが走ってくる。
「おはようございます!」
「おはよう」
ミレアは畑を見る。
「昨日より広くなってますね」
「分かるか?」
「分かりますよ。昨日より土が見えてますから」
「なるほど」
ミレアは畑の周りを見回した。
「今日も一人でやるんですか?」
「ああ」
「手伝いましょうか?」
「いや、いい」
「どうしてです?」
「自分でやりたいんだ」
アルヴェインはそう答えた。
ミレアは少し考えた。
「じゃあ、石拾いだけでも?」
「……石拾い?」
「はい。昨日見ていたら、すごく大変そうだったので」
アルヴェインは少し迷った。
そして、
「それなら頼もうか」
と答えた。
「はい!」
ミレアは嬉しそうに笑った。
籠を一つ持ち、畑の端へ向かう。
「大きい石はこっちですね?」
「ああ。小さいものは畝を作る場所から外してくれ」
「分かりました」
二人は作業を始めた。
◇
しばらくすると、畑には二人分の足跡が増えていった。
アルヴェインが土を掘る。
ミレアが石を拾う。
草を抜く。
土をならす。
単純な作業だった。
けれど、一人でやるよりもずっと早い。
「アルじいさん」
「なんだ?」
「畑って、こんなに大変なんですね」
「ああ」
「野菜を作っている人って、毎年これをやってるんですか?」
「そうらしいな」
「知らなかったです」
「俺もだ」
「アルじいさんも?」
「ああ」
ミレアが目を丸くした。
「畑を作るの、初めてなんですか?」
「初めてだ」
「じゃあ、どうして畑を?」
アルヴェインは手を止めた。
少し考える。
「……やってみたかったからだ」
「それだけですか?」
「それだけだ」
ミレアは少し笑った。
「変わってますね」
「よく言われる」
アルヴェインも笑った。
◇
昼になる頃には、畑の一角がかなり綺麗になっていた。
アルヴェインは土を手に取る。
指先で軽くこする。
「悪くない」
「何がですか?」
「土だ」
「土?」
「ああ。思っていたより水はけがいい」
「それって、いいことなんですか?」
「作るものによる」
「難しいですね」
「農業は、思ったより奥が深い」
「まだ始めたばかりなのに?」
「だからこそだ」
アルヴェインは土を落とした。
「知らないことが多い」
ミレアは少し意外そうな顔をした。
「アルじいさんでも、知らないことってあるんですね」
「あるさ」
「何でも知ってる人なのかと思ってました」
「そんな人間はいない」
アルヴェインは笑った。
長い人生を生きてきた。
魔法なら、知らないことのほうが少ないと思っていた時期もある。
だが、畑は違う。
土の匂い。
季節。
雨。
日差し。
虫。
植物。
知らないことばかりだった。
「面白いものだ」
アルヴェインは小さく呟いた。
◇
午後。
アルヴェインは鍬を使って土を盛り上げ始めた。
「何をしてるんですか?」
「畝を作る」
「畝?」
「ああ。種を植える場所だ」
「へえ」
アルヴェインは土を寄せる。
少しずつ高さを揃える。
幅を整える。
何度も土を触りながら調整していく。
やがて――。
「できた」
一本の細長い畝ができた。
長さは数歩ほど。
小さな畝だった。
ミレアはしゃがんで眺める。
「畑らしくなりましたね」
「ああ」
「これが最初の畝?」
「そうだ」
アルヴェインはしばらく眺めていた。
ほんの小さな土の盛り上がり。
それでも、昨日まで存在しなかったものだ。
「……悪くない」
「また言ってますね」
「何を?」
「悪くない、って」
「気に入ったんだ」
ミレアが笑う。
「じゃあ、次は何を植えるんですか?」
「豆にしようと思っている」
「豆ですか?」
「ああ。丈夫らしいからな」
「じゃあ、種を買いに行きましょう」
「そうだな」
◇
二人は村へ向かった。
村の小さな店に入る。
「いらっしゃい……おや」
店番の老人が顔を上げた。
「アルヴェインさんか」
「豆の種はあるか?」
「あるよ。何種類かある」
老人が袋を並べる。
アルヴェインは一つずつ手に取った。
「これは?」
「大豆」
「こっちは?」
「インゲンだ」
「丈夫なのは?」
「初めてなら大豆かな」
「では、それを」
種の袋を受け取る。
アルヴェインが財布を出すと、ミレアが横から言った。
「私も出します」
「必要ない」
「石拾いを手伝ったんですから」
「それだけで種代を払う必要はない」
「でも――」
「ミレア」
アルヴェインが穏やかに言う。
「手伝ってくれたことだけで十分だ」
ミレアは少し黙った。
それから笑う。
「じゃあ、次も手伝います」
「それはありがたい」
店番の老人が二人を見て笑った。
「ずいぶん仲良くなったもんだ」
「昨日会ったばかりですよ」
ミレアが答える。
「それでもだよ」
アルヴェインは何も言わず、種の袋を大切にしまった。
◇
夕方。
二人は畑に戻った。
アルヴェインは最初の畝の前にしゃがみ込む。
袋を開ける。
小さな種がいくつも入っている。
「小さいですね」
ミレアが覗き込んだ。
「ああ」
「これが大きな豆になるんですか?」
「そうらしい」
「アルじいさん、本当に知らないんですね」
「知らないことは悪いことじゃない」
「そうですか?」
「知らないなら、これから知ればいい」
アルヴェインは指で土に小さな穴を作った。
種を一粒。
そっと入れる。
土をかぶせる。
また一粒。
「深く埋めすぎない」
「はい」
「間隔も必要だ」
「なるほど」
ミレアも真似をする。
二人で一粒ずつ種を植えていく。
最後の種を植え終える。
「これで終わりですか?」
「いや」
アルヴェインは水を汲んできた。
畝にゆっくり水をかける。
「これで、あとは待つ」
「いつ芽が出るんですか?」
「分からんな」
「明日?」
「早すぎる」
「じゃあ明後日?」
「それも分からん」
「アルじいさんでも?」
「ああ」
ミレアが笑った。
「なんでも知ってる人なのかと思ってました」
「そんな人間はいないと言っただろう」
「そうでした」
二人は笑った。
夕日が畑を照らしている。
最初の畝。
その土の中には、まだ誰にも見えない小さな種が眠っている。
アルヴェインは立ち上がった。
「明日も水をやる」
「私も来ます」
「頼む」
「はい」
ミレアは畑を振り返った。
「なんだか、楽しみですね」
「ああ」
アルヴェインも畑を見る。
戦いなら、結果は自分の力で決められた。
魔法なら、思い通りにならないものなどほとんどなかった。
けれど、この種は違う。
芽を出すかどうか。
いつ芽を出すのか。
どんな姿に育つのか。
アルヴェインには分からない。
だからこそ――。
「明日が楽しみだな」
ぽつりと呟いた。
誰にも知られぬ大賢者が、
初めて自分の未来を楽しみにした日だった。




