第二話 荒れ地を買う
翌朝。
アルヴェインは、日の出より少し早く目を覚ました。
王都にいた頃なら、朝から研究院の者が訪ねてきていただろう。
魔法理論について聞きたい者。
国境付近の魔物について相談したい者。
王城からの急な呼び出し。
そういうものが、毎日のようにあった。
しかし今は違う。
「……静かだ」
小さな家の窓を開ける。
鳥の声がした。
風が木々の間を抜けていく。
それだけだった。
「うん。いい朝だ」
アルヴェインは鍋に水を入れ、火を起こした。
簡単な朝食を済ませると、昨日買った鍬を持って外へ出る。
目の前には、昨日と変わらない荒れ地が広がっている。
「さて」
アルヴェインは袖をまくった。
「今日は、もう少し進めよう」
鍬を振る。
ガツン。
「……」
石だった。
拾う。
もう一度。
ガツン。
また石。
「多いな」
さらに振る。
ガツン。
「多すぎる」
アルヴェインは腰を伸ばした。
かつては、一瞬で山を消し飛ばすほどの魔法を使った。
大地を割り、空を覆う魔物を焼き払い、巨大な城壁を一晩で築いたこともある。
そんな男が今、たった数歩の土地を耕すのに苦戦している。
「……魔法を使えば早いんだがな」
アルヴェインは鍬を見る。
そして首を横に振った。
「それでは意味がない」
理由は自分でも分かっていた。
この畑は、誰かに命じられて作るものではない。
国を救うためでもない。
誰かに褒められるためでもない。
ただ、自分が生きるために作る。
だからこそ、自分の手でやりたかった。
◇
昼近くになった頃。
「おーい!」
遠くから声がした。
アルヴェインが顔を上げる。
道の向こうから、一人の少女が歩いてくる。
籠を腕に掛けていた。
十七歳くらいだろう。
茶色の髪を後ろでまとめ、動きやすそうな服を着ている。
「こんにちは!」
「……こんにちは」
少女はアルヴェインの前まで来ると、荒れ地を見回した。
「ここ、本当に畑にするんですか?」
「そのつもりだ」
「畑に?」
「ああ」
「ここを?」
「ああ」
少女は少し黙った。
「……大変ですよ?」
「昨日も同じことを言われた」
「昨日?」
「村の店主に」
「ああ。雑貨屋のおじさんですね」
「鍬を売ってくれた」
少女は笑った。
「私はミレア。村長の孫です」
「アルヴェインだ」
「知ってます」
アルヴェインの眉が少し動いた。
「……俺を?」
「いえ」
ミレアは首を振った。
「この土地を買った人の名前を、村長...父さんから聞いただけです」
「そうか」
アルヴェインはほっとした。
ミレアはそんな彼の様子を不思議そうに見た。
「アルヴェインさんって、王都から来たんですよね?」
「そうだ」
「何をしていたんですか?」
「いろいろだ」
「いろいろ?」
「魔法を少し」
「魔法使いなんですか?」
「まあ、そんなところだ」
アルヴェインはそれ以上答えなかった。
ミレアも深くは聞かなかった。
代わりに籠を差し出した。
「これ、父さんからです」
「俺に?」
「はい。パンと干し肉。それから野菜」
「なぜ?」
「昨日、店で鍬を買っていたでしょう?」
「見ていたのか」
「村の人、みんな見てましたよ」
「……そうか」
アルヴェインは苦笑した。
「田舎というのは、噂が早いな」
「悪い意味じゃありませんよ」
ミレアが笑う。
「新しく人が来るの、珍しいんです」
「なるほど」
アルヴェインは籠を受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ミレアは帰ろうとした。
しかし数歩進んだところで振り返る。
「アルヴェインさん」
「なんだ?」
「明日も畑を作るんですか?」
「ああ」
「じゃあ、また来ます」
「……何をしに?」
「見に来るだけです」
「暇なのか?」
「失礼ですね」
ミレアは笑いながら歩いていった。
アルヴェインはその背中を眺めていた。
「……変わった子だ」
そう呟いた。
だが、不思議と嫌ではなかった。
◇
午後。
アルヴェインは再び鍬を握った。
昨日よりも少しだけ、地面が柔らかくなっている。
石を拾い、草を抜く。
土を返す。
単純な作業だった。
しかし、一つ一つに時間がかかる。
「……」
ふと、アルヴェインは手を止めた。
土を指でつまむ。
湿り気。
砂の量。
小さな虫。
腐葉土。
昔なら魔法で一瞬に分析していた。
今は、自分の目で見る。
自分の手で触る。
「悪くない」
荒れ地に見えたが、土そのものは悪くない。
長い間、人の手が入っていなかっただけだ。
「なら、育つかもしれんな」
その言葉を口にした瞬間。
アルヴェインは小さく笑った。
育つ。
その言葉を使うのは、いつ以来だろう。
魔法を研究していた頃は、「完成する」という言葉をよく使った。
戦場では、「生き残る」。
王城では、「勝つ」。
そんな言葉ばかりだった。
だが今は違う。
種を植える。
水をやる。
待つ。
そして、育つ。
「……悪くない」
また同じ言葉が出た。
◇
夕方。
アルヴェインは今日の作業を終えた。
昨日の三歩分に加えて、今日はさらに五歩ほど。
合わせて八歩。
小さな畑と呼ぶには、まだ狭い。
けれど、昨日より確実に広くなっている。
アルヴェインは鍬を立てかけた。
その時だった。
森の方から、低い唸り声が聞こえた。
「……」
アルヴェインが振り返る。
木々の間。
何かがいる。
気配だけで分かった。
普通の人間なら気づかないほど微かなものだった。
「魔物か」
アルヴェインはため息をついた。
魔物の気配など、もう何十年も感じたくなかった。
だが。
森から出てきたのは、小さな灰色の獣だった。
狼に似ている。
しかし普通の狼ではない。
目が赤い。
牙が長い。
「……子供か」
魔物はアルヴェインを見ている。
アルヴェインも魔物を見る。
しばらく、互いに動かなかった。
「ここは畑にする予定だ」
当然、魔物には通じない。
魔物が一歩近づく。
アルヴェインは鍬を持ち上げた。
魔法を使えば一瞬だ。
だが――
「待て」
アルヴェインはしゃがんだ。
魔物の足元を見る。
傷があった。
「怪我をしているのか」
魔物は警戒したままだ。
アルヴェインはゆっくりと籠の中から野菜を一つ取り出した。
「食べるか?」
魔物が鼻を動かす。
「……これしかない」
干し肉を出そうとしたが、やめた。
「いや、肉のほうがいいか」
しばらく考えた末、干し肉を一枚投げる。
魔物は素早く咥えた。
そして森へ戻っていく。
「……そうか」
アルヴェインは立ち上がった。
「また来るなら、畑は荒らすなよ」
返事はなかった。
ただ、森の奥から一度だけ、
――ワン。
小さな声が聞こえた。
「……分かった」
アルヴェインは笑った。
誰も知らない。
この日、荒れ地の畑に最初の「客」が来たことを。
それが後に村人たちから、
「畑の番犬」
と呼ばれることになる魔物だということを。
そしてアルヴェイン自身もまだ知らなかった。
この小さな畑が、やがて人だけではなく、魔物や冒険者、王族までもが訪れる場所になることを。
今はただ。
八歩分の畑と、一人の老人。
それだけだった。




