第一話 大賢者、引退する
朝の王都は、今日も騒がしかった。
大通りを馬車が走り、商人たちが声を張り上げ、城壁の向こうから朝日がゆっくりと街を照らしている。
その王都の中心にある王城では、朝から一人の男をめぐって、ちょっとした騒ぎが起きていた。
「アルヴェイン様。本当に……お考えは変わらないのですか?」
執務室でそう尋ねたのは、国王エドガーだった。
三十九歳になった王は、机の向こうに座る男をじっと見つめている。
アルヴェイン・グランは、五十歳
白髪まじりの髪を後ろで束ね、古びた灰色の外套を羽織っている。
その姿だけを見れば、どこにでもいる旅の男にしか見えない。
だが、彼の名を知る者なら、そんなことは言わない。
かつて魔王を討ち、大陸を覆った戦乱を終わらせた男。
失われた古代魔法を復活させ、たった一人で王国軍を救った男。
歴史書に記される、伝説の大賢者。
――アルヴェイン・グラン。
その本人が、机の上に一枚の紙を置いた。
「変わらんよ」
「ですが……」
「引退届だ」
「それは見れば分かります!」
エドガーが思わず声を上げた。
アルヴェインは涼しい顔でお茶を飲んでいる。
「冒険者を辞める。魔法研究院の顧問も辞める。王国軍への助言も辞める。ついでに、王城への出入りも辞める」
「全部ですか?」
「全部だ」
「なぜ……」
エドガーの声が小さくなる。
「なぜ今なのです?」
アルヴェインは窓の外を見た。
王都の屋根。
朝の煙。
行き交う人々。
かつて自分が守った街だった。
「もう、十分だろう」
「……」
「魔王は倒した。戦争も終わった。国も立て直した。あとは若い者に任せればいい」
「あなたがいなくなれば困ります」
「困るのは最初だけだ」
「そんな簡単な話ではありません」
エドガーは立ち上がった。
「あなたは、この国にとって――」
「エドガー」
アルヴェインが静かに名前を呼んだ。
それだけで、王の言葉が止まった。
「俺はもう、英雄でいたくないんだ」
その声には、怒りも悲しみもなかった。
ただ、長い旅を終えた者のような静けさがあった。
「では……何をなさるおつもりですか?」
「旅に出る」
「……旅?」
「ああ」
アルヴェインは満足そうに笑った。
「どこか静かな土地を探して隠居でもするさ」
「……大賢者が?」
「元大賢者だ」
「そこはどうでもいいのですが……」
エドガーは頭を抱えた。
世界を救った男が、これから何をするのかと思えば。
隠居。
あまりにも平和だった。
「どこで暮らすのです?」
「まだ決めてはいない」
「決めてはいないって……」
「一年でも五年でも十年かかっても探す」
「......そんな」
「もういいか?」
アルヴェインは立ち上がった。
外套を肩に掛け、杖を手にする。
ただし、その杖はかつて魔王を倒した伝説の杖ではない。
古びた木の棒だった。
「では、世話になったな」
「待ってください!」
「なんだ?」
「せめて送別会を――」
「いらん」
「記念碑を――」
「いらん」
「勲章を――」
「もっといらん」
アルヴェインは笑った。
「静かに暮らしたいんだよ」
そう言って、男は王城を出ていった。
誰にも見送られず。
英雄としてではなく。
ただの旅人として。
◇
十九年後。
王都から遠く離れた辺境。
アルヴェインは、一枚の土地の前に立っていた。
「……」
目の前に広がるのは、荒れ地だった。
草が伸び放題。
石だらけ。
ところどころに枯れ木。
畑にするには、かなりの時間がかかりそうだった。
アルヴェインは腕を組んだ。
「いい土地だ」
どう見ても、いい土地には見えない。
しかし彼は満足そうだった。
「誰も来ない」
山がある。
森がある。
小さな川も流れている。
近くに村はあるらしいが、ここから少し離れている。
「静かだ」
風が吹いた。
草が揺れた。
鳥の声が聞こえる。
アルヴェインは目を細めた。
「……ここにしよう」
そして、その日の午後。
彼は鍬を買いに村へ向かった。
◇
「鍬?」
村の店主が首を傾げた。
「ああ」
「何に使うんだい?」
「畑を作る」
「ここで?」
「そうだ」
店主はアルヴェインを眺めた。
白髪。
杖。
年老いた体。
「……大丈夫かい?」
「何が?」
「いや……畑仕事ってのは、けっこう重労働だぞ」
「知っている」
「経験あるのか?」
「ない」
「ないのかよ」
店主が笑った。
アルヴェインも笑った。
鍬を一本買い、肩に担ぐ。
「いくらだ?」
「銀貨一枚」
「高いな」
「普通だよ」
「そうか」
アルヴェインは素直に銀貨を払った。
店を出る。
村人たちがチラチラとこちらを見ていた。
新しくやって来た老人。
何をするのか分からない老人。
ただの変わり者。
そんなところだろう。
アルヴェインは気にしなかった。
むしろ、そのくらいがちょうどよかった。
◇
夕方。
荒れ地に戻ると、アルヴェインは鍬を地面に立てた。
深く息を吸う。
「さて」
昔なら、手をかざすだけで地面を耕すこともできた。
土の中にある石を魔法で取り除くこともできる。
土地の水分量を調べることもできる。
植物の成長を促す魔法だって知っている。
だが。
アルヴェインは魔法を使わなかった。
「……これは、自分でやろう」
鍬を握る。
振り下ろす。
ガツン。
「……」
石に当たった。
もう一度。
ガツン。
また石。
「なるほど」
アルヴェインは石を拾い上げた。
「畑というのは、思ったより難しいな」
誰もいない荒れ地で、老人は一人笑った。
そしてもう一度、鍬を振り上げる。
夕日が沈んでいく。
世界を救った大賢者は、その日から戦うことをやめた。
魔王とも。
王国とも。
歴史とも。
そして、自分自身の過去とも。
ただ土を耕す。
明日のために。
春に種をまくために。
いつか収穫するために。
その日、アルヴェインが耕した畝は――
わずか三歩分だった。
「……今日はこれでいい」
鍬を置く。
空には、一番星が出ていた。
アルヴェインはそれを見上げる。
「悪くないな」
誰にも知られぬ大賢者の、長い余生が始まった。




