第二十七話 王都からの呼び声
朝。
アルヴェインは、畑の土を手に取っていた。
「……少し乾いてきたな」
指先で土を崩し、水分を確かめる。
昨夜は雨が降らなかった。
今日は少し多めに水をやったほうがいい。
そんなことを考えていると、
「アルじいさん!」
ミレアの声がした。
振り向く。
「どうした?」
「村の入口に馬車が来てるよ」
「馬車?」
「うん。それも、すごく立派なやつ」
アルヴェインは立ち上がった。
遠くを見る。
確かに、村には似つかわしくない大きな馬車が入ってきていた。
王国の紋章。
それを見た瞬間、アルヴェインは小さく息を吐いた。
「……王都か」
「王都?」
「嫌な予感がする」
「どうして?」
「立派な馬車は、大抵ろくな用事で来ない」
「そんなことないと思うけど」
ミレアが笑った。
アルヴェインは鍬を置く。
「まあ、話くらいは聞くか」
◇
馬車は畑の前で止まった。
中から一人の男が降りてくる。
王国の紋章が入った服。
村人たちが少し離れたところから様子を見ている。
男はアルヴェインの前まで来ると、深く頭を下げた。
「アルヴェイン殿」
「俺だが」
「王都より参りました」
男は懐から封蝋された書状を取り出した。
「こちらを」
アルヴェインは受け取る。
封を切り、中を読む。
内容は簡潔だった。
王都へ赴き、魔王軍への対策会議に参加されたし。
アルヴェインは最後まで読んでから、静かに紙を折った。
「断っていいか?」
使者の顔が固まった。
「……できれば、ご同行いただきたいのですが」
「そうか」
「王国としても、アルヴェイン殿のお力を必要としております」
「もう必要ないだろう」
「しかし――」
アルヴェインは畑を見る。
「俺には畑がある」
「……畑、ですか」
「ああ」
使者が戸惑う。
ミレアが横で苦笑した。
「アルじいさん、本気だから」
「そうなのですか……」
アルヴェインは頷く。
「昔は王都から呼ばれれば行った」
「では――」
「だが、今は違う」
アルヴェインの声は穏やかだった。
「俺はもう、戦場へ戻るつもりはない」
使者は黙った。
「お断りになるのですか?」
「ああ」
アルヴェインは書状を返した。
「王都には、そう伝えてくれ」
◇
使者が帰ったあと。
ミレアはアルヴェインの隣に立っていた。
「本当に断ったんだね」
「ああ」
「王都からのお願いなのに」
「王都からだろうが、村からだろうが同じだ」
「何が?」
「俺には、ここでやることがある」
アルヴェインは畑を見る。
小さな芽。
土。
支柱。
水桶。
「戦争より難しい」
「畑が?」
「ああ」
ミレアが笑った。
「アルじいさんらしいね」
「そうか?」
「うん」
◇
――数十年前。
王都。
若きアルヴェインたち四人は、王城へ呼ばれていた。
「大賢者アルヴェイン」
高官がそう呼ぶ。
アルヴェインは少し眉を寄せた。
「……その呼び方は必要ですか?」
高官が笑う。
「必要だとも」
ラウルが横から口を挟む。
「いいじゃないか。格好いいぞ」
「お前は黙ってろ」
「なんでだよ」
セレナが笑う。
「アルは昔から、こういうの苦手だもの」
リディアは黙って地図を見ていた。
「今回の任務は重要です」
高官が説明する。
「魔王軍が北方の都市を狙っています」
地図上の一点を指す。
「ここを守ってほしい」
アルヴェインは地図を見つめた。
「分かりました」
それだけだった。
王国にとっては重大な任務。
だがアルヴェインにとっては、
目の前の人を守るための戦い。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
◇
戦場。
魔王軍の攻撃が始まる。
兵士たちが押されている。
アルヴェインは空を見た。
「……風が変わった」
リディアが尋ねる。
「何か分かった?」
「ああ」
アルヴェインは地図を見る。
「敵は正面から攻めているように見せて、左から回り込む」
「根拠は?」
「風と煙」
リディアが目を細める。
「……確かに」
「ラウル」
「任せろ!」
ラウルが前線へ走る。
「セレナ」
「分かってる」
負傷者のもとへ向かう。
アルヴェインは魔法を展開する。
巨大な攻撃魔法ではない。
地面をわずかに変える。
敵の進路を狭める。
風の流れを変える。
敵の魔法を逸らす。
それだけで、戦場の流れが変わっていく。
「今だ!」
ラウルの声。
王国軍が一斉に動く。
魔王軍が崩れる。
◇
戦いが終わった。
街の人々が外へ出てくる。
「助かった……」
「ありがとう!」
子供がアルヴェインの前まで走ってくる。
アルヴェインはしゃがみ込んだ。
「怪我はないか?」
「うん!」
子供が笑う。
その後ろから、別の声が上がった。
「大賢者だ!」
「大賢者アルヴェイン!」
「王国を救った英雄だ!」
アルヴェインは立ち上がる。
「……英雄?」
ラウルが笑う。
「聞いたか?」
「聞こえた」
「すごいじゃないか」
「違う」
「何が?」
「俺一人で救ったんじゃない」
ラウルは少し黙る。
セレナが微笑む。
リディアも小さく頷く。
だが、人々の声は止まらなかった。
「英雄だ!」
「大賢者様!」
アルヴェインは困ったように空を見上げた。
◇
その夜。
四人は焚き火を囲んでいた。
「アル」
セレナが呼ぶ。
「何だ?」
「嬉しくない?」
「何が?」
「英雄って呼ばれたこと」
アルヴェインは炎を見る。
「俺が助けたかったのは、名前じゃない」
セレナは黙って聞いている。
「人が死なないことだけだ」
しばらく沈黙が続く。
セレナが静かに言った。
「じゃあ、それを忘れないで」
「……ああ」
その言葉は、アルヴェインの心に残った。
◇
――現在。
夜。
アルヴェインは畑にいた。
王都から届いた書状を手にしている。
遠くではガルが畑を見張っている。
「昔は、王都から呼ばれるのが当たり前だったな」
アルヴェインは呟いた。
王都。
戦場。
仲間たち。
大勢の人々。
そして、自分を英雄と呼ぶ声。
もう遠い昔のことだ。
「……俺はもう、戻らない」
アルヴェインは書状を折った。
畑を見る。
小さな苗が風に揺れている。
「ここで十分だ」
そのとき、村のほうからミレアの声がした。
「アルじいさん! 夕飯できたよ!」
「今行く」
アルヴェインは振り返る。
そして、少し笑った。
かつては王都から呼ばれるたび、戦場へ向かった。
今は。
畑から食卓へ呼ばれている。
「……こっちのほうがいいな」
アルヴェインは鍬を置き、村へ歩いていった。
◇
その頃。
王都では、アルヴェインからの返答が届いていた。
――辞退。
報告を受けた高官は、しばらく黙っていた。
「……大賢者が、戦場へ戻らない?」
別の男が答える。
「はい」
「なぜだ?」
「分かりません」
机の上に、アルヴェインの返書が置かれている。
短い一文だけだった。
『もう十分だ』
王都の誰も、その言葉の本当の意味をまだ知らない。
そして。
遠い村の畑では、名も知られぬ農夫が、静かに夕食へ向かっていた。




